【城の説明】
享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方「足利成氏」が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となりました。その後も足利政氏・高基・晴氏・義氏へと約130年もの間、古河公方足利家は続いていく。その古河公方が代々拠点としてきた城が「古河城」です。
この古河城は中世関東の中心地でした。戦国時代に入ると北条家の関東進出とともに古河公方家も飲み込まれてしまいます。そして、北条氏綱の娘が古河公方のもとへ嫁ぐことにより、一層北条家の支配力が強まった。その後関東の騒乱の中で古河公方家は紆余曲折するが、北条氏康の甥「足利義氏」が没すると後継ぎがなく、ここに古河公方家は断絶することになります。


元々古河城は渡良瀬川沿いに築かれていましたが、残念ながら河川の改修工事のため跡かたもなく取り壊されてしまいました。しかし、河川の土手には古河城本丸跡という碑が残されております。なかなか見る機会はないと思いますので、渡良瀬川付近をご散策の際は探してみるのも面白いかもしれません。

関東の首都だった城
古河城は、関東を二分した争乱の中心にあった城です。鎌倉公方の足利成氏が鎌倉を出て古河に移り、ここを本拠としました。以後、政氏・高基・晴氏・義氏と、古河公方の家は百三十年ほど続きます。渡良瀬川の流れと低湿地に守られ、水運で江戸湾ともつながる場所でした。関東の武士たちにとって、命令が出る場所はこの城だったのです。
北条に取り込まれ、血筋が絶えた
戦国期に入ると、小田原の北条氏が関東へ勢力を広げます。北条氏綱は娘を古河公方家へ嫁がせ、やがて公方を後ろから動かす立場になりました。最後の公方・足利義氏は北条氏康の甥にあたります。その義氏に男子がなく、古河公方の家はここで絶えました。権威だけが残って中身が入れ替わり、最後は静かに消えていったことになります。北条氏の最期は小田原征伐で書いています。
江戸時代は古河藩の城
徳川の世になると、古河は日光街道の要地として重く見られました。土井利勝をはじめ幕府の中枢にいた大名が代々城主に置かれ、城は近世城郭として大きく作り直されます。本丸には三層の御三階櫓が上がり、天守の代わりを務めました。近くの下館城や結城城、宇都宮城と並べると、北関東に幕府がどう重しを置いたかが見えてきます。
川の工事で消えた城
明治以降、渡良瀬川の改修で城域の大半が掘り崩され、堀も土塁も失われました。日本の城跡のなかでも、これほどきれいに消えた例は多くありません。いまは堤防の上に「古河城本丸跡」の碑が立つだけです。城の造りを示す言葉は城の基本用語にまとめました。
現地はいま
本丸跡の碑は渡良瀬川の土手にあり、周囲は河川敷です。市街地側には出城だった諏訪曲輪の一帯が残り、古河歴史博物館や蘭学者・鷹見泉石の記念館が建っています。城そのものは消えても、城下町の道筋と蔵のある町並みは歩いて追えます。
【古河城・場所・アクセス】
〒306-0033 茨城県古河市中央町3-10-56
【古河城地図】
この城を含む北条家の支城と城主の配置は北条家の領国とはで地図と表にまとめています。北条家百年の歩みは北条五代100年の歴史、滅亡のきっかけは名胡桃城事件とはをどうぞ。

