- 『豊臣兄弟!』で前原瑞樹さんが演じる甚助は、秀吉・秀長の妹「あさひ(旭姫)」の夫で、史実の副田甚兵衛吉成がモデルです。旭の前夫には、副田吉成説と佐治日向守説の二つがあります
- 副田吉成は尾張出身で、秀吉の直臣でした。秀長の与力として但馬攻めに加わり、但馬の多伊城(指杭城)を任されたことが記録に残ります。ただし石高を示す確かな史料はありません
- 江戸時代の随筆『塩尻』には、家康との縁組のため秀吉から「五万石を加増するから離縁せよ」と迫られ、加増を断って出家したという話が伝わります
- 旭は天正14年(1586)に44歳で家康に嫁ぎ、天正18年(1590)1月、京で48歳の生涯を閉じました。輿入れからわずか4年足らずのことでした
『豊臣兄弟!』第40回「あさひの輿入れ」では、倉沢杏菜さんが演じる秀吉・秀長の妹・あさひが、徳川家康のもとへ嫁ぐことになります。けれども、あさひにはすでに夫がいました。前原瑞樹さんが演じる甚助です。天下人の兄の都合で、長年連れ添った妻を差し出すことになった男は、史実ではどんな人物だったのでしょうか。この記事では、旭の前夫をめぐる二つの説と、離縁のその後、そして旭自身の最期までをたどります。秀吉がなぜ妹を差し出したのかについては旭姫と大政所:秀吉はなぜ妹と母を差し出したのかでまとめています。

旭の前夫は誰だったのか ─ 二つの説
旭の最初の夫が誰だったのかは、実はよく分かっていません。江戸時代にまとめられた書物には、大きく分けて二つの名前が出てきます。ドラマの甚助は、このうち副田甚兵衛吉成をモデルにしています。
| 副田甚兵衛吉成 | 佐治日向守 | |
|---|---|---|
| どんな人か | 尾張烏森の出身。秀吉の直臣で、秀長の与力として但馬攻めなどに従軍 | 秀吉の出世にともなって武士に取り立てられた、元は尾張の百姓とされる |
| 出てくる書物 | 『武家事紀』『塩尻』『士林泝洄』、「古老聞書」など | 『武徳編年集成』『御年譜微考』『三河後風土記』など |
| 離縁のあと | 加増を断って出家し、尾張に隠棲した(『塩尻』) | 旭を返すことを承知したあと、自害した(『武徳編年集成』) |
| 実在性 | 秀長の与力としての活動が記録に残る | 同時代の史料に名が見えず、実在が疑われている |
副田甚兵衛吉成 ─ 秀吉の直臣、秀長の与力
副田吉成は、尾張国愛知郡の烏森(いまの名古屋市中村区)の出身とされ、秀吉に仕えた直臣でした。天正5年(1577)に秀長が但馬へ攻め込んだときにはこれに従い、戦いのあと、秀長の与力として但馬の二方郡にある多伊城(指杭城)を任されています。その後も天正8年(1580)の三木合戦の後始末や、天正9年の鳥取城攻めに加わり、天正10年(1582)には秀吉が京で営んだ信長の葬儀で奉行の一人をつとめたとも伝わります(豊臣秀長はどう出世したのか)。秀吉兄弟と同じ尾張中村の近くの出で、早くから兄弟に仕えた身内同然の家臣だったと考えられます。
石高はどれくらいで、なぜ離縁させられたのか
副田吉成がどれほどの石高を持っていたのかを示す確かな史料は、見つかっていません。多伊城を任された時期には、但馬の小さな城をあずかる程度の立場だったとみられます。
離縁の理由についても、伝えは二つに分かれます。江戸時代の『武家事紀』は、天正10年に多伊城を失ったことで秀吉の不興を買い、離縁させられたとしています。一方、随筆『塩尻』は、天正13年から14年にかけて旭を家康に嫁がせることになった際、秀吉から五万石の加増を条件に離縁を迫られ、副田はかえって加増を断って出家した、と伝えます。どちらが正しいかは決め手がありませんが、ドラマが描くのは後者の筋に近いものになりそうです。
佐治日向守説 ─ 自害した夫の話はどこから来たのか
佐治日向守の名は、『武徳編年集成』や『御年譜微考』など、江戸時代に徳川家の側でまとめられた書物に出てきます。もとは尾張の百姓で、秀吉の出世にともなって武士に取り立てられ、旭を返すことを承知したあと自害した、という筋です。旭の悲劇をより強く印象づける話ですが、同時代の史料では確かめられず、実在そのものが疑われています。旭の前夫の話は、それだけ後の時代の語り手たちの心をとらえたということでもあるのでしょう。
旭のその後 ─ 浜松、駿府、そして京での最期

旭は天文12年(1543)の生まれとされ、天正14年(1586)5月14日、44歳で家康のいる浜松に入りました(浜松城)。家康の正室としては異例の年齢で、二人のあいだに子は生まれていません。同じ年の暮れに家康が駿府へ本拠を移すと、旭も駿府に移り、「駿河御前」と呼ばれました(駿府城跡)。その年の秋には、母の大政所が「旭の見舞い」の名目で岡崎へやって来ています(第41回「家康の野望」)。
天正16年(1588)、旭は母の病を見舞うために京へのぼり、その後は京にとどまったとされます。そして天正18年(1590)1月14日、48歳で亡くなりました。家康に嫁いでから、わずか4年足らずのことです。葬られたのは京の東福寺(南明院)で、駿府の瑞龍寺にも分骨されています。兄の天下取りのために長年の夫と別れ、見知らぬ土地へ嫁いだ旭の人生は、豊臣と徳川をつなぐ役目を果たしたところで、静かに幕を下ろしました。
『豊臣兄弟!』ではどう描かれるのか
第40回「あさひの輿入れ」では、倉沢杏菜さんのあさひと、前原瑞樹さんの甚助の別れが大きな見どころになりそうです。秀吉の命令を伝える役目を、秀長がどう引き受けるのかにも注目です(第40回「あさひの輿入れ」あらすじ予想と史実)。続く第41回では、母の大政所が岡崎へ送られます(大政所(なか)とは)。
よくある疑問
Q. 旭(朝日姫)の前の夫は誰ですか?
A. 副田甚兵衛吉成とする説と、佐治日向守とする説があります。『豊臣兄弟!』の甚助は副田吉成がモデルです。
Q. 副田吉成は秀吉の直臣ですか?
A. はい。尾張出身で秀吉に仕え、秀長の与力として但馬攻めなどに加わりました。
Q. 副田吉成の石高はどれくらいですか?
A. 確かな史料はありません。『塩尻』には、離縁の条件として五万石の加増を示されたが断った、という話が伝わります。
Q. 旭の前夫は自害したのですか?
A. 自害したというのは佐治日向守の名で伝わる話で、実在が疑われています。副田吉成の話では、出家して尾張に隠棲したとされます。
Q. 旭姫はいつ亡くなりましたか?
A. 天正18年(1590)1月14日、京で亡くなりました。48歳でした。
Q. 『豊臣兄弟!』で甚助を演じているのは誰ですか?
A. 前原瑞樹さんです。あさひは倉沢杏菜さんが演じています。
まとめ
旭の前夫については、副田甚兵衛吉成説と佐治日向守説があり、ドラマの甚助は秀吉の直臣で秀長の与力でもあった副田吉成がモデルです。石高ははっきりしませんが、五万石の加増を断って出家したという伝えは、この夫婦の別れの重さを今に伝えています。旭は家康に嫁いでわずか4年足らず、48歳で世を去りました。第40回で描かれるあさひと甚助の別れを、こうした史実とあわせて見てみてください。
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