佐治日向守とは|旭姫(あさひ)の前夫は本当に自害したのか ─ どんな家で、役目・城・石高は? 佐治一成との混同説|『豊臣兄弟!』第40回

夕暮れの伊勢湾の港と丘の上の城を、屋敷の縁側から見つめる武士の後ろ姿(イメージイラスト)
この記事のポイント
  • 真田家は、信濃国小県郡の真田郷(いまの長野県上田市真田町)を本拠とした一族です。武田信玄に仕えた真田幸隆(幸綱)が家を大きくし、子の昌幸、孫の信之(信幸)と信繁(幸村)へと続きました
  • 幸隆の長男・信綱と次男・昌輝は、天正3年(1575)の長篠の戦いでそろって戦死しました。そのため、他家の養子になっていた三男の昌幸が真田家を継ぐことになります
  • 昌幸は武田家の滅亡後、織田・北条・徳川・上杉と主を替えながら領地を守り、天正13年(1585)の第一次上田合戦で徳川軍を退けました。『豊臣兄弟!』第39回で秀吉が「徳川と真田の和睦」を命じるのは、この直後の出来事です
  • 関ヶ原の戦いでは、兄の信之が徳川方、父の昌幸と弟の信繁が豊臣方に分かれました。信之の家は松代藩主として幕末まで続き、信繁は大坂の陣で「日本一の兵」と呼ばれる最期を遂げます

『豊臣兄弟!』第40回「あさひの輿入れ」の予告では、秀吉の妹・あさひ(倉沢杏菜)を夫と別れさせ、徳川家康の妻にする話が描かれるようです。旭姫の最初の夫として、よく名前が挙がるのが「佐治日向守」です。妻を奪われたうえ、自害したという悲しい話で知られていますが、この人物はどういう家の出で、どんな役目を負い、どこを治めていたのでしょうか。史料をたどると、意外な姿が見えてきます。

門前で別れる夫婦のイメージ(イラスト)
夕暮れの武家屋敷の門前で別れる夫婦のイメージ(イラスト)。旭姫は天正14年(1586)、兄・秀吉の命で夫と別れ、家康に嫁ぎました
目次

佐治日向守とは ─ 旭姫の最初の夫とされる人物

佐治日向守は、秀吉の妹・旭姫の最初の夫とされる人物です。「日向守」は朝廷から与えられる官途名で、本当の名前(諱)は伝わっていません。生まれた年も亡くなった年も、はっきりしません。

この人物が登場するのは、江戸時代の中ごろに編まれた『武徳編年集成』という徳川家の歴史書です。そこには、秀吉が家康を上洛させるために旭姫を嫁がせようとし、織田信雄らに縁組を進めさせたこと、その知らせを生駒親正と堀尾吉晴が佐治日向守に伝えたことが書かれています。『御年譜微考』もほぼ同じ内容で、のちに『改正三河後風土記』や幕末の『大日本野史』にも引き継がれました。

離縁を受け入れ、自害した ─ 伝わる話

これらの書物によると、日向守は秀吉の求めを受け入れて旭姫と別れることを承知しましたが、「自分が生きていては、きっと差し障りが出るだろう」と言って自害したといいます。旭姫とのあいだに子はなかったとされます。秀吉が離縁の埋め合わせとして加増を申し出たものの日向守が断った、という話も伝わり、自害ではなく出家して京都の郊外に身を隠したという別の話もあります。

天下人の妹の夫が、天下人の都合で妻を奪われ、みずから命を絶つ。家のため、兄のために嫁ぎ直した旭姫の悲しみとあわせて、多くの人の心を打ってきた話です。ドラマで「あさひを夫と別れさせる」場面がどう描かれるのか、注目が集まるのもこの話があるからでしょう。

▽ よく語られる話
旭姫の夫・佐治日向守は、秀吉に妻を家康へ差し出せと命じられ、離縁を承知したあと、「自分が生きていては差し障りがある」と言って自害した。
▼ 史実ではこうです
この話は江戸時代の中ごろ以降の書物に見えるもので、同時代の日記や文書には佐治日向守という名前そのものが出てきません。歴史学者の福田千鶴氏は、江と佐治一成の結婚と離縁の話が、旭姫の話と混ざったのではないかと指摘しています。旭姫の前夫としては、実在が確かめられる副田甚兵衛のほうが有力とされます。

佐治日向守は実在したのか

ところが、佐治日向守という名前は、ほかの史料や書物には見当たりません。秀吉の家臣の名簿にも、当時の日記にも、その名は出てこないのです。そのため、この人物の実在そのものを疑う見方が強くあります。

一方で、旭姫の前夫として、『武家事紀』や、尾張藩士が江戸時代に書いた『塩尻』『士林泝洄』などは、秀吉の家臣・副田甚兵衛(吉成)の名を挙げています。副田甚兵衛は天正8年(1580)の秀吉の覚書に名前が見え、実在が確かめられる人物です。歴史学者の黒田基樹氏も、旭姫の最初の夫は副田甚兵衛である可能性が高いと指摘しています。『豊臣兄弟!』でも、あさひの夫は「甚助」(前原瑞樹)として描かれてきました。副田甚兵衛については甚助(副田吉成)とはでくわしく紹介しています。

どういう家だったのか ─ 尾張・大野城の佐治氏

では、「佐治」という名前はどこから来たのでしょうか。戦国時代の尾張には、知多半島の大野城(愛知県常滑市)を本拠とした佐治氏という一族がいました。大野は伊勢湾に面した港町で、佐治氏は四代にわたってこの城を守り、伊勢湾の船の行き来を押さえる水軍の力を持っていました。

その力に目をつけたのが織田信長です。信長は妹のお犬を佐治信方に嫁がせ、佐治氏を味方に引きこみました。信方は伊勢長島の一向一揆との戦い(天正2年・1574)で、二十代の若さで亡くなっています。家を継いだのが、お犬の子の佐治一成です。

佐治一成と江 ─ もう一つの「離縁」

佐治一成は天正12年(1584)ごろ、茶々の末の妹・江と結婚しました。一成は15歳ほど、江は11歳ほどだったといわれます。ところが同じ年の小牧・長久手の戦いで、一成は家康が伊勢へ渡るのを船で助けたと疑われ、秀吉の怒りを買って大野城を追われました。江は一成と離縁させられ、のちに秀吉の甥の小吉秀勝、さらに徳川秀忠へと嫁いでいきます。一成はその後、信長の弟・織田信包に仕えたと伝わります。

秀吉の命で、身内の女性が夫と引き離される ─ この筋書きは、旭姫の話とよく似ています。福田千鶴氏は、江と佐治一成の結婚と離縁の話が、いつのまにか旭姫の話と混ざり、「佐治日向守」という人物が生まれたのではないかと考えています。江の人生については浅井三姉妹のその後もどうぞ。

東海道を進む旭姫の花嫁行列のイメージイラスト
東海道を進む旭姫の花嫁行列のイメージ(イラスト)。旭姫は天正14年(1586)5月、浜松の家康のもとへ嫁ぎました

役目・城・領地・石高はわかっているのか

佐治日向守がどんな役目を負い、どの城を預かり、どれだけの領地や石高を持っていたのかを示す史料はありません。伝わる話は旭姫との離縁と自害の場面だけで、ほかの事績はまったくわからないのです。尾張の佐治氏の一族だったのか、それとも名前だけが借りられたのかも、はっきりしません。

一方、本家にあたる大野城の佐治氏は、伊勢湾の港と海の道を押さえる国衆でした。大野城の跡は、いま常滑市の城山公園となっていて、昭和54年(1979)に建てられた模擬天守と、佐治氏をまつる佐治神社があります。ただし、佐治氏の石高を示す確かな数字も伝わっていません。

『豊臣兄弟!』第40回でどう描かれるのか

予告では、あさひを夫と別れさせ、家康の妻にする話が描かれるようです。ドラマのあさひの夫は甚助として登場してきたので、佐治日向守の名が出るのか、それとも甚助が「自害」や「出家」の伝承を背負う形で描かれるのかが見どころです。史実の旭姫は天正14年(1586)5月、44歳で浜松の家康のもとへ嫁ぎ、天正18年(1590)に48歳で亡くなりました。くわしくは旭姫(朝日姫)の生涯をどうぞ。

よくある疑問

Q. 佐治日向守は本当に自害したのですか?
A. 江戸時代の『武徳編年集成』などにそう書かれていますが、同時代の史料では確かめられません。出家したという話もあります。

Q. 旭姫の最初の夫は誰ですか?
A. 佐治日向守説と副田甚兵衛(吉成)説があり、実在が確かめられる副田甚兵衛のほうが有力とされます。

Q. 佐治日向守と佐治一成は同じ人ですか?
A. 別の人物として伝わっています。佐治一成は大野城主で、茶々の妹・江の最初の夫です。二人の話が混ざったのではないかという説があります。

Q. 佐治日向守の領地や石高は?
A. それを示す史料はありません。

まとめ

佐治日向守は、旭姫の最初の夫として、離縁を受け入れて自害したと伝わる人物です。けれども、その名は江戸時代の書物にしか見えず、役目や城、石高もわかっていません。尾張・大野城の佐治氏と、江の最初の夫・佐治一成の話が混ざって生まれた人物ではないか、という見方もあります。それでも、秀吉の天下取りの陰で身内の女性たちが夫と引き離されたことは確かです。第40回であさひと夫の別れがどう描かれるのか、史実とくらべながら見てみてください。

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