東大寺:大仏はなぜ二度焼けたのか、松永久秀の「大仏焼き討ち」と江戸に縮んだ大仏殿

東大寺の大仏殿を参道から望む

東大寺は奈良にある華厳宗の大本山で、盧舎那仏坐像(奈良の大仏)で知られます。聖武天皇の発願で八世紀に建てられ、その後二度、戦火で大仏殿を失いました。一度目は平重衡による南都焼討、二度目は永禄十年(一五六七)の松永久秀と三好三人衆の戦いです。いま建っている大仏殿は江戸時代の再建で、創建時よりも横幅が狭くなっています。南大門と金剛力士像は鎌倉時代のものです。

東大寺の南大門と「大華厳寺」の額

東大寺の南大門。中央に「大華厳寺」の額が掛かります。鎌倉時代の再建で、東大寺に残る数少ない中世の建物です。

目次

大仏はなぜつくられたのか

天平十五年(七四三)、聖武天皇が盧舎那大仏造立の詔を出します。当時は疫病と飢饉、そして内乱が続いた時期でした。仏の力で国を安んじるという発想のもと、全国に国分寺・国分尼寺を置き、その中心として大和に大仏を据える構想です。

天平勝宝四年(七五二)に開眼供養が行われました。銅を大量に使い、全国から材と人を集めた国家事業です。のちに大和という国が寺の国になったその出発点が、この時期にあります。

二度焼けた大仏殿

治承四年(一一八〇)、平重衡が南都を攻め、大仏殿と興福寺が焼けました。源平の争いのなかで、寺が平氏に反抗したためです。このときは重源が勧進をして再建にこぎつけます。南大門はその再建期の建物です。

二度目は戦国です。永禄十年(一五六七)、大和の支配権をめぐって松永久秀と三好三人衆が争い、東大寺の境内が戦場になりました。大仏殿は炎上し、大仏の頭も落ちます。

▽ よく語られる話
松永久秀が大仏殿に火を放った。主君殺し・将軍殺しと並ぶ「三悪」のひとつとして語られます。
▼ 史実ではこうです
火が出たのは夜戦のさなかで、失火だったとする見方が有力です。三好方の陣が大仏殿に置かれていたため、そこが戦場になりました。久秀が意図して焼いたと断じる同時代の記録はありません。くわしくは松永久秀は本当に「三悪」を働いたのかにまとめています。

ただ、寺が戦場になること自体は、当時の大和では珍しくありませんでした。寺が領地と兵を持っていたからです。衆徒と呼ばれる武装した僧がおり、大和の戦国時代はこの寺社勢力を軸に動いています。

いまの大仏殿は江戸時代の建物

東大寺の大仏殿を参道から望む

参道から見た大仏殿。木造建築としては世界最大級ですが、創建時より横幅は狭くなっています。

焼けたあと、大仏は百年以上も雨ざらしに近い状態で置かれました。再建が動きだすのは江戸時代で、公慶上人が勧進に歩き、宝永六年(一七〇九)に落慶しています。

このとき、創建時や鎌倉再建時とくらべて横幅がおよそ三分の二に縮められました。理由は材木です。柱に使える太さの木がもう手に入らなかったため、規模を落とさざるを得なかったのです。大坂城の築城で全国から材木を集めたような動員は、もう起きませんでした。

それでも木造建築としては世界最大級です。前に立つと、縮めてなおこの大きさか、と思わされます。

南大門と金剛力士像

南大門は鎌倉時代、重源による再建です。大仏様(だいぶつよう)と呼ばれる建築様式で、柱を貫(ぬき)で何重にも縫い留める構造がむき出しになっています。装飾より力強さが前に出る造りです。

門の左右に立つ金剛力士像は、運慶・快慶らの一門が手がけました。高さ八メートルを超える像を、およそ六十九日で仕上げたと伝わります。分業と組み上げの技術があってこその速度です。

この門をくぐるところから参道が始まります。春日大社の参道と同じく、鹿がそこらにいます。

東大寺と大和の支配

東大寺の大仏(盧舎那仏坐像)

大仏殿の中の盧舎那仏坐像。頭部は江戸時代の補作で、台座などに創建当初の部分が残ります。

中世の大和では、興福寺が守護に相当する力を持っていました。東大寺も広い寺領を持ちましたが、国全体を動かす立場では興福寺のほうが上です。両寺は時に協力し、時に争いました。

天正十三年(一五八五)、論功行賞で豊臣秀長が大和に入ると、この構図は崩れます。秀長は検地で田を測り直し、郡山城を政庁として、年貢を領主が集める形に変えました。寺は焼かれませんでしたが、領地と徴収権を失っていきます。

寺を焼いて終わらせた久秀と、仕組みを変えて力を抜いた秀長。大和という国に対する二つのやり方が、この寺の周辺で見られます。寺側の交渉役だった坊官の話とあわせて読むと、当時の空気がつかみやすいと思います。

お水取り ── 千二百年以上とだえていない行

二月堂で毎年おこなわれる修二会(しゅにえ)は、通称お水取りと呼ばれます。奈良時代の天平勝宝四年(七五二)に始まり、以来一度も欠かしていないと伝えられる行です。大仏殿が焼けた年も、都が戦場になった年も続きました。

大松明を担いで二月堂の回廊を走る場面が有名ですが、本体は十一面観音に向かって罪を悔いる法要です。興福寺や春日大社の行事が政治と強く結びついていたのに対し、こちらは僧の行としての性格を保ち続けました。

寺が領地を失っても、行は残ったわけです。秀長が寺領を削ったあとも、明治の廃仏毀釈のあとも、この行だけは途切れませんでした。東大寺という寺の芯がどこにあるかを示す話だと思います。

大仏はどうやって造られたのか

座った姿で高さおよそ十五メートル。顔の長さは五メートルを超え、手のひらは大人が数人のれる大きさです。銅は数百トンが使われたとされます。

一度に流し込めるものではないので、下から順に何段にも分けて鋳継いでいきました。像のまわりに土を盛り上げて足場と鋳型を築き、一段固まったらまた盛る。この作業を繰り返して上へ伸ばしていきます。完成したあとは表面に金を塗りましたが、その金と水銀を扱う作業で体を壊した人も少なくなかったと伝えられます。

いまの大仏は、頭部が江戸時代の補作です。永禄十年の戦いで頭が落ちたあと、長く仮の頭で置かれていました。台座の蓮弁など、創建当初の部分は下のほうに残っています。見るなら足元です。

よくある疑問

▶ 東大寺についてよく聞かれること
  • 柱の穴をくぐると何がある? … 大仏殿の柱にあいた穴は、大仏の鼻の穴と同じ大きさといわれます。くぐると無病息災といわれ、行列ができます
  • 拝観料は? … 大仏殿は有料。南大門と参道は自由に通れます。法華堂・戒壇院は別料金です
  • 所要時間は? … 大仏殿だけなら1時間、二月堂まで含めると2時間半ほど
  • お水取りはいつ? … 二月堂の修二会で、三月に行われます。大松明は連夜あがります
  • 春日大社とまとめて回れる? … 徒歩圏内です。参道づたいに歩けます
  • 鹿は寺のもの? … 神の使いとされるのは春日社の鹿ですが、奈良公園一帯を自由に歩いています

大きさに驚くための場所だと思われがちですが、二度焼けて二度建て直された寺だと知って歩くと、見えるものが変わります。大和という国がどんな場所だったのかが、この境内に詰まっています。

拝観料と所要時間

▶ 訪ねるまえに
  • 拝観 … 大仏殿は有料。南大門と参道は自由に通れます。法華堂(三月堂)・戒壇院は別料金です
  • 所要時間 … 大仏殿だけなら1時間、二月堂まで含めると2時間から2時間半
  • アクセス … 近鉄奈良駅から徒歩20分ほど。バスなら「東大寺大仏殿・春日大社前」下車
  • 駐車場 … 寺の専用駐車場はありません。周辺の有料駐車場を使います。行楽期はかなり混みます
  • 鹿 … 参道にたくさんいます。紙類を持っていると寄ってきます

奈良の中心部は寺社が固まっているので、春日大社や興福寺とまとめて回るのが効率的です。大和郡山城まで足をのばすなら、近鉄で20分ほどです。

見学順 ── 南大門から二月堂まで

▶ おすすめの順路
  • 南大門・金剛力士像 … まず門で立ち止まって、貫がむき出しの構造と力士像を見上げます
  • 中門・大仏殿 … 参道を進んで大仏殿へ。正面からの一枚は中門の手前がよく撮れます
  • 大仏(盧舎那仏) … 堂内へ。柱の穴くぐりは行列ができます
  • 法華堂(三月堂) … 東大寺で最古の建物。不空羂索観音など天平の仏像が並びます
  • 二月堂 … 修二会(お水取り)の舞台。回廊からは奈良の町が一望できます
  • 正倉院(外観) … 大仏殿の北西。校倉造の外観だけ見られます

二月堂の回廊から夕方の奈良盆地を眺めると、この寺がどれだけ町を見下ろす位置にあるかがわかります。春日大社とあわせて半日です。

まとめ

この記事の要点
  • 東大寺は聖武天皇の発願で八世紀に建てられ、天平勝宝四年(七五二)に大仏の開眼供養が行われました
  • 大仏殿は平重衡の南都焼討と、永禄十年の松永久秀・三好三人衆の戦いで二度焼けています
  • 松永久秀が意図的に焼いたとする同時代の記録はなく、夜戦の失火とみる説が有力です
  • いまの大仏殿は江戸時代の再建で、材木が確保できず横幅が三分の二に縮められました
  • 南大門と金剛力士像は鎌倉時代のもので、重源と運慶・快慶らの仕事です

創建、焼失、再建、また焼失、また再建。この寺の歴史は、そのまま日本史の節目と重なっています。

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