- 多賀城は戦国の城ではなく、奈良時代に置かれた国の役所であり、軍事の司令部でした。
- 陸奥国府と鎮守府が同じ場所にあった、全国でも例の少ない城です。
- 境内に立つ多賀城碑は、日本三古碑の一つに数えられます。
- 松尾芭蕉が『おくのほそ道』で涙を落としたのが、この碑の前でした。
- 宝亀十一年、反乱によって政庁が焼かれています。
多賀城は、天守も石垣もない城です。奈良時代に陸奥国の国府が置かれ、同時に蝦夷に対する軍事の拠点でもありました。役所と司令部が一つになった城です。そしてここには、日本三古碑に数えられる多賀城碑が立っています。松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅で涙を落としたのは、この石の前でした。
戦国の城ではなく、国の役所だった
城と聞いて思い浮かぶ天守や石垣は、ここにはありません。多賀城が築かれたのは奈良時代です。
置かれたのは二つの役所でした。一つは陸奥国府。国司が政務をとる、いまで言う県庁にあたります。もう一つは鎮守府。蝦夷に対する軍事を司る役所です。
行政と軍事の頂点が、同じ敷地に同居していました。これは全国を見ても例の少ない形で、当時の陸奥がどういう土地と見られていたかを示しています。
敷地の広さは約九百メートル四方。中央に政庁を置き、周囲を築地塀で囲んだ、都の官庁を野に移したような造りでした。
多賀城碑 ― 都からの距離が刻まれた石
城跡に、覆屋に守られた石碑が立っています。多賀城碑です。
刻まれているのは、まず距離でした。京を去ること一千五百里、蝦夷の国境を去ること百二十里—そういった数字が並びます。
この書き方が、多賀城の性格をそのまま表しています。都からどれだけ遠く、境からどれだけ近いか。ここが「内」と「外」の境目に置かれた施設だったことが、一枚の石に要約されています。
そして創建と修造の記録があります。神亀元年に大野東人が置き、天平宝字六年に藤原恵美朝獦が造り直したという内容です。
日本三古碑の一つ ― 残りの二つはどこにあるか
多賀城碑は、日本三古碑の一つに数えられます。あとの二つは、群馬県の多胡碑と、栃木県の那須国造碑です。
三つのうち二つが東国にあるというのは、考えてみると面白いところです。文字を刻んで残そうとする意思が、都から遠い土地でこそ強く働いたとも読めます。
芭蕉は、この石の前で泣いた
『おくのほそ道』の旅で、松尾芭蕉はこの碑を訪ねています。
芭蕉の旅は、名所を訪ねては失望することの連続でした。歌に詠まれた土地へ行ってみると、川筋は変わり、松は枯れ、昔の面影がない。千年のあいだに、山は崩れ、川は流れを変え、道は改まり、石は土に埋もれてしまう—芭蕉はそう書いています。
ところがこの碑だけは違いました。千年の昔の姿が、そのままそこに立っていた。
芭蕉は「行脚の一徳、存命の悦び」と書き、旅の疲れも忘れて涙を落としたと記しています。『おくのほそ道』のなかで、芭蕉がはっきり泣いたと書いている場所は多くありません。
黒羽で十四日を過ごし、白河の関を越えて陸奥へ入り、この石の前に立った。同じ旅の、続きの場面です。
宝亀十一年、政庁が焼かれた
多賀城は一度、大きく焼けています。
宝亀十一年、蝦夷の側から朝廷に仕えていた伊治呰麻呂が反乱を起こし、多賀城を襲いました。政庁は焼失します。
内側にいた者が反旗をひるがえしたという点が、この事件の重さです。城は建て直されますが、蝦夷との関係が力で押さえきれるものではないことが、はっきりした出来事でもありました。
のちに坂上田村麻呂が鎮守府を北の胆沢へ移し、多賀城は国府としての役割が中心になっていきます。
図でみる|多賀城のたどった千三百年
図|戦国の城ではなく、国の役所であり、辺境の司令部でした。
いま見られるもの
城跡は国の特別史跡に指定され、政庁跡が広く整備されています。礎石が並び、建物の配置が地面の上に示されているので、役所の形がそのまま歩いて確かめられます。
南門も復元されました。多賀城碑は覆屋のなかで見られます。
そして城跡のすぐそばには、東北歴史博物館があります。発掘された品を見てから歩くと、地面の下に何があるのかが分かります。
なぜ日本100名城に入っているのか
天守も石垣もない城が、なぜ100名城の七番に選ばれているのか。
答えは、この国が「城」という言葉で何を指してきたかの幅を、多賀城が示しているからです。
戦国の城は、敵を防ぐための構築物でした。多賀城はそうではありません。国を治めるために置かれた役所であり、同時に境を守る軍の拠点でした。城という言葉の、もう一つの意味がここにあります。
近世の城とは何もかも違いますが、だからこそ見ておく価値があります。
多賀城跡へのアクセス
宮城県多賀城市市川立石。城跡は広いので、政庁跡と多賀城碑の位置を先に確かめてから歩くのがおすすめです。

