とも(日秀尼)とは|『豊臣兄弟!』で宮澤エマが演じる秀吉の姉 ─ 秀次・秀勝・秀保の母、3人の息子を失い瑞龍寺を開いた92年

紅葉の庭をのぞむ尼寺で、三つの位牌に手を合わせる老いた尼僧
この記事のポイント
  • とも(のちの日秀尼)は、秀吉と秀長の姉です。天文3年(1534)に尾張中村で生まれ、秀吉より3つ年上でした。『豊臣兄弟!』では宮澤エマさんが演じています
  • 夫の弥助(のちの三好吉房)とのあいだに、秀次・秀勝・秀保の3人の息子をもうけ、3人とも秀吉の後継ぎ候補として大名になりました
  • ところが文禄元年(1592)から4年までの3年あまりで、3人の息子はすべて世を去ります。秀次は切腹を命じられ、孫たちも処刑されました
  • ともは出家して日秀と名のり、京都に瑞龍寺を開いて息子たちを弔い、寛永2年(1625)に92歳で亡くなりました。瑞龍寺はいま、秀次の城があった近江八幡の八幡山の上にあります

大河ドラマ『豊臣兄弟!』で、秀吉と秀長の姉・ともを演じているのは宮澤エマさんです。第42回「北野大茶湯」の予告では、息子の秀次に「あんた、小一郎のことが嫌いなの?」と問いかける場面が映りました。ドラマでは、息子を気づかう母の顔が描かれています。一方、史実のともは、天下人の姉として大名の母になりながら、最後には息子たちをすべて失うという、豊臣家のなかでもとりわけ重い生涯を送った人でした。この記事では、ともの生涯を、3人の息子の運命とあわせてたどります。

名古屋市の中村公園に立つ「豊公誕生之地」の碑
名古屋市の中村公園に立つ「豊公誕生之地」の碑。とも・秀吉・秀長のきょうだいは尾張中村で育った
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ともとはどんな人物か

名前 とも(智)。出家後は日秀(瑞龍院日秀)。村雲の尼、村雲御所とも呼ばれる
生まれ 天文3年(1534)、尾張国愛知郡中村(いまの名古屋市中村区)
きょうだい 弟に秀吉(天文6年生まれ)、秀長(天文9年生まれ)、妹にあさひ(旭姫)
夫 弥助(のちの三好吉房)
子 秀次・秀勝・秀保の3人の息子
没年 寛永2年(1625)4月24日、92歳
演じる人 宮澤エマ(『豊臣兄弟!』)

ともは、尾張中村の百姓の家に生まれた4人きょうだいの長女です。母は「なか」(のちの大政所)で、秀吉は3つ下、秀長は6つ下の弟にあたります(大政所(なか)とは)。きょうだいの呼び名については旭姫と朝日姫はどっちが正しい?でも紹介しています。

夫・弥助と、3人の息子

ともは、同じ尾張の弥助という男に嫁ぎました。弥助は、鷹狩りの獲物になる鳥を飼いならす「綱差(つなさし)」の仕事をしていたと伝えられ、やはり身分の高い家の出ではありません。弟の秀吉が出世するにつれて弥助も取り立てられ、のちに三好吉房と名のって、尾張の犬山城主にまでなりました。

ともと弥助のあいだには、3人の息子が生まれました。

  • 長男・秀次:永禄11年(1568)生まれ。一時は宮部継潤、ついで三好康長の養子となって「三好信吉」と名のり、のちに秀吉の後継ぎとして関白になる
  • 次男・秀勝:永禄12年(1569)生まれ。信長の子で秀吉の養子だった羽柴秀勝が亡くなったあと、その名を継ぐ。浅井三姉妹の末の江を妻にむかえた
  • 三男・秀保:天正7年(1579)生まれ。叔父・秀長の養子となり、大和郡山の豊臣家を継ぐ

子どものいない秀吉と秀長にとって、ともの息子たちは、豊臣家を継ぐ大事な血筋でした。姉の息子を養子にして家を託すしくみについては、秀吉の甥とねねの甥を関係図で整理と三好信吉(豊臣秀次)の兄弟はどうなったのかにまとめています。

ドラマの「小一郎のことが嫌いなの?」

第42回の予告で、ともは秀次に「あんた、小一郎のことが嫌いなの?」と問いかけます。小一郎は秀長の若いころの名です。ドラマでは、秀次が北野の大茶会を提案し、秀長が時期尚早だと反対する筋が伝えられていて(北野大茶湯に秀長はなぜ反対したのか)、叔父と甥のあいだに入る母の姿が描かれるようです。

史実の秀次と秀長は、四国攻めでともに戦い、のちには秀次の弟・秀保が秀長の養子になっています。記録のうえで、二人が不仲だったという話は見当たりません(秀次は秀長を嫌っていたのか)。ともにとっては、弟の秀長と息子の秀次・秀保が、ひとつの家族として豊臣家を支えていく姿こそ、いちばん望んでいたものだったはずです。

3年あまりで3人の息子を失う

天正19年(1591)に秀長が亡くなり、同じ年に秀吉の子の鶴松も亡くなると、秀次が秀吉の後継ぎとして関白になります。ともの長男は、天下人の後継ぎになったのです。しかし、ここからともの悲しみが続いていきます。

文禄元年(1592)9月 次男の秀勝が、朝鮮出兵のさなかに巨済島で病死する。24歳
文禄4年(1595)4月 三男の秀保が、大和の十津川で急死する。17歳。大和の豊臣家は途絶える
文禄4年7月 長男の秀次が謀反の疑いをかけられ、高野山で切腹する。28歳
文禄4年8月 秀次の妻や子ら39人が、京の三条河原で処刑される
近江八幡市に立つ豊臣秀次の像
近江八幡市に立つ豊臣秀次の像。秀次は八幡山に城を築き、城下町を開いた(滋賀県近江八幡市)

わずか3年あまりのあいだに、ともは3人の息子をすべて失いました。秀次の幼い子どもたち、つまりともの孫たちも処刑されています。夫の吉房も秀次事件に連座して讃岐へ流されました(秀次事件をわかりやすく解説、秀次事件はなぜ妻子三十九人にまで及んだのか)。

秀次を切腹させたのは、ともの実の弟の秀吉です。弟が息子を死に追いやり、孫たちまで命を奪われる。そのとき、同じく弟である秀長はもうこの世にいませんでした。ともの悲しみの深さは、想像するにあまりあります。

出家して日秀に ─ 瑞龍寺を開く

秀次の死のあと、ともは出家して日秀と名のりました。そして文禄5年(1596)、京都の村雲の地に瑞龍寺を開き、秀次の菩提を弔いました。寺伝では、後陽成天皇から寺地と1000石の寺領を与えられたとされています。皇族や公家の娘が住職をつとめる門跡寺院となり、「村雲御所」と呼ばれるようになりました。日蓮宗の寺で、尼僧の門跡寺院として知られています。

ともは、豊臣家が滅んだ大坂の陣(元和元年・1615)も見届け、寛永2年(1625)4月24日、92歳で亡くなりました。両親もきょうだいも、夫も3人の息子も見送ったあとの長い晩年でした。

瑞龍寺はいま、秀次の城跡に

京都にあった瑞龍寺は、昭和30年代の後半(1961〜63年ごろ)に、滋賀県近江八幡市の八幡山の山頂へ移されました。八幡山は、秀次が城を築いた場所です。母が開いた寺が、400年近くたって息子の城跡に移ったことになります。

八幡堀と、その奥にそびえる八幡山
八幡堀と、その奥にそびえる八幡山。山頂の秀次の城跡に、いまは瑞龍寺がある(滋賀県近江八幡市)

山頂へはロープウェーで上ることができ、寺の境内からは琵琶湖や近江八幡の町を見わたせます。ふもとの八幡堀や町並みは、秀次がつくった城下町のなごりです。秀次の居城については八幡山城で紹介しています。

よくある質問

Q. 『豊臣兄弟!』でともを演じているのは誰ですか?
A. 宮澤エマさんです。

Q. ともは秀吉の姉ですか、妹ですか?
A. 姉です。天文3年(1534)生まれで、秀吉より3つ、秀長より6つ年上でした。

Q. ともの子どもは誰ですか?
A. 豊臣秀次・豊臣秀勝(小吉秀勝)・豊臣秀保の3人の息子です。

Q. 日秀尼はいつ亡くなりましたか?
A. 寛永2年(1625)4月24日、92歳で亡くなりました。

Q. 瑞龍寺はどこにありますか?
A. もとは京都の村雲にありましたが、いまは滋賀県近江八幡市の八幡山の山頂、秀次の城跡にあります。

まとめ

とも(日秀尼)は、秀吉と秀長の姉として尾張中村に生まれ、3人の息子を豊臣家の後継ぎ候補として送り出しました。しかし文禄年間の3年あまりで息子をすべて失い、秀次事件では孫たちまで命を奪われます。出家して日秀となったともは、瑞龍寺を開いて息子たちを弔い、92歳まで生きて豊臣家の終わりを見届けました。ドラマで宮澤エマさんが演じるともの姿の先に、この長い晩年があることを知っておくと、物語の見え方が少し変わってくるかもしれません。

参考:コトバンク「瑞龍寺」(日本大百科全書・精選版日本国語大辞典)/和樂web「秀吉の姉・とも」

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