織田信雄は本当に無能だったのか:四つの失敗と、信長の子で唯一幕末まで残った家

陣中で単独講和の書状を受け取る織田信雄のイメージイラスト
この記事のポイント
  • 「無能」と言われる根拠は、おおむね四つに整理できます。
  • そのうち伊賀攻めの独断は、確かに擁護しにくい失敗です。
  • 一方で、小牧・長久手では信雄の側が戦場で勝っています。
  • 転封を拒んで改易された一件は、評価が分かれるところです。
  • 信長の子で、大名として幕末まで家を残したのはこの人だけです。

織田信雄は、父の跡を継げなかった信長の次男です。伊賀で独断の大敗、家老三人の誅殺、家康に断りのない単独講和、そして転封拒否による改易。並べると確かに分が悪い。ただ、この人は信長の子のなかでただ一人、大名として家を幕末まで残しています。何ができなかったのか、そして何ができたのか。順に見ていきます。

目次

「無能」と言われる理由を、先に並べます

擁護から入ると話が歪むので、批判されている点を先に出します。

  • 一、父の許しを得ずに伊賀へ攻め込み、大敗した
  • 二、家老三人を秀吉への内通を疑って誅殺し、戦を招いた
  • 三、味方であるはずの家康に断りなく、単独で秀吉と講和した
  • 四、先祖の地を離れる転封を拒み、改易された

どれも実際にあったことです。ここから一つずつ見ます。

一、伊賀攻めの独断 ― これは擁護しにくい

天正七年、信雄は父の許可を得ないまま伊賀へ攻め込み、大敗しました。この一件は弁護のしようがありません。

信長は激しい叱責の書状を送ったと伝わります。父子の縁を切るという趣旨まで書かれていたといいます。

伊賀は土豪たちが横に連なった土地で、正面から攻めて簡単に落ちる場所ではありませんでした。二年後、信長自身が大軍で臨んでようやく平定しています。難所であることを見誤り、しかも父の統制を外れて動いた。若さを差し引いても、判断としては落第です。

徳川家康が陣を置いた小牧山城

小牧山城。家康はここに陣を置き、信雄はその側に立ちました。

二、家老三人の誅殺 ― 短慮か、実際にあった調略か

天正十二年、信雄は津川義冬・岡田重孝・浅井長時という三人の家老を、秀吉への内通を疑って誅殺しました。これが小牧・長久手の直接の引き金になります。

▽ よく語られる話

疑心暗鬼にかられ、罪のない重臣を斬った。短慮な男の典型である。

▼ 史実ではこうです

三人が実際にどこまで秀吉と通じていたかは確定していません。ただ、秀吉がこの時期、各地で家臣の切り崩しを常套手段にしていたことは動きません。信雄が疑ったこと自体は的外れとは言えないのです。問題は処理の仕方でした。斬れば秀吉との決裂は避けられなくなります。疑いを持ったことと、斬るという手を選んだことは分けて考える必要があります。

陣中で単独講和の書状を受け取る織田信雄のイメージイラスト

イメージ(イラスト)|陣中で講和の書状を前にする場面。信雄が降りた瞬間、家康は戦う名目を失いました。

三、単独講和 ― ここは別の記事で詳しく

長久手では家康が池田恒興・森長可を討ち取り、戦場では勝っています。ところが戦線は膠着し、秀吉は伊勢方面から信雄の領地を削っていきました。

そして十一月、信雄は家康に断りなく秀吉と講和します。信雄が降りた瞬間、家康は戦う名目を失いました。「秀吉が織田家をないがしろにしている」という大義が、当の織田家当主に取り下げられたからです。

この判断の中身については、一本まるごと使って扱いました。

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織田信雄はなぜ家康に断りもなく秀吉と和睦したのか

秀吉が出した条件と、信雄が何を守ろうとしたのかを追っています。

四、転封拒否 ― 評価が分かれるところ

天正十八年、小田原が落ちたあと、秀吉は信雄に転封を命じます。家康が移ったあとの三河・遠江方面へ移れ、という内容でした。

信雄はこれを拒みました。結果、所領をすべて取り上げられ、下野の烏山へ、のちに出羽へと送られます。

従っていれば大大名のままでいられたのに、と言われる一件です。ただ、拒んだ理由を考えると話は単純ではありません。移れと言われたのは、父祖の地である尾張・伊勢を手放せということでした。織田家の当主にとって、それは名字の由来する土地を捨てることを意味します。

愚かと見るか、筋を通したと見るか。ここは読む人によって割れるところです。

図でみる|織田信雄がたどった道

織田信雄がたどった道場所何が起きたか天正七年伊賀父の許しを得ずに攻め込み、大敗する天正十年清須本能寺のあと、弟の信孝と後継を争う天正十二年小牧家老三人を誅殺し、家康と結んで秀吉と戦う天正十二年伊勢家康に断りなく、単独で秀吉と講和する天正十八年小田原転封を拒み、改易。下野の烏山へ送られる元和元年大和・上野赦されて五万石。家は幕末まで続く織田信長の子で、大名として幕末まで家を残したのはこの人だけ。

図|失敗も多いかわりに、最後まで生き延びています。

では、この人は何ができたのか

失敗ばかり数えると見落とすものがあります。

まず生き延びています。信長の子は、長男の信忠が本能寺で死に、三男の信孝は信雄と秀吉に追い詰められて自害しました。本能寺のあとの十年で、織田家の当主格は次々に消えています。そのなかで信雄は、改易されても命は取られていません。

次に家を残しました。大坂の陣では豊臣方に誘われながら城を出て、徳川方に立ちます。この判断で赦され、大和と上野に合わせて五万石を得ました。

そして文化の人でした。茶の湯と能に深く通じ、その方面での評価は当時から高いものでした。戦国の大名にとって、これは余技ではなく交際の技術でもあります。

織田信長の子で、幕末まで家が続いたのはこの人だけ

ここが一番語られない事実です。

信雄の子孫は二つに分かれ、上野小幡から出羽天童へ、大和宇陀松山から丹波柏原へと移りながら、いずれも大名として明治を迎えています。

織田信長の直系で、大名の家格を保ったまま幕末まで続いたのは、信雄の系統だけです。天下人の家が二代で消えることが当たり前だった時代に、負け続けた次男の家だけが残りました。

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この人をどう読むか

信雄を有能だったと言い張るつもりはありません。伊賀の一件は明白な失敗ですし、家老を斬った処理も拙い。戦の指揮で名を残した記録もありません。

ただ、戦国の武将を「戦の巧拙」だけで測ると、この人の輪郭は見えなくなります。

信長の子であることは、能力である前に立場でした。担がれ、利用され、口実にされる立場です。清須会議でも小牧・長久手でも、信雄は自分の力で局面を作ったのではなく、他人が作った局面に置かれた側でした。

その立場で、命を落とさず、家を残した。負け方を間違えなかった、という評価の仕方はできます。

父と兄は勝ちつづけて、二代で消えました。次男の家だけが二百六十年続いたという事実は、戦国の勝ち負けが何で決まるのかを考えさせます。

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