川島城(かわしまじょう)は、吉野川の南岸にあった阿波の城です。三好氏の重臣・篠原長房が討たれたのち、その討伐で功のあった川島惟忠が新たに築きました。長房の死は、阿波の三好氏が崩れていく起点でもあります。四国攻めののち阿波を得た蜂須賀氏によって廃され、跡地には徳島藩の奉行所が置かれました。今は観光用の天守が建っています。
- 吉野川ぞいの街道を押さえる位置にあった阿波の城
- 三好政権を支えた篠原長房が、讒言によって討たれた事件の後に築かれた
- 長宗我部の阿波進出は、三好氏が自ら弱ったあとの空白へ向かっていた
- 一国一城令で廃され、跡地には徳島藩の奉行所が置かれた
吉野川ぞいの位置
阿波の平野は、吉野川にそって東西に細長く伸びています。川は物を運ぶ道であり、同時に大きな障壁でもあります。川島は、その吉野川の中流域にあたり、上流の山あいと下流の徳島平野をつなぐ結節点です。ここを押さえれば、阿波の内陸へ入る道と、土佐へ抜ける道の両方に手が届きます。
もともとこの地域の拠点は、少し離れた上桜城でした。篠原長房の城です。長房が討たれて上桜城が廃されたのち、討伐に加わった川島惟忠が新たに築いたのが川島城でした。城が移るということは、この地域の主が替わったということでもあります。
篠原長房という重臣
篠原長房は、三好長慶の弟・実休に仕えた武将です。阿波と讃岐の軍を率いて畿内を転戦し、三好政権の軍事を支えました。それだけでなく、分国法とされる新加制式の制定にも関わったと伝えられます。戦も政務もこなす、政権の要にあたる人物でした。
実休が久米田で討死したのち、長房は幼い主君を支える立場になります。ところが元亀四年(一五七三)、一族の讒言によって謀反の疑いをかけられ、主君の三好長治や十河存保らの軍に攻められました。長房は上桜城で自刃します。

石垣の上に建つ白壁の建物。観光のために建てられたもので、当時の川島城の天守を復元したものではない。
長宗我部は強かったのか、三好が弱ったのか
同じことが、その三年後には長宗我部の側にも起こります。四国を統一した直後に秀吉の四国攻めを受け、土佐一国に戻されました。誰かが崩れた場所へ次の力が入る—四国の十数年は、その連続でした。
蜂須賀氏の阿波と、城の終わり
天正十三年(一五八五)の四国攻めののち、阿波は蜂須賀家政に与えられました。家政は徳島に城を築いて本拠とし、領内の城は一国一城令によって廃されます。川島城もそのひとつです。
ただし、この場所が使われなくなったわけではありません。跡地には徳島藩の奉行所が置かれ、明治まで存続しました。吉野川の中流を押さえるという役割は、城から役所へと形を変えて続いたことになります。一宮城や仏殿城のように、四国攻めを境に姿を消した城が多いなかで、これは珍しい残り方です。
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川島城跡の訪ね方
城跡はJR徳島線の阿波川島駅から歩いて十分ほど。吉野川を見おろす高台にあり、建物のまわりは公園として整えられています。天守を模した建物は観光のために建てられたもので、城の遺構ではありません。高台のきわに立つと、吉野川の広い流れと対岸の山が見わたせます。
阿波の城をめぐるなら、四国攻めの主戦場となった一宮城とあわせて訪ねるのがよいところです。車で三十分ほどの距離にあります。
所在地:〒779-3301 徳島県吉野川市川島町川島136-1

