- 「くノ一」は「女」という字を「く」「ノ」「一」に分けた言葉で、江戸時代の忍術書『万川集海』には、女を使って敵の屋敷に入りこむ「くノ一の術」が書かれています
- ただし、その中身は「女を手引きや運び役に使う術」で、男の忍びと同じように訓練を受けて偵察や破壊をする「女忍者」がいたことを示す確かな史料は、いまのところ見つかっていません
- 武田信玄の命で望月千代女が信濃の禰津(根津)に歩き巫女を集め、諸国の情報を探らせたという話がよく知られていますが、これを裏づける同時代の史料はなく、後世に広まった伝承と考えられています
- 「くノ一」が女忍者の意味で広まったのは、昭和の作家・山田風太郎の忍法帖シリーズからです。ドラマで伊原六花さんが演じる女忍びの由利も、こうした物語の流れの上にあります
10月30日に放送されるドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』第2話では、九度山を出る幸村(安藤政信さん)の手助けを引き受けた猿飛佐助(岩本照さん)が、女忍びの由利(伊原六花さん)にちょっかいを出し、霧隠才蔵(中川大志さん)がそれに反発する場面がありそうです。講談の由利鎌之助はもともと男の豪傑で、ドラマでは女の忍びに生まれ変わりました(由利鎌之助は女性だったのか)。では、そもそも戦国時代に女の忍び「くノ一」は本当にいたのでしょうか。この記事では、忍術書に書かれた「くノ一の術」、信濃の歩き巫女と望月千代女の伝承、そして「くノ一」という言葉がどう広まったのかをたどります。
「くノ一」とは ─ 「女」の字を分けた隠語
「くノ一」は、「女」という漢字を書き順にしたがって「く」「ノ」「一」の三つに分けた言葉です。忍びの仲間うちの隠語として女を指したといわれ、江戸時代には、ふつうに「女」を意味する洒落た言い回しとしても使われていました。つまり、もともとは「女忍者」という意味ではなく、単に「女」のことだったのです。
この言葉が忍術の文脈で出てくる代表的な書物が、延宝4年(1676)に伊賀の藤林保武がまとめたとされる忍術書『万川集海』です。伊賀と甲賀の忍術を集大成したこの本には、「くノ一の術」という項目が立てられています(猿飛佐助と霧隠才蔵の得意技は?)。

『万川集海』の「くノ一の術」は女忍者の術ではなかった
『万川集海』の「くノ一の術」は、男の忍びが入りこみにくい屋敷に、女を使って入りこむための術です。たとえば、奉公人として女を敵方の屋敷に送りこみ、内側から手引きをさせる、といった使い方が説かれています。続く「隠蓑の術」でも、女に長持(衣装箱)を運び入れさせ、その中に男の忍びが隠れて屋敷に入る、という手が紹介されています。
ここで大切なのは、主役はあくまで男の忍びで、女は手引きや運び役として「使われる」側だということです。女が男と同じように訓練を受け、偵察や放火、城の乗っ取りといった忍びの仕事をこなしたことを示す確かな史料は、いまのところ見つかっていません。忍者研究の世界でも、戦国時代に「女忍者」と呼べる存在がいたかどうかには慎重な見方が多く、少なくとも物語のくノ一のように刀や手裏剣で戦う女の忍びは、史料からは確かめられないとされています。
望月千代女と歩き巫女の伝承
「実在したくノ一」として必ず名前が挙がるのが、望月千代女です。千代女は武田家に仕えた信濃の望月氏の一族の妻で、夫が川中島の戦いで討死したのち、武田信玄の命を受けて信濃の小県郡禰津村(いまの長野県東御市)に住み、身寄りのない少女たちを集めて歩き巫女に仕立て、諸国をめぐらせて情報を集めさせた、と伝えられています。

歩き巫女は、特定の神社に属さずに各地を旅し、口寄せ(神や死者の言葉を伝えること)や祈祷をして暮らした女性たちで、禰津村は江戸時代から歩き巫女の村として知られていました。旅をしながら国から国へ移り歩く歩き巫女が、各地の噂を耳にする立場にあったのも確かでしょう。けれども、千代女が信玄の命で巫女たちを忍びとして育てたという話は、同時代の史料には見えず、比較的新しい時代になってから広まった伝承と考えられています。禰津村の歩き巫女と、甲賀ともつながる望月の名が結びついて生まれた物語なのかもしれません。
ちなみに、禰津は真田十勇士の根津甚八(ドラマでは金田哲さん)の名のもとになったともいわれる、真田家とゆかりの深い禰津氏の本拠地でもあります(穴山小助・根津甚八とは)。
「くノ一」が女忍者になったのは昭和の小説から
いまのように「くノ一」が女忍者を指す言葉として広まったのは、昭和30年代から40年代にかけて大流行した山田風太郎の忍法帖シリーズがきっかけです。初めのころの作品では、女の忍びはまだ「女忍者」と書かれ、「くノ一」は女を指す隠語として使われていましたが、シリーズが進むにつれて「くノ一」が女忍者そのものを指す言葉として使われるようになりました。映画やテレビ、漫画がこれに続き、「くノ一」は女忍者を意味する言葉として定着していきます。
真田十勇士の物語でも、明治・大正の立川文庫では十勇士は全員が男でしたが、戦後の映画やドラマ、小説では女の忍びが加わることが増えていきました。ドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』で由利が女の忍びとして描かれるのも、こうしたくノ一の物語の流れを受けたものといえます(真田十勇士とは)。
ドラマ『真田十勇士』第2話と由利
第2話のあらすじでは、九度山からの脱出の手助けを頼まれた佐助が、敵討ちと褒美を目当てに引き受ける一方、由利にちょっかいを出して才蔵の反発を買うようです。十勇士の中でただ一人の女の忍びとして、由利がどんな技を見せるのか、佐助や才蔵との関係がどう動くのかが見どころになりそうです(『真田十勇士』キャスト・相関図一覧/真田幸村(信繁)はどうやって九度山を抜け出したのか)。
よくある疑問
Q. くノ一は実在したのですか?
A. 忍術書『万川集海』には女を使って敵の屋敷に入りこむ「くノ一の術」が書かれていますが、女が忍びとして訓練され、戦ったことを示す確かな史料は見つかっていません。
Q. 「くノ一」という言葉の意味は?
A. 「女」という字を「く」「ノ」「一」に分けた隠語で、もともとは単に女を指す言葉でした。女忍者の意味で広まったのは、山田風太郎の忍法帖シリーズからです。
Q. 望月千代女は実在したのですか?
A. 武田信玄の命で禰津村の歩き巫女を忍びとして育てたという話が知られていますが、同時代の史料では確かめられず、後世に広まった伝承と考えられています。
Q. ドラマの由利は史実の人物ですか?
A. 由利鎌之助は講談や立川文庫に登場する十勇士の一人で、もともとは男の豪傑として描かれていました。ドラマでは女の忍びとして描かれています。
まとめ
「くノ一」は「女」の字を分けた隠語で、江戸時代の忍術書には女を使って屋敷に入りこむ「くノ一の術」が書かれていますが、女が忍びとして戦ったことを示す確かな史料はありません。望月千代女と歩き巫女の話も、後世に広まった伝承と考えられています。女忍者としてのくノ一は、昭和の小説や映画が生んだ姿といってよいでしょう。ドラマの由利は、そうした物語の中のくノ一の魅力を受け継いだ人物といえます。
よくある疑問
Q. 真田幸村はいつ九度山を抜け出したのですか?
A. 慶長19年(1614)10月9日ごろとされます。翌日ごろには大坂城に入ったと考えられています。
Q. どうやって監視の目を逃れたのですか?
A. 父・昌幸の法要を名目に周辺の村人を招いて酒をふるまい、皆が酔いつぶれているあいだに出発した、という話が『名将言行録』などに伝わります。ただし後世の逸話で、史実かどうかはわかりません。
Q. 九度山の真田家を見張っていたのは誰ですか?
A. 紀伊国を治めていた浅野家です。当時の当主は浅野長晟でした。
Q. 真田の抜け穴を通って逃げたのですか?
A. いいえ。「真田の抜け穴」は昭和の調査で古墳の石室だとわかっており、信繁が使った地下道ではありません。
Q. 何人で大坂城に入ったのですか?
A. 九度山を出た一行は百人あまりとも伝わり、途中で地侍や高野山ゆかりの人びとが加わって、全体で数百人ほどになったとする見方もあります。
まとめ
真田信繁は慶長19年(1614)、豊臣秀頼の招きに応じて、浅野家の監視下にあった九度山を抜け出し、大坂城に入りました。村人を宴でもてなした隙に出発したという話は後世の逸話ですが、十四年を過ごした九度山の人びとの中には、信繁について大坂へ向かった者もいたと伝わります。ドラマの幸村たちが、どんな方法で九度山を抜け出すのか、第2話に注目です。
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