館山城は、安房の戦国大名・里見氏が最後に本拠とした城です。天正十九年(一五九一)に九代義康が岡本城から移り、館山湾の湊を抱えた城下町がつくられました。しかし慶長十九年(一六一四)、十代忠義が伯耆へ移されて城は取り壊されます。城として使われたのは、わずか二十四年でした。いま山頂に建つ三層四階の天守は昭和につくられた模擬天守で、なかは『南総里見八犬伝』の博物館になっています。
- 安房里見氏が最後に置いた本拠。使われたのは二十四年だけ
- 湊を押さえるために選ばれた海際の山城で、北と東の低地には水堀がめぐっていた
- 十代忠義が大久保忠隣の失脚に連座して伯耆へ移され、城は破却
- 忠義に殉じた八人の家臣が『南総里見八犬伝』の八犬士のもとになったと伝わる
- 山頂の天守は昭和につくられた模擬天守で、当時の天守を示す史料はない

夏の館山城。入口の脇にのぼり旗が二本立ち、手前は芝生の広場になっている。
里見氏はなぜ館山へ移ったのか
里見氏は安房を地盤に、上総から下総へと勢力を伸ばした一族です。小田原の北条氏とは長く争い、久留里城に籠って攻撃をしのぎ、国府台では大敗も喫しました。房総の海と陸の両方を使って戦う、粘り強い大名でした。
その里見氏にとって大きな転機になったのが、天正十八年(一五九〇)の豊臣秀吉による小田原攻めです。里見義康も参陣しましたが、遅参したことと、私戦を禁じた命に背いていたことを理由に上総の所領を取り上げられ、安房一国だけを安堵されました。差出検地による高は四万石ほどで、関東随一の勢力とまで言われた家としては厳しい処分です。のちの検地で九万一千石まで高直しされますが、上総を失った事実は変わりません。
翌天正十九年(一五九一)、義康は富浦の岡本城から館山へ本拠を移します。山を選んだというより、湊を選んだ移転でした。館山湾は波が穏やかで、外洋に出る船を抱えるのに向いています。上総という陸の稼ぎ場を失った里見氏にとって、残された道は海でした。城の北と東に広がる低地には町が引かれ、水堀がめぐらされます。同じ年、義康は従五位下侍従・安房守に叙任されており、豊臣大名としてあらためて出直す構えを、城のかたちでも示したことになります。
城のかたち ── 切岸と堀、そして削られた山頂
城山の高さは六十五メートルあまり。低い山ですが、三方が急な斜面と崖で囲まれ、海からも陸からもよく目立ちます。山頂を削って平らにし、斜面を人の手で切り落として切岸とし、尾根の続く方向は堀切で断ち切る。関東の城らしく石垣にはほとんど頼らない、土の城です。
発掘では、幅十四メートル・深さ五メートルという箱堀が見つかっています。幅も深さも、房総の城としては大きな部類です。尾根を断ち切る堀切は現在一か所だけが残り、東側の斜面には堀の跡と見られる窪みがたどれます。山の上だけでなく、北と東の平地にも水堀を回して城下町ごと囲い込んでいたことが、絵図と発掘の両方から分かってきました。
山上には御殿もありました。梅園御殿、新御殿と呼ばれる区画があったことが記録に残り、発掘でも柱を立てた穴の並びが確認されています。戦のための詰めの城ではなく、政治と生活の場としてつくられた城だったわけです。
ただし、遺構の残り方はよくありません。戦時中にこの山は高射砲の陣地とされ、山頂が七メートルほど削り取られました。そのあと昭和五十年代の発掘で御殿の跡と堀が確認されましたが、本丸の地面そのものが失われている部分が多く、縄張りの全体像は今も完全には分かっていません。

冬の澄んだ空の下の天守。最上階には高欄と廻縁がめぐり、右手の白壁の建物が入口になっている。
関ヶ原のあと十二万石へ ── そして二十四年で消えた城
慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原で、義康は徳川方につきました。戦後、常陸鹿島郡に三万石あまりを加増され、里見家の石高はあわせて十二万石を超えます。安房一国に押し込められた十年前を思えば、大きな回復でした。
ところが慶長八年(一六〇三)、義康は三十一歳で世を去ります。跡を継いだ忠義はまだ幼く、家中は後見の家臣たちが支える形になりました。そして慶長十九年(一六一四)九月九日、重陽の祝いのため江戸城へ出仕しようとしていた忠義に、伯耆への国替えが言い渡されます。
理由として第一に挙げられるのは、大久保忠隣の失脚への連座です。忠義は慶長十六年(一六一一)に老中・大久保忠隣の孫娘を妻に迎えていました。忠隣が改易されると、その縁につながる忠義にも処分が及んだのです。忠隣の孫の一人である忠職はのちに騎西城に入っており、大久保の一族がどれほど大きく揺らいだかがうかがえます。ほかに、城の修築を行ったこと、牢人を召し抱えたことも理由として伝えられます。
館山城はこのとき取り壊されました。翌年に出される一国一城令を待つまでもなく、城主がいなくなった時点で城の役目は終わったのです。天正十九年に義康が移ってから、わずか二十四年でした。のちに安房には稲葉氏が一万石で入り館山藩が立ちますが、城は再建されず、麓に陣屋が置かれただけでした。
倉吉で果てた忠義と、八人の殉死
幕府が忠義に示したのは、伯耆国で三万石という条件でした。しかし実際に代官から引き渡されたのは、久米・河村の両郡のうち四千石だったと伝えられます。さらに元和三年(一六一七)、池田光政が因幡・伯耆に入ると、忠義は田中村へ移されて百人扶持という、大名とは呼べない扱いになり、のちに堀村へ移されました。
元和八年(一六二二)、忠義は二十九歳で亡くなります。遺骸は倉吉の大岳院に葬られ、側近の家臣八人が殉死して同じ寺に眠りました。この八人は、のちに「八賢士」と呼ばれます。安房に残った旧臣が分骨を持ち帰ったと伝えられ、城山の南の麓には八遺臣の墓が今も残っています。
それでも、この二つが重なって語られてきたこと自体が、館山という土地の歴史の一部になっています。里見氏が去ったあとも、安房の人々は自分たちの殿様を忘れませんでした。房総各地の城を訪ねると、勝浦城のように里見氏の重臣が守った城が点々と残っており、この一族が海沿いにどれだけ根を張っていたかが分かります。
天守は建っていたのか
山頂の天守は、昭和五十七年(一九八二)に開館した建物です。三層四階の天守閣形式で、なかは八犬伝博物館として、版本や錦絵など『南総里見八犬伝』にまつわる資料を展示しています。
では、里見の時代にここに天守が建っていたのでしょうか。結論から言えば、天守があったことを示す絵図や記録は見つかっていません。ですからこの建物は、復元でも復興でもなく「模擬天守」です。しかも山頂は戦時中に削られているため、建っている地面そのものが当時の高さではありません。
模擬天守だからつまらない、ということではありません。房総には大多喜城のように、天守の姿がはっきりしないまま建てられた天守閣風の建物がいくつかあります。目印として人を呼び、なかの展示で土地の歴史を伝える役割を果たしてきました。外に出て眺めを見れば、なぜ義康がこの山を選んだのかも、素直に納得できます。
駐車場と所要時間
城跡は城山公園として整備され、駐車場は無料です。一般車で百三十台ほど、大型車も五台とめられます。公園の利用時間内であれば入れますが、天守の開館にあわせて動くのがよいでしょう。
公共交通で行く場合は、JR館山駅東口からバスに乗り「城山公園前」下車で、所要は十分ほどです。車なら富浦インターチェンジから二十分ほど。同じ安房の勝山城とは車で三十分ほどの距離なので、里見水軍の海城とあわせて回ることもできます。
所要時間の目安は次のとおりです。駐車場から天守までは坂道と階段で、ゆっくり登って十分前後。天守(八犬伝博物館)だけを見るなら、往復と見学で四十分ほどです。麓の館山市立博物館本館で里見氏の展示まで見て、八遺臣の墓まで足をのばすなら、一時間半から二時間はみておきたいところです。花の季節に園内をひと回りするなら、さらに三十分を加えてください。
天守と博物館の開館は九時から十六時四十五分まで(入館は十六時三十分まで)、休館日は月曜です。祝日の場合は開館し、翌日が休みになります。入館料は大人四百円、小中高生二百円。公園そのものは無料で歩けます。
見学順 ── 上から下へ回ると楽です
駐車場は山の北側の麓にあります。ここから舗装された坂を登り、まず山頂の天守を目指してください。上りをはじめに済ませてしまえば、あとは下るだけになります。
天守の最上階からは館山湾が一望でき、空気の澄んだ日には対岸の向こうに富士山が見えます。義康がこの山に本拠を移した理由が、言葉の説明よりも早く分かる眺めです。館山湾は内房のいちばん奥まった位置にあり、小浜城など里見方の海の城が湾沿いに並んでいたことも、地図と見比べると実感できます。
下りながら、途中の館山市立博物館本館に寄ります。ここでは里見氏と安房の歴史が常設展示になっており、館山城の発掘成果も紹介されています。天守の八犬伝博物館が「物語の館山」だとすれば、こちらは「史実の館山」です。両方を見ると、先ほどの比較ボックスの話が立体的になります。
そのあと日本庭園と茶室のあたりを抜け、南へ下っていくと八遺臣の墓にたどり着きます。崖下の窪地にある静かな場所で、順路の最後に置くとちょうどよい締めくくりになります。墓だけを訪ねるなら、公園の南側から入ると坂が少なくて楽です。
園内は花の名所でもあります。梅が二百本ほど、椿が千二百本、桜が五百本ほど、ツツジは六千四百本。冬から春にかけては、城跡めぐりというより花見の客のほうが多いくらいです。土の遺構を丁寧に見たいなら、草が枯れて地形が読みやすくなる冬がおすすめです。
城の基本用語:曲輪・堀・土塁・虎口・馬出をイラストで読み解く
切岸も堀切も、図で一度見ておくと現地での見え方が変わります。

