興国寺城とは
静岡県沼津市根古屋にある興国寺城は、愛鷹山から浮島沼へ向かって張り出した尾根を利用して築かれた平山城である。愛鷹山の裾を通る根方道と、浮島沼を縦断して海岸へ至る江道・竹田道が交わる交通の要所にあり、戦国時代から江戸時代初期にかけて、今川・武田・後北条・徳川がこの城を奪い合った。何よりこの城の名を高めているのは、のちに戦国大名・後北条氏の祖となる北条早雲が、はじめて城主となった「旗揚げの城」だという点である。国の史跡に指定され、続日本100名城にも選ばれている。

根方街道沿いに建つ「興国寺城跡」の石柱。ここから城跡へ入る
北条早雲の旗揚げの城
長享元年(1487)以後、伊勢新九郎長氏——のちの北条早雲(伊勢宗瑞)がこの城の主となった。早雲ははじめ今川家に身を寄せていたが、当主・今川義忠の急死後に起きた相続争いをまとめた功により、妹(北川殿)の縁を頼ってこの城を与えられたと伝わる。
ここを足がかりに、早雲は伊豆国を治めていた堀越公方の内紛に乗じて足利茶々丸を滅ぼし、韮山城へと本拠を移す。一介の客将から一国の主へ、そして関東に君臨する後北条五代へ——その第一歩が刻まれた場所が、この小さな城だった。

本丸のかたわらに立つ「初代城主 北條早雲碑」
今川・武田・後北条の争奪
早雲が去ったあと、興国寺城は駿河・甲斐・伊豆の境目に位置するという地の利ゆえに、絶えず戦火の渦中に置かれた。天文年間には今川義元が城主を置き、永禄十一年(1568)に武田信玄が駿河へ侵攻すると、後北条方の城となる。
元亀二年(1571)に甲相同盟が成立すると、城は武田方へ引き渡された。武田信玄は興国寺城を普請して城域を広げ、以後は武田一門・穴山梅雪の持城、あるいは曽根昌世の城として、天正十年(1582)の武田氏滅亡まで武田の前線を担う。この時期に勝頼が東に築いたのが三枚橋城で、二つの城は同じ緊張のなかから生まれた兄弟のような存在である。

本丸跡に鎮座する穂見神社。社殿の背後に本丸北側の大土塁がそびえる
武田氏が滅ぶと城は徳川方となり、牧野康成、松平清宗らが入った。天正十八年(1590)に家康が関東へ移されたのちは、豊臣方の中村一氏の家臣・河毛重次が城主を務めている。
土の城に石垣が加わるまで
興国寺城は、土塁と空堀で区切られた本丸・二ノ丸・三ノ丸に、北曲輪と清水曲輪を加えた構成をとる。三方を浮島沼と谷の泥田沼に守られ、古絵図には「深田足入」と記されるほどの湿地が天然の防壁になっていた。
本丸の北側にそびえる大土塁は、東西の土塁より一段高く築かれ、その上に石垣を伴う「(伝)天守台」がある。発掘では二棟の建物の礎石が見つかったが瓦は出ていないため、いわゆる天守閣が建っていたわけではない。それでも城下から見上げれば、この高みの建物は十分に城の象徴として映ったはずである。土でできた戦国の城に、石を積む新しい技術が加わっていく過渡期の姿が、ここには残されている。

本丸の広場と、それを囲む土塁。曇天の下でも土塁の高さがよくわかる

本丸北側の大土塁の上にある(伝)天守台。建物の礎石が発掘されている
そして本丸の北を断ち切る大空堀。深さも幅も東海地方屈指の規模で、堀の底に立つと両側の壁が迫ってくる。この城がただの砦ではなかったことが、体で分かる場所である。

本丸の北を断ち切る大空堀。斜面の高さがそのまま城の防御力だった
天野康景 — 城を捨てた最後の城主
慶長六年(1601)、関ヶ原の合戦の後に一万石を与えられて城主となったのが天野三郎兵衛康景である。天文六年(1537)三河国に生まれ、家康に仕えて岡崎三奉行の一人に任ぜられた人で、その公正さから「彼是偏無しの三郎兵衛」と評された。家康の「康」の字を拝領して康景と称している。
その康景を、皮肉にも公正さが追い詰めた。慶長十二年(1607)、家来の足軽が、城の修築用の竹木を盗もうとした者を殺害する事件が起きる。相手が天領の農民であったことから、康景と代官・井出志摩守正次の争いとなり、家康の側近・本多正純は康景に足軽を差し出すよう勧めた。だが康景は足軽をかばって城を捨て、行方をくらませてしまう。家臣一人を守るために一万石を捨てたのである。
これにより康景は改易となり、興国寺城は廃城となった。康景は慶長十八年(1613)に相模国沼田で没し、墓は同地の西念寺にある。北条早雲の出発点となった城は、家臣をかばって身を引いた男の退場とともに、その役目を終えた。

最後の城主・天野康景の碑。家臣一人をかばい、城と一万石を捨てた
興国寺城跡の現地写真








興国寺城・場所・アクセス
〒410-0309 静岡県沼津市根古屋428

