茶々(淀殿)は本当に悪女だったのか:医学天正記に残る「気鬱」 ─ 曲直瀬玄朔が診た、気の強さだけではない素顔

御殿の一室で脇息にもたれる打掛姿の女性と、脈をとる剃髪の医師のイメージ
この記事のポイント
  • 豊臣家の医師・曲直瀬玄朔の診療記録『医学天正記』には、慶長6年(1601)6月、淀殿が「気鬱」で食が進まず、めまいや頭痛に悩んで薬を処方されたことが記されています
  • 慶長8年(1603)5月にも、気鬱に加えて胸の痛み、食の衰え、頭痛で再び診察を受けています。秀吉の死、関ヶ原の敗戦、家康の将軍就任と、豊臣家が追いつめられていく時期でした
  • 「悪女」「気が強い」という淀殿の像は、江戸時代以降の軍記や、明治以降の芝居で広まった面が大きく、同時代の史料からは確かめられません
  • ただし、当時の「気鬱」を今の病名にそのまま当てはめることはできません。カルテから分かるのは、心労が体に表れるほど追いつめられていた一人の女性の姿です

『豊臣兄弟!』で井上和さんが演じる茶々(のちの淀殿)は、日本史の「悪女」の代表のように語られることがあります。豊臣家を滅ぼした気の強い女性、という印象です。けれども、同じ時代を生きた医師の記録には、まったく違う淀殿の姿が残っていました。この記事では、曲直瀬玄朔の『医学天正記』に書かれた淀殿の病から、「悪女」の陰に隠れた素顔をたどります。茶々の一生の流れは茶々(淀殿)とはでまとめています。

目次

『医学天正記』とは ─ 名医・曲直瀬玄朔のカルテ

『医学天正記』は、京の名医・曲直瀬玄朔が、自分が診た患者の症状や見立て、処方を書き残した診療記録です。患者には天皇や公家、秀吉や秀次、家康、毛利輝元といった天下人や大名が並び、日本に残る最も古いカルテのひとつともいわれます(医学天正記とは)。NHKの『歴史探偵』でも取りあげられ、淀殿の「気うつ」が紹介されました(歴史探偵『医学天正記』とは)。

慶長6年6月 ─ 「気鬱」で食が進まない

『医学天正記』によると、慶長6年(1601)6月、淀殿は「気鬱」によって食が進まず、めまいや頭痛に悩まされ、玄朔から薬を処方されました。その三年前の慶長3年(1598)8月に秀吉が亡くなり、前の年の慶長5年には関ヶ原の戦いで石田三成らの西軍が敗れています(石田三成と茶々の関係)。豊臣家の実権は徳川家康へと移り、淀殿はまだ九歳の秀頼を抱えて、大坂城で先の見えない日々を送っていました。

慶長8年5月 ─ 胸の痛みと頭痛

大阪城
大阪城。淀殿と秀頼が暮らした豊臣の大坂城は、いまの城の地下に眠っています

二年後の慶長8年(1603)5月にも、淀殿は再び玄朔の診察を受けています。このときは気鬱に加えて、胸の痛み、食の衰え、頭痛があり、薬が処方されました。この年の2月、家康は征夷大将軍となって江戸に幕府を開いています。豊臣家が天下の主であるという前提が、目に見えて崩れていった時期でした。同じ年の7月には、妹の江と徳川秀忠のあいだに生まれた千姫が、秀頼のもとへ嫁いできます。姪を息子の嫁に迎えるという縁組の陰で、淀殿の体は悲鳴を上げていたのかもしれません(浅井三姉妹のその後)。

「気鬱」とはどんな病だったのか

「気鬱」は、当時の医学で、体をめぐる「気」が滞って晴れない状態を指すことばです。気分がふさぎ、食欲が落ち、頭痛やめまい、胸のつかえなどが出るとされました。今でいう「うつ」と重なるところはありますが、四百年前の記録から現代の病名を決めることはできません。ここで分かるのは、心の重さが体の不調として表れ、医師の薬を必要とするほどだった、ということまでです。

「悪女・淀君」はいつ生まれたのか

淀殿が生きているあいだ、「淀君」と呼ばれた記録は見当たりません。「淀殿」という呼び名でさえ、確かめられるのは亡くなった後の記録からです。豊臣家を滅ぼした徳川の時代には、大坂の陣を描いた軍記の中で、淀殿は豊臣家を誤らせた人物として描かれるようになりました。さらに明治以降、坪内逍遥の『沓手鳥孤城落月』をはじめ、淀君を主人公にした芝居が人気を集め、気位が高く激しい「淀君」の姿が広く定着していきます。また、淀殿と寧々(高台院)が対立していたという話も、近年の研究では見直されています(茶々はなぜ秀吉の側室になったのか)。

▽ よく語られる話
淀殿は気が強く、わがままで、豊臣家を滅ぼした「悪女」だった。
▼ 史実ではこうです
悪女・淀君の像は、江戸時代以降の軍記や、明治以降の芝居で広まった面が大きく、同時代の史料からは確かめられません。医師の記録に残る淀殿は、秀吉の死後に「気鬱」で食が進まず、めまいや頭痛、胸の痛みに苦しんでいました。

強さと弱さ ─ どちらも茶々の素顔

もちろん、淀殿が弱いだけの女性だったわけではありません。大坂冬の陣では、武具を身につけ、武装した女房を従えて番所の武士を励ましたことが『当代記』に記されています(茶々は弓が得意だったのか)。二度の落城で父と母を失い、天下人の側室として跡継ぎを産み、その天下が自分の手からこぼれ落ちていくのを見届けた人です。人前で見せた強さと、医師にだけ見せた弱さ。その両方が、茶々という一人の女性の素顔だったのでしょう。

ドラマの茶々はどう描かれるのか

『豊臣兄弟!』第39回は「茶々の本心」です。井上和さんが演じる茶々は、弓を引く凛とした姿が印象的ですが、そのまなざしの奥にどんな「本心」が描かれるのかに注目したいところです(第39回「茶々の本心」の予想と史実)。秀吉の跡継ぎをめぐる事情は秀吉に実子はいたのかで整理しています。

よくある疑問

Q. 淀殿はうつ病だったのですか?
A. 『医学天正記』に「気鬱」で食が進まず、めまいや頭痛があったと記されています。ただし、当時の「気鬱」を現代の病名にそのまま当てはめることはできません。

Q. 淀殿が病気になったのはいつですか?
A. 記録に残るのは慶長6年(1601)6月と、慶長8年(1603)5月です。どちらも秀吉の死と関ヶ原の戦いの後です。

Q. 淀殿は本当に悪女だったのですか?
A. 悪女の像は江戸時代以降の軍記や明治以降の芝居で広まった面が大きく、同時代の史料からは確かめられません。

Q. 曲直瀬玄朔とは誰ですか?
A. 京の名医で、天皇や秀吉、家康なども診た医師です。診療記録『医学天正記』を残しました。

まとめ

「悪女」として語られてきた淀殿ですが、医師・曲直瀬玄朔の『医学天正記』には、秀吉の死と関ヶ原の後、「気鬱」で食が進まず、めまいや頭痛、胸の痛みに苦しんでいた姿が残っています。気が強い女性という一面だけでなく、追いつめられ、心と体を弱らせていた一面もあわせて見ると、茶々という人物はずっと身近に感じられます。第39回「茶々の本心」で描かれる茶々の素顔にも注目してみてください。

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