長浜城(ながはまじょう)は、駿河湾にのぞむ断崖の上に築かれた水軍の城です。沼津市の内浦にあり、入り江に船を隠せる地形でした。北条氏に仕えた大川氏が拠り、武田氏が沼津に城を築くと、これに対する備えとして改修されます。駿河湾の海戦にも関わりました。豊臣秀吉の小田原攻めでは海戦を交えずに退き、城は役目を終えます。今は史跡公園として整備されています。
- 入り江に面した断崖に築かれ、船を収容できた水軍の城
- 武田氏の沼津進出に対抗して、北条氏政の命で改修された
- 駿河湾の海戦では武田水軍と正面から戦っている
- 小田原攻めで戦わずに退いたのは、弱さではなく方針によるもの

公園に復元された木組みの櫓。柱と梁だけの簡素な造りで、海を見張るための建物がどんなものだったかを伝えている。
船を隠せる城
長浜城が置かれたのは、内浦湾に突き出した尾根の先です。海に落ちる崖と、その足もとの入り江。曲輪は尾根の上に段をなして並び、麓の入り江が船着き場になっていました。水軍の城とは、兵を守る場所であると同時に、船を隠し、修理し、出撃させる基地です。
駿河湾のこのあたりは、伊豆半島の西岸が複雑に入りくみ、小さな湾が連続します。風と波を避けられる入り江が点在し、船を置くには適した地形でした。北条氏はこうした入り江ごとに拠点を持ち、水軍を組織しています。

海ぎわの斜面につけられた階段。木立に覆われた尾根の上が城域で、麓との高低差がそのまま守りになっている。
大川氏と北条水軍
この城を守ったのは、室町期から北条氏に仕えていた大川氏です。伊豆の海に根を張った一族で、船と船乗りを抱えていました。志摩の九鬼氏や伊予の来島氏と同じように、海の領主が大名の水軍として組織された例です。
天正七年(一五七九)ごろ、武田勝頼が沼津に三枚橋城を築きました。駿河湾の奥に武田の拠点ができたことになります。北条氏政はこれに対抗するため、長浜城を改修させました。海をはさんだ城と城のにらみ合いです。
駿河湾での海戦
天正八年(一五八〇)、千本浜の沖で武田水軍と北条水軍がぶつかりました。駿河湾海戦と呼ばれる戦いです。武田方は伊勢から招いた船大将らが指揮し、北条方は伊豆の水軍が出ています。決着ははっきりせず、双方が勝利を主張しました。
大切なのは、この時期の北条水軍が正面から海戦を引き受けていたということです。武田が駿河湾に手を伸ばせば、これを押し返す力があった。長浜城が改修されたのも、その戦いを支えるためでした。

公園として整えられた一角。木のデッキと階段が斜面につけられ、曲輪のあいだを歩けるようになっている。
なぜ戦わずに退いたのか
この判断そのものは理にかなっていました。ただし、小田原に籠もった結果がどうなったかは小田原城の記事のとおりです。山中城が半日で落ち、韮山城は長く持ちこたえ、最後は本城が開きました。長浜城が廃されたのは、韮山城の開城とあわせてのことと伝わります。
長浜城跡の訪ね方
城跡は沼津市の内浦重須にあり、沼津駅からバスで四十分ほど。史跡公園として整備され、復元された物見櫓や木道が設けられています。尾根を登れば曲輪の段が見え、内浦湾が一望できます。湾の対岸には淡島が浮かび、晴れた日には富士山も見えます。
近隣には境目の城が集まっています。長久保城、興国寺城、韮山城はいずれも車で三十分ほどの範囲で、陸の城と海の城を続けて見ると、この地域が何を守ろうとしていたかがはっきりします。
所在地:〒410-0224 静岡県沼津市内浦重須

