真田昌幸と幸村(信繁)はなぜ九度山に流されたのか|高野山への配流から麓の九度山へ ─ 安藤政信が演じる幸村が14年を過ごすまで

六つの銭の紋の赤い旗のもと、山城の曲輪から谷を見下ろす甲冑姿の武将の一族の後ろ姿
この記事のポイント
  • 関ヶ原のあと、死罪を免れた真田昌幸と信繁(幸村)に命じられたのは、高野山での蟄居でした。高野山は、戦に敗れた武将や政争に敗れた人が身を寄せる場所として、古くから使われてきた土地です
  • 真田家と高野山には古いつながりがありました。高野山の蓮華定院は、真田領の人びとが高野山にのぼるときの宿坊と決められていた寺で、父子が身を寄せる先としても縁のある場所だったのです
  • 父子ははじめ高野山のふもとの細川に置かれ、まもなく九度山に移りました。高野山は女人禁制で、信繁の妻子をともなっていたことや、山上の冬の寒さが理由と考えられています
  • 九度山では父子がそれぞれ屋敷を構え、家族や家臣とともに暮らしました。ただ収入はなく、兄の信之からの仕送りや借金に頼る苦しい生活が十四年続きます

ドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』の第1話では、師の白雲斎が残した「九度山へ向かえ」という言葉に導かれて、岩本照さん演じる猿飛佐助が、安藤政信さん演じる真田幸村のもとを訪ねます。では、真田幸村(信繁)はなぜ、紀伊の山奥の九度山にいたのでしょうか。この記事では、関ヶ原の敗戦から高野山への配流が決まり、九度山に落ち着くまでの経緯をたどります。

目次

九度山に流されるまでの流れ

時期 できごと
慶長5年(1600)9月 関ヶ原の戦いで西軍が敗れる。昌幸・信繁は上田城で秀忠軍を足止めしていた
同年 父子に死罪が言い渡されるが、信之と本多忠勝の嘆願で高野山への蟄居に改められる
同年12月13日 父子が上田城を発ち、紀伊国へ向かう
その後まもなく 高野山のふもとの細川に置かれ、やがて九度山に移る
慶長16年(1611) 昌幸が九度山で亡くなる
慶長19年(1614) 信繁が九度山を抜け出し、大坂城に入る

関ヶ原の戦いで西軍についた昌幸と信繁は、いったん死罪を言い渡されましたが、徳川方についた長男の信之と、その舅の本多忠勝の嘆願によって命を救われました(真田昌幸と幸村はなぜ命を救われたのか)。代わりに命じられたのが、高野山での蟄居でした。

なぜ高野山だったのか

戦国時代から江戸時代のはじめにかけて、高野山は、戦に敗れた武将や罪を問われた人が身を寄せる場所として使われてきました。大名の領地ではなく寺の土地で、俗世から離れて謹慎するという意味合いがあったからです。豊臣秀吉の甥・秀次が関白の座を追われたときに送られたのも高野山でした。

そのうえ、真田家と高野山には古くからのつながりがありました。高野山の蓮華定院は、真田領の人びとが高野山にお参りするときに泊まる宿坊と決められていた寺で、昌幸はまだ武田家の家臣だった天正8年(1580)に、蓮華定院とそうした取り決めを結んだ文書を残しています。長篠の戦いで亡くなった兄たちの供養も、昌幸はこの寺で営んでいました。高野山は、真田父子にとって見知らぬ流刑地ではなく、一族が長く頼りにしてきた寺のある山だったのです。

上田城跡の櫓と石垣
上田城跡(長野県上田市)。慶長5年12月、昌幸と信繁はこの城を発って紀伊国へ向かいました

上田を発ち、高野山のふもとへ

慶長5年(1600)12月13日、昌幸と信繁は上田城を発って紀伊国へ向かいました。昌幸の正室(山手殿)は上田に残りましたが、信繁の妻子と十数人の家臣が二人に付き従ったとされます。九度山まで従った家臣としては、高梨内記や青柳清庵(春庵とも)の名が知られています(真田十勇士は誰に仕えたのか)。

なぜ高野山の上ではなく、九度山だったのか

父子ははじめ高野山のふもとの細川という場所に置かれましたが、まもなく紀の川に近い九度山へ移りました。その理由としてよく挙げられるのが、高野山の女人禁制です。高野山には女性がのぼることができず、妻子をともなった信繁が山の上で暮らすことはできませんでした。また、標高の高い高野山の冬の寒さは厳しく、それに耐えかねたためともいわれます。

九度山という土地には、もともと女性とのゆかりがありました。弘法大師空海の母が高野山にのぼれずにふもとで暮らし、空海が月に九度もその母を訪ねたことが地名の由来と伝わり、母が住んだ慈尊院は「女人高野」と呼ばれています。妻子とともに暮らすには、ちょうどふさわしい場所だったといえるかもしれません。

九度山での暮らし

九度山では、昌幸と信繁がそれぞれ屋敷を構え、ふつうの流人よりは手厚く扱われたとされます。紀伊を治めていた浅野家は、真田父子を見張る立場であると同時に、暮らしを助ける役目も担っていました。とはいえ、領地を失った父子には収入がなく、生活費の多くを兄の信之からの仕送りや、蓮華定院、浅野家からの援助に頼っていました。昌幸は十年あまりのあいだに、信之へ二十通を超える手紙を送って援助を頼んでいます。

昌幸は信之を通じて赦免を願い続け、国元へ帰れる日を待っていましたが、許されることはありませんでした。年を重ねるにつれて病がちになり、慶長16年(1611)、九度山で亡くなります。信繁はその後も九度山にとどまり、子どもたちを育てながら暮らしました。九度山で生まれ育った子もいて、嫡男の大助(幸昌)はこの地で成長しています。

▽ よく語られる話
九度山の真田父子は、牢屋のような場所に閉じ込められ、外にも出られない幽閉生活を送っていた。
▼ 史実ではこうです
父子は九度山にそれぞれ屋敷を構え、家族や家臣とともに暮らしていました。勝手に九度山を離れることは許されませんでしたが、近くの人びととの行き来もあり、牢獄のような幽閉とは違っていたとされます。つらかったのは閉じ込められたことより、収入がなく、いつ赦されるかもわからないまま年月が過ぎていったことでした。

そして、九度山からの脱出へ

慶長19年(1614)、豊臣家と徳川家の対立が決定的になると、信繁は豊臣秀頼の招きに応じて九度山を抜け出し、大坂城に入りました。九度山周辺の地侍や高野山ゆかりの人びとも加わり、数百人ほどの一団になって大坂城へ向かったとする見方もあります(大坂の陣(冬・夏)をわかりやすく解説)。ドラマで描かれるのは、ちょうどこの脱出の前夜の九度山です。

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よくある疑問

Q. 真田幸村はなぜ九度山に流されたのですか?
A. 関ヶ原の戦いで西軍についたためです。死罪を言い渡されましたが、兄の信之らの嘆願で命を救われ、高野山での蟄居に改められました。そのうえで、妻子をともなっていたことなどから、高野山のふもとの九度山で暮らすことになりました。

Q. なぜ高野山の上ではなかったのですか?
A. 高野山は女人禁制で、信繁の妻子がのぼれなかったことや、冬の寒さが厳しかったことが理由と考えられています。

Q. 九度山にはどれくらいいたのですか?
A. 慶長5年(1600)の暮れから慶長19年(1614)まで、およそ十四年です。父の昌幸は慶長16年(1611)に九度山で亡くなりました。

Q. 九度山での生活費はどうしていたのですか?
A. 兄の信之からの仕送りのほか、高野山の蓮華定院や紀伊の浅野家からの援助、借金などでまかなっていたとされます。

Q. ドラマの第1話は九度山から始まるのですか?
A. 公表されているあらすじでは、関ヶ原から14年後、九度山に幽閉されている幸村(安藤政信さん)のもとへ、猿飛佐助(岩本照さん)が向かうところから物語が動き出します。

まとめ

真田昌幸と信繁が九度山に流されたのは、関ヶ原で西軍についた罪を、信之らの嘆願で死罪から高野山での蟄居に改められたからでした。真田家と縁の深い高野山が配流先に選ばれ、妻子をともなう暮らしのために、女人禁制の山の上ではなく、ふもとの九度山に落ち着きます。父の死を見送り、十四年を耐えた信繁が九度山を抜け出すとき、物語は大坂の陣へと動き出すのです。

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