天正13年(1585)11月13日、家康の重臣・石川数正が岡崎城を出て秀吉のもとへ走りました。数正は徳川の兵の数や配置、城の守り、家臣どうしの関係まで知り尽くした人物です。徳川の手の内が、そのまま秀吉に筒抜けになるおそれがありました。そのため家康は、三河以来の軍のしくみを武田流(甲州流)に改めたと伝わります。信濃の小笠原貞慶も数正に続いて豊臣方へつき、徳川は東西から揺さぶられました。この危機を救ったのは、十六日後に起きた天正地震でした。数正の出奔が徳川家に何を引き起こしたのかを、順を追って整理します。
※アイキャッチの絵はイメージ(イラスト)です。
数正の出奔で、何が秀吉に「筒抜け」になったのか
石川数正は、家康が今川家の人質だったころからそばに仕えた古参の重臣です。徳川家では、東三河を酒井忠次、西三河を石川家がまとめる形がとられ、数正は西三河の要・岡崎城を預かっていました。小牧・長久手の戦いのあとは、秀吉との交渉を一手に引き受ける外交の窓口でもありました(石川数正はなぜ家康を裏切った(寝返った)のか)。
そうした立場の人物が敵方へ移れば、次のようなことが相手に知られるおそれがあります。
- 徳川の兵の数と、どの城に誰がいるかという配置
- 陣立ての決まり、合図、行軍の順番といった軍の約束ごと
- 岡崎城をはじめとする三河の城の守りの弱いところ
- 家臣たちの力関係や、誰が秀吉との和睦に傾いているか
しかも数正は家族や家臣を連れて出ています。徳川家の中に動揺が広がったのは当然でした。数正が城代をつとめた岡崎城については岡崎城で紹介しています。
軍制を武田流(甲州流)に改めたのは本当か
数正の出奔をきっかけに、家康は三河以来の軍制を武田流に改めた ─ これは江戸時代から語られてきた話で、国立公文書館の展示でも「武田流に改めたと言われています」と紹介されています。武田家の旧臣が多く残る甲斐から、信玄の時代の軍法や武具の決まりを集めさせたとも伝わります。
ここで押さえておきたいのは、家康がこのとき武田のやり方を取り入れられた理由です。天正10年(1582)に武田家が滅び、本能寺の変のあとの争いを経て、家康は甲斐と信濃の一部を手に入れていました。そのとき多くの武田旧臣を召し抱え、山県昌景の隊にいた者たちを井伊直政に付けています。直政の部隊が赤い具足でそろえた「赤備え」は、その名残です(井伊直政はなぜ「赤鬼」と呼ばれたのか)。家康の手元には、武田流に切り替えるための人材がすでにそろっていました。
小笠原貞慶の離反 ─ 信濃でも起きた連鎖
数正の出奔は、徳川家の中だけの問題では終わりませんでした。徳川方についていた信濃の小笠原貞慶が、数正に続くように豊臣方へ移ったのです。貞慶の子(のちの小笠原秀政)は徳川への人質として数正のもとに預けられていて、数正が秀吉のもとへ連れて行ったとされます。
信濃では、同じ年の閏8月に家康が上田城の真田昌幸を攻めて大敗したばかりでした(第一次・第二次上田合戦)。真田に続いて小笠原まで豊臣方になれば、徳川は信濃での足場を大きく失います。真田と徳川が何をめぐって争っていたのかは徳川と真田は何でもめていたのかでくわしく書きました。小笠原氏の本拠については林城も参考になります。
めぐり合わせが面白いのは、貞慶が取り戻して「松本」と名づけた深志の城に、のちに入るのが石川数正だという点です。小田原攻めのあと、小笠原家は関東へ移され、数正が松本の城主となりました(松本城)。
秀吉はなぜすぐ攻めてこなかったのか ─ 天正地震
徳川の内情を知る重臣を手に入れた秀吉は、家康を攻める準備を進めていたとされます。ところが数正の出奔から十六日後の11月29日、中部から近畿にかけて大きな地震が起こりました。天正地震です。秀吉の側の城や町も大きな被害を受け、家康攻めは取りやめになりました(天正大地震とは)。
これを境に、秀吉は力で攻めるのではなく、家康を味方に引き込む道を選びます。妹の旭姫を家康に嫁がせ、母の大政所まで人質として送り、ついに家康を大坂に来させました(旭姫と大政所/家康はなぜ秀吉に臣従したのか)。数正の出奔で生まれた徳川の危機は、地震と、その後の秀吉の方針転換によって、戦にならずに収まったことになります。
長い目で見た影響 ─ 出奔は徳川を弱くしたのか
ここからは筆者の見方です。数正の出奔は、目先では徳川にとって大きな痛手でした。しかし長い目で見ると、武田流への切り替えを一気に進め、武田旧臣を軍の中心に組み込むきっかけにもなりました。のちに関ヶ原で井伊直政や本多忠勝が率いた徳川の軍は、三河の兵と武田の兵が混ざり合ったものです。
一方、数正自身は徳川の歴史の中で「裏切り者」として扱われることになりました。江戸時代に徳川家の立場で書かれた記録では、数正の評価はどうしても厳しくなります。数正の晩年と子どもたちのその後は石川数正の最後とはと次男・康勝の最後で紹介しています。
数正の出奔の影響についてよくある質問
Q. 石川数正の出奔で、徳川家はどんな影響を受けましたか?
A. 軍の内情を知る重臣が去ったため、家康は三河以来の軍制を武田流に改めたと伝わります。信濃の小笠原貞慶も豊臣方へ移り、徳川は信濃での足場も揺らぎました。出奔そのものの理由は石川数正はなぜ家康を裏切った(寝返った)のかで整理しています。
Q. 「甲州流」と「武田流」は同じですか?
A. どちらも武田信玄の時代の軍のしくみや兵法を指す言い方です。江戸時代には「甲州流軍学」として体系化され、広く学ばれました。
Q. 武田流に改めたことを示す史料はありますか?
A. 江戸時代の記録や伝承で語られてきた話で、どこをどう変えたかを細かく示す同時代の史料は多くありません。ただ、武田旧臣を大量に抱えていた家康が武田のやり方を取り入れたこと自体は、自然な流れといえます。
Q. 数正の出奔のあと、秀吉は徳川を攻めたのですか?
A. 攻める準備はしていたとされますが、出奔の十六日後に天正地震が起き、取りやめになりました。その後、秀吉は旭姫と大政所を送って家康を臣従させる道を選びます。
まとめ
石川数正の出奔は、徳川家の手の内が秀吉に筒抜けになりかねない大事件でした。家康は軍制を武田流に改めて備え、信濃では小笠原貞慶の離反という連鎖も起きました。それでも戦にならなかったのは、天正地震と、その後の秀吉の方針転換があったからです。『豊臣兄弟!』の予告に出た「徳川、激震す。」は、まさにこの一連の揺れを指しているのでしょう。第39回の史実は第39回「茶々の本心」あらすじ予想と史実にまとめています。
参考:国立公文書館デジタル展示「徳川家康 ─ 将軍家蔵書からみるその生涯」(石川数正の出奔)/『当代記』/『三河物語』/柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』平凡社/平山優『天正壬午の乱』戎光祥出版

