山中城跡(三島市):石をひとつも使わなかった障子堀と、半日で落ちた小田原の西の守り

山中城/アクセス・場所・地図 豊臣秀次の大軍を前に北条氏勝が籠城した末に落城 山中城

山中城は箱根の峠へ向かう街道をまたいで築かれた、小田原城の西の守りです。石垣はひとつもなく、火山灰の台地を削り、盛り、堀に畝を残して区画を切るという、土だけでできた城でした。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の大軍が押し寄せたとき、この城は半日で落ちます。それでも堀の跡を歩けば、攻め手がなぜ大きな損害を出したのかがすぐにわかります。

この記事のポイント
  • 箱根越えの街道を城内に取り込んだ、小田原城の西の要
  • 石垣を使わず、堀に畝を残す障子堀で守りを組み立てた
  • 秀吉との決戦に備えた大改修は未完成のまま開戦を迎えた
  • 半日で落ちたが、寄せ手も大名級の武将を失う損害を出した
目次

山中城とは:箱根の峠道をふさぐ土の城

山中城は静岡県三島市山中新田、箱根峠の西側の斜面にあります。標高はおよそ五百八十メートル、東海道の旧道がそのまま城内を貫いており、街道を通ろうとすれば城の中を歩かされる構えでした。西へ下れば三島と駿河、東へ登れば箱根を越えて相模、つまり小田原城に至ります。小田原を守るには、まずこの峠を押さえるしかありません。

城域は街道をはさんで南北に広がり、本丸、二ノ丸、西の丸、西櫓、そして南に岱崎出丸が置かれています。地面は箱根の火山灰が積もったローム層で、削れば急な斜面になり、雨に濡れればよく滑ります。石を積む必要がなかったのではなく、この土そのものが最良の材料でした。

山中城跡の土塁と復元された柵

土塁の上に木の柵が復元されている。石を一つも使わず、土を削り盛るだけで城の輪郭がつくられた。

北条氏康が築き、氏政が急いで広げた城

築いたのは北条氏康の時代と伝えられます。三代にわたって関東へ勢力を広げた北条氏にとって、西からの脅威に備える最前線がここでした。その後、北条氏政の代に豊臣秀吉との関係が決定的に悪化すると、氏政は山中城の大改修を命じます。南側に岱崎出丸を張り出させ、堀を掘り直し、砦の規模を一気に広げようという工事でした。

ところが普請は間に合いませんでした。天正18年、秀吉が小田原征伐の軍を起こしたとき、岱崎出丸の一ノ堀は掘りかけのまま、柵や土塁も仕上がっていなかったと考えられています。北条氏がなぜこの時期まで開戦を避けられると考えていたのかは、小田原征伐で北条氏政はなぜ降伏しなかったのかでくわしく扱いました。

障子堀と畝堀:土だけでどう守ったのか

山中城の名を全国に知らしめているのが、堀の底に畝を残す造りです。堀を掘るときに土をすべて取り去らず、格子状や櫛状に土手を残しておく。すると堀に落ちた者は自由に動けず、畝に沿って歩くうちに上から狙い撃ちにされます。格子に区切られたものを障子堀、櫛の歯のように並んだものを畝堀と呼び分けるのがふつうです。

この構造が成り立つのは、堀の斜面が滑るローム層だからでもあります。よじ登ろうとしても足が利かず、堀底に留め置かれてしまう。鉢形城や玉縄城など北条氏の城には同じ発想の堀が見られ、金山城跡のように石を多用した関東の城とは対照的です。発掘によって形が確かめられたあと、堀は風雨で崩れないよう芝で覆われて整備され、いまは緑の格子が谷を埋めるように広がっています。

山中城跡の門跡の柱と畝を残した堀

門跡に立つ二本の柱。その先に、畝を残したまま掘られた堀の斜面が広がる。

山中城跡の深い空堀

深く掘り下げられた空堀。斜面は滑りやすい火山灰の土で、落ちれば容易には這い上がれない。

天正18年、半日の攻防

寄せ手の大将は秀吉の甥、豊臣秀次でした。徳川家康、中村一氏、山内一豊らを含む大軍が山中城を囲みます。守るのは城将の松田康長、副将に北条氏勝、そして間宮康俊ら。兵力の差はおよそ二十倍と伝えられ、しかも改修は途中でした。

▽ よく語られる話

山中城は半日で落ちた。障子堀は見た目ばかりで、実戦では役に立たなかった。

▼ 史実ではこうです

落城は事実ですが、寄せ手の損害は小さくありませんでした。秀吉の直臣で美濃に領地を持つ大名、一柳直末がこの攻城戦で討たれています。大名級の将を失うほどの抵抗を、二十倍の兵力差と未完成の普請という条件のもとで受けたということです。堀が無力だったのではなく、堀を埋めるだけの人数が投じられた、と見るほうが実態に近いでしょう。

城を守った者たちのその後

間宮康俊は老将でしたが先頭に立って戦い、主将の北条氏勝を落ち延びさせたうえで城に残り、討ち死にしました。城将の松田康長も戦死しています。脱出した氏勝は玉縄城へ戻り、のちに徳川家康の仲介で開城して命を保ちました。

山中城が落ちたその日のうちに、秀吉の本隊は箱根を越えて小田原へ向かいます。北条方はこのほかにも八王子城、鉢形城、韮山城と各地の支城で戦いましたが、支城網はひとつずつ崩されていきました。秀吉は小田原を見下ろす山に石垣山城を築き、長期の包囲に持ち込みます。北条氏の滅亡までは、山中城の落城から数えて四か月ほどのことでした。

廃城と、いま歩ける山中城跡

山中城は落城を機にそのまま廃城となりました。城として使われた期間が短く、そのあと近世の城に造り替えられることもなかったため、戦国の城の形が手つかずのまま地面に残ったのです。堀も土塁も曲輪も、落城したときの姿をほぼそのまま伝えています。

いまは山中城跡公園として整備され、街道をはさんで両側を歩けます。本丸と北の丸のあいだには木の橋が架けられ、西の丸の周囲には障子堀が広がります。城内を通る旧東海道の石畳も残り、峠を越えた旅人の道をそのままたどることができます。日本100名城のスタンプは、街道沿いの売店に置かれています。

山中城跡に復元された木の橋

曲輪と曲輪を結ぶ木の橋。堀を渡る道は限られ、橋を落とせば行き来が絶たれた。

山中城跡・場所とアクセス

静岡県三島市山中新田。JR三島駅から元箱根方面のバスで三十分ほど、山中城跡のバス停で降りればすぐです。車なら東名高速の沼津インターから、または箱根峠を越えて。駐車場は無料で、公園も自由に歩けます。斜面が多く道もぬかるみやすいので、歩きやすい靴が要ります。近くには興国寺城跡(沼津市)や韮山城があり、北条氏の起点から最後までを一日でたどることもできます。

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