八幡山城(はちまんやまじょう)は、滋賀県近江八幡市の八幡山にあった豊臣秀次の居城です。天正十三年(1585年)、十八歳(数え年)の秀次が近江四十三万石を与えられて築き、山麓には金箔瓦で飾った居館を構え、城下には琵琶湖とつながる八幡堀を掘りました。城はわずか十年で廃城になりましたが、秀次が開いた町は近江商人のふるさととして栄え、八幡堀はいまも小舟でめぐれる観光地、そして時代劇のロケ地として親しまれています。
- 十八歳の秀次が四国攻めの恩賞で近江四十三万石を得て築いた城
- 山上に本丸・二の丸・西の丸・北の丸・出丸、山麓に金箔瓦の居館
- 城と琵琶湖を結んだ八幡堀は、埋め立ての危機を市民が救い、いまは舟めぐりとロケ地で人気
- 秀次事件で城は廃され、母が建てた瑞龍寺がのちに本丸跡へ移された
八幡山城とは|十八歳の秀次が築いた城
天正十三年(1585年)、秀吉の甥の秀次は四国攻めの働きを認められ、近江で四十三万石を与えられました。このとき秀次は数えで十八歳(満年齢では十七歳)。その若さで一国級の領地を任された秀次は、琵琶湖の東岸にそびえる標高約二百七十メートルの八幡山に城を築き、麓に新しい城下町を開きます。秀次がなぜこれほど速く出世したのかは豊臣秀次の出世はどれくらい速かったのか、それ以前に「三好信吉」と名のっていた理由は豊臣秀次はなぜ「三好信吉」と名のっていたのかで書いています。

西の丸址の標柱。木々の向こうに琵琶湖が広がります。
なぜ安土のすぐ隣なのか|信長の城と町を引き継ぐ
八幡山は、本能寺の変のあとに主を失った安土城のすぐ近くにあります。秀吉は信長の安土に代わる近江の拠点としてこの山を選び、甥の秀次に託しました。八幡の城下町は安土の城下町を移してつくられたと伝わり、安土の町人たちも新しい町へ移り住んだといわれます。信長の時代から秀吉の時代へ、近江の中心が安土から八幡へ移ったことになります。秀吉と秀次の関係は秀吉と秀次はどういう関係だったのかをご覧ください。

山上に残る石垣。大きな自然石を積み上げた姿が、木々の間に見えます。
誰が築城の指揮をとったのか
入城したときの秀次は十八歳です。四十三万石の城と町を、この年齢の当主が自分で差配したわけではありません。普請の指揮をとったのは秀吉本人でした。縄張りから作業の工程、諸将の持ち場まで、書状で細かく指示が飛んでいます。
実務の中心にいたのは宿老の田中吉政です。城下の経営を担い、のちに岡崎、さらに筑後柳川へと進んでいく人物でした。秀次のもとには吉政のような目付役の家老が置かれており、若い当主を支える体制が最初から組まれていたことになります。
ちなみにこの町から上がる収入は、のちに秀次の懐を支えることになります。秀次が諸大名に金を貸していた背景には、四十三万石と関白の収入に加えて、この商いの町があったからです。
山の上の城と、山麓の居館|金箔瓦が出た秀次館
山上には本丸を中心に二の丸、西の丸、北の丸、出丸が配置され、いまも石垣が残っています。一方、秀次がふだん暮らしたのは、二の丸と出丸の谷筋の下、山の麓に構えた居館でした。この居館跡とみられる場所からは金箔を貼った瓦が見つかっていて、豊臣政権の限られた城でしか使われなかった金箔瓦で飾った、華やかな御殿が建っていたことがわかります。秀吉が京都に築いた聚楽第がのちに秀次に譲られることを考えると、八幡の居館はその前の段階の、若き秀次の晴れ舞台でした。
麓の居館のあたりは、立派な石垣を何段にも積み上げた造りになっていました。手前の石垣の上には家臣団の屋敷が並び、いちばん奥の、いちばん高い石垣の上に秀次の御殿が構えられていたとされます。そして山の最上段、山上の本丸や曲輪が、いざというときの防衛の拠点でした。家臣の屋敷、主君の御殿、戦いの砦と、石垣の段ごとに役割が分かれた、豊臣の城らしい立体的な構えです。

山上の曲輪に残る石垣。苔むした石が高く積まれています。
八幡堀|琵琶湖とつながる城下の水路
秀次の城づくりでいちばんの置き土産が、全長約四・七キロの八幡堀です。八幡山の麓をめぐるこの堀は、城を守る堀であると同時に、琵琶湖と城下町を結ぶ水路でもありました。秀次はさらに、琵琶湖を行き来する船は必ず八幡堀に立ち寄らなければならないという決まりをつくりました。湖を通る荷も人も、いやおうなく八幡の町を通ることになり、城下には人と物と情報が集まって、町は一気に栄えます。堀を掘るだけでなく、船の流れそのものを町に引き込む仕組みをつくったところに、十八歳の城主の非凡さがあります。江戸時代になると、八幡堀は京都や大坂、江戸へ荷を運ぶ近江商人の水運の要として栄えました。
ところが戦後、使われなくなった堀はゴミやヘドロで荒れ果て、一度は埋め立てる計画まで立てられます。これに立ち上がったのが地元の若者たちで、「堀は埋めた瞬間から後悔が始まる」を合言葉に清掃と復元を呼びかけ、市民の力で堀は守られました。いまでは白壁の土蔵と石垣が続く堀沿いの景色が、時代劇や映画、ドラマのロケ地としてたびたび使われています。堀を小舟でゆっくりめぐる「八幡堀めぐり」も人気で、水面から見上げる町並みは、陸を歩くのとはまた違った趣があります。舟で堀をめぐる城としては、松江城の堀川めぐりとあわせて楽しむのもおすすめです。

八幡堀と堀沿いの町並み。背後にそびえるのが、城のあった八幡山です。
碁盤の目の町と楽市楽座|近江商人のふるさと
秀次が開いた城下町は、縦に十二本、横に四本の通りが直角に交わる碁盤の目の町割りで整えられました。秀次は楽市楽座を行って商いを自由にし、八幡堀の水運とあわせて商人を呼び集めます。城がなくなったあとも町は商業の町として生き続け、ここから全国に商いを広げた八幡商人は、近江商人の代表として知られるようになりました。十八歳の城主がつくった町の骨組みが、そのまま四百年以上使われていることになります。秀次を取り巻く人びとについては秀次事件をわかりやすく解説でもまとめています。
わずか十年で廃城|清洲移封と秀次事件
天正十八年(1590年)、秀次は尾張の清洲城へ移り、八幡山城には京極高次が二万八千石で入りました。翌年、秀次は秀吉の跡継ぎとして関白に就き、聚楽第の主となります。ところが文禄四年(1595年)、秀次は謀反の疑いをかけられて高野山で切腹を命じられ、妻子や侍女まで三十九人が京都の三条河原で処刑されました。この年、京極高次は大津城へ移され、八幡山城は築城からわずか十年で廃城となります。処刑された女性たちの話は秀次事件 三十九人の処刑と駒姫とはで書いています。
瑞龍寺|母が建てた寺が本丸に
天守があったとされる本丸の跡に、いま建っているのは村雲御所と呼ばれる瑞龍寺です。秀次の母で秀吉の姉にあたる日秀尼が、息子の菩提を弔うために京都に建てた寺で、のちに秀次ゆかりの八幡山の山頂へ移されました。息子を失った母の寺が、息子の城の本丸に戻ってきたことになります。山上に残る石垣や曲輪は、この寺の境内とあわせて歩くことができます。

山上へ続く石段。脇には石垣が残り、城の曲輪へと続きます。
八幡山城の見どころと行き方
山上へは八幡山ロープウェーで上がれます。全長約五百四十五メートル、山頂まではわずか四分ほどの空中散歩で、眼下に八幡堀と町並み、その先に琵琶湖が広がります。山上には本丸の瑞龍寺、西の丸、北の丸、出丸の石垣をめぐる散策路が整えられています。西の丸からは田園の向こうに琵琶湖が広がり、北の丸からは、かつて信長の安土城があった安土山が見えます。標高約二百七十メートルの八幡山から見ると、約二百メートルの安土山は眼下に低く見え、信長の城を見下ろす位置に秀次の城が築かれたことが実感できます。麓には八幡堀と日牟禮八幡宮、秀次の居館跡があり、城と堀と町を半日でめぐれます。JR近江八幡駅からバスで「大杉町」下車、ロープウェー乗り場までは歩いてすぐです。秀吉ゆかりの城をめぐるなら秀吉・秀長ゆかりの城めぐり完全ガイドも参考にしてください。

麓に立つ豊臣秀次の像。
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【八幡山城・場所・アクセス】
〒523-0828 滋賀県近江八幡市宮内町19-9
【八幡山城地図】
