金山城跡(太田金山城):関東の山城観をくつがえした石垣と石敷きの大手虎口

関東の山城は土でできている。長いあいだ、それが常識でした。ところが群馬県太田市の金山城を発掘したところ、石垣が出てきます。それも部分的な補強ではなく、通路を石で敷き、虎口の左右を石で固め、山上の池まで石で囲った、全面的な石の城でした。関東の城の見方を書き換えてしまった城です。しかもこの城は上杉謙信の攻撃を五度も退けています。築いたのは新田一族の岩松氏、それを下剋上で奪ったのが横瀬(のちの由良)氏。北条と上杉のあいだを渡り歩きながら、この山を手放さなかった家の城です。

この記事のポイント
  • 発掘で大量の石垣と石敷きが出土し、関東の山城観をくつがえした
  • 大手虎口は石で固められ、通路まで石が敷きつめられている
  • 山上に日ノ池・月ノ池という石積みの池があり、水を確保していた
  • 上杉謙信の攻撃を五度退けたと伝わる堅城
  • 秀吉の北条攻めで落ち、そのまま廃城になった
目次

石で固められた大手虎口

金山城跡の大手虎口に続く石敷きの通路と両側の石垣

両側を石垣にはさまれた通路。地面まで石が敷きつめられ、奥へ向かって石段が続いている。

写真が金山城でいちばん有名な場所、大手虎口です。左右を石垣で固め、通路には石を敷き、段をつけて登らせている。これを見て「関東の山城」と即答できる人は多くないはずです。土を削り、土を盛るのが関東の城の流儀で、佐倉城も館林城も石をほとんど使っていません。理由は単純で、関東平野には石がないからです。ところが金山は違いました。この山は硬い岩でできていて、掘れば石が出る。運ぶ必要がないのなら、使わない手はありません。発掘調査が進むまで、この城もまた土の城だと思われていました。土に埋もれていた石垣が姿を現したとき、関東の中世城郭をどう理解するかという枠組みそのものが揺れたのです。

▽ よく語られる話

関東の中世の山城は土塁と堀切だけでできていて、石垣は織田信長の安土城まで現れない。

▼ 史実ではこうです

金山城の発掘は、その理解を大きく修正しました。ここでは戦国期の段階で石垣・石敷き・石段が広く用いられており、安土城よりも前の関東に、石を使いこなす技術があったことがはっきりしています。似たことは近江の観音寺城でも確認されていて、石垣の歴史は一本の直線ではありません。ただし、どこでも石を使えたわけではない点も大事です。石が近くで採れるかどうかが決め手で、金山のように岩山に城を築いた場合にかぎって、石の城が成立しました。

山上の池 ― 日ノ池と月ノ池

金山城跡の石垣と、その脇を通る土の道

石を積んだ低い壁と、その足元を通る道。斜面のあちこちに石が組まれ、手前には解説板が立っている。

山城の最大の弱点は水です。籠城が長引けば、まず水が尽きます。金山城はそこに正面から手を打っていて、山上に日ノ池と月ノ池という二つの池を設けました。しかも両方とも石を積んで縁を固めた、しっかりした構造物です。とくに日ノ池は直径十五メートルを超える大きなもので、飲み水を溜めるだけでなく、儀式にも使われたと考えられています。籠城の備えであると同時に、城主の権威を示す装置でもあった。上杉謙信が五度攻めて五度とも落とせなかったというのは、単に地形が険しかったからではありません。長く籠もれる設計がなされていたからです。同じころ越後から出撃を繰り返した謙信が、能登の七尾城でも一年かかっていることを思い出すと、当時の山城が攻める側にとってどれほど厄介だったかがわかります。

岩松から横瀬へ ― 下剋上でこの山を得た家

金山城跡に立つ「史蹟 金山城址」の石碑と案内板

「史蹟 金山城址」と刻まれた石碑。傍らに案内板が並び、背後には社殿の屋根が見える。

城を築いたのは新田一族の岩松家純です。新田といえば南北朝で足利と争った新田義貞の家で、この一帯は新田荘と呼ばれた古い所領でした。ところが岩松氏は、家臣だった横瀬氏に実権を奪われます。横瀬氏はのちに由良と名を改め、この山の主として戦国を生き抜きました。主家を押しのけて城を握るという形は、能登で畠山氏を骨抜きにした七人衆や、近江で六角氏に分国法を署名させた家臣団と同じで、戦国のなかばに各地で起きたことです。由良成繁・国繁の親子は、上杉に従い、離れ、北条につき、また揺れながら家名を保ちました。節操がないと言われそうですが、上野は上杉と北条がぶつかる真正面にあります。どちらか一方に固定すれば、負けたときに家が消える。生き残るための選択でした。

小田原へ行った当主と、残された城

金山城跡の「金山城跡」と刻まれた石碑と石段

紅葉した木立の下に立つ石碑。「金山城跡」と刻まれ、その奥に東屋と石段が続いている。

相越同盟が破れると、由良氏は北条方として定まります。そして秀吉の小田原攻めのとき、当主は北条方の一員として小田原城へ入りました。城には家臣が残されましたが、前田利家らの軍勢に攻められて落城します。五度も謙信を退けた城が、豊臣の大軍の前ではあっけなく落ちた。ただしこれは城が弱かったのではなく、状況がまるで違ったからです。主力は小田原に釘づけで、後詰は来ない。しかも攻める側は日本中の兵を集めています。同じ小田原攻めで落ちた山中城も、堅固さで名高い城でした。北条方の支城網は、それぞれが強くても、小田原に人が集まってしまえば空き家に近くなる。その弱点を秀吉は正確に突きました。落城後、金山城は使われることなく廃城となります。徳川の世になっても再建されなかったのは、平地に館林城のような城があれば足りたからでしょう。

新田氏の本拠だった土地

金山城が建つ太田の一帯は、もともと新田荘と呼ばれた土地でした。新田氏は清和源氏の流れをくむ家で、鎌倉幕府を攻め滅ぼした新田義貞を出しています。義貞が兵を挙げたのもこの近くで、生品神社に旗を立てたところから鎌倉への進撃が始まりました。その新田一族の末流が岩松氏で、金山に城を築いたのはこの家です。つまり金山城は、鎌倉を倒した家の子孫が戦国を生きるために築いた城ということになります。もっとも、その家から城を奪ったのは家臣の横瀬氏でした。鎌倉を滅ぼした一族が、二百年後には自分の家臣に山を取られている。家の格や由緒が、戦国ではほとんど力にならなかったことを、この土地の歴史はよく示しています。武士の家がどう入れ替わっていったかは、同じ北関東の烏山城や佐野城の記事でも追えます。

訪ね方と見どころ

金山城跡に立つ日本百名城の石碑

芝地に据えられた岩の上に「日本百名城 金山城」と記された銘板がはめこまれている。奥は木の柵と林。

所在地は群馬県太田市金山町。日本100名城の十七番です。山頂近くまで車道が通っていて、駐車場から歩いて十分ほどで大手虎口に着きます。順路としては、まず大手虎口の石敷きを歩いてください。ここが金山城のすべてです。石垣にはさまれた道を登りながら、これが関東の山城なのだと頭のなかで何度か確認することになります。次に日ノ池と月ノ池。石で囲われた池が山の上にあるという事実を、実物で確かめられます。いちばん上の実城(みじょう)跡には新田神社が鎮座していて、城跡がそのまま神域になっている。写真の石碑はその近くに立っています。麓には史跡金山城跡ガイダンス施設があり、発掘の成果や復元の考え方が展示されているので、先に寄っておくと山の上での見え方が変わります。日本100名城の一覧もあわせてどうぞ。

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金山藩/松平家2万5千石:松平忠頼 遠州浜松藩へ移封のため廃藩

金山城の地を治めた金山藩が、幕末をどう生きたかをまとめています。

金山城跡・場所とアクセス

〒373-0027 群馬県太田市金山町40-98

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城の基本用語:曲輪・堀・土塁・虎口・馬出をイラストで読み解く
案内板に出てくる言葉を、断面図と配置図でまとめました。

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