秀長の家老・横浜一庵と小川下野守はどこの城を与えられたのか:五万石なのに城を持たなかった家老、知行も城も不明な家老 ─ 郡山城の法印曲輪、小川町、伊予の国分山城

大和郡山城/アクセス・地図・場所 豊臣秀長の大和・紀伊・和泉100万石の居城 郡山城
この記事のポイント
  • 秀長の三家老のうち、城主として城を預かったことがはっきりしているのは羽田正親(小泉城→宇陀松山城)だけです
  • 家中最高の五万石を得た横浜一庵には、自分の城を持った記録がありません。そのかわり、秀長の本城・大和郡山城の一角に屋敷を与えられ、「法印曲輪」「一庵丸門」という名が残りました。郡山城をあずかる城代のような立場だったとみられます
  • 小川下野守は、知行が三万五千石とも一万五千石とも伝わるだけで、どこの城を預かったかは分かっていません。郡山の「小川町」が屋敷の跡と伝わります
  • 下野守を小川祐忠と同一人物とみるなら、祐忠がのちに居城とした伊予の国分山城(今治市)が「三家老の城」に加わります。分かっていることと、分かっていないことを分けて整理します

『豊臣兄弟!』で秀長の大和を支える「三家老」。羽田正親が小泉城や宇陀松山城を預かったことは小泉城と宇陀松山城で紹介しましたが、では残る二人、横浜一庵と小川下野守は、どこの領地と城を与えられたのでしょうか。調べてみると、二人とも「城主」としての記録はほとんど残っていません。この記事では、記録にあることと、ないことを分けて、二人の領地と城の実像をありのままにたどります。

大和郡山城跡
三家老がつどった秀長の本城・大和郡山城
目次

三家老の知行と城を並べてみる

まず、三人の知行と城を一覧にします。羽田正親の欄だけが具体的で、残る二人には「不明」や「記録にない」が並ぶことが分かります。

横浜一庵 羽田正親 小川下野守
知行 大和国内で五万石(家中最高) 添下郡で四万八千石 三万五千石とも一万五千石とも
預かった城 城主としての城は記録にない。本城・郡山城の一角に屋敷(法印曲輪) 小泉城 → 天正16年ごろ 宇陀松山城 不明
郡山に残る名 常盤曲輪(旧・法印曲輪)、梅林門(旧・一庵丸門) ─ 小川町(屋敷跡と伝わる)
確かさ 曲輪・門の旧名は伝承と地名から。知行の場所(郡名)は不明 比較的はっきりしている 知行・経歴とも軍記物や後世の書に頼る

横浜一庵 ─ 五万石なのに、城を持たなかった家老

横浜一庵は、秀長の家中でもっとも高い五万石を大和国内で与えられた重臣です。ところが、その五万石がどこの郡のどの村だったのか、どこかの城の城主になったのかを示す記録は見当たりません。一庵の仕事として史料に残るのは、興福寺との取次、天正13年(1585)に始まった和歌山城の普請奉行、春日社の石垣の補修、天正15年の九州攻めのときの留守居、そして年貢や兵糧の差配といった、国を動かす実務ばかりです。

そのかわり、一庵の名は秀長の本城・大和郡山城に残りました。本丸の北東にある「常盤曲輪」は、一庵がここに屋敷を与えられたことから、もとは「法印曲輪」と呼ばれていたと伝わります。「法印」は、天正17年ごろに剃髪した一庵が名のった「大蔵卿法印」に由来します。また城内の梅林門も、かつては「一庵丸門」と呼ばれていました。どちらも江戸時代に柳沢家が城主になってから名を改められています。研究者のあいだには、一庵を「大和郡山城代」と位置づける見方もあり、一庵は自分の城を持つかわりに、主君の城そのものを預かる立場だったと考えられます。くわしい生涯は横浜一庵とはで書いています。

大和郡山城の石垣
郡山城の本丸の北東には、一庵の屋敷にちなむ「法印曲輪」の名が残っていました
▽ よく語られる話
家老ともなれば、みな自分の城を与えられて城主になった。
▼ 史実ではこうです
秀長の家中では、羽田正親や高取城の本多利久のように城を預かる家臣と、横浜一庵や小堀正次のように本城に詰めて実務を担う家臣がはっきり分かれていました。家中最高の禄を得た一庵は、城主ではなく、本城の一角に屋敷を構える「城代」型の家老でした。

小川下野守 ─ 知行も城も、はっきりしない家老

小川下野守の知行は三万五千石とも一万五千石とも伝わり、数字そのものに大きな幅があります。どこの城を預かったのかを示す記録はなく、城主だったかどうかも分かりません。唯一の手がかりは、郡山の城下に下野守の屋敷があり、その場所が「小川町」と呼ばれるようになったという伝えです。小川町はいまも大和郡山市に町名として残っています。

下野守の名がはっきり出てくるのは、賤ヶ岳の戦いのあと岐阜城の前で大声を上げて城兵の気勢をくじいたという『太閤記』の逸話くらいで、その経歴の多くも軍記物や後世の書物に頼っています。秀長が亡くなった天正19年(1591)以降は、記録から姿を消してしまいます。下野守の人物像は小川下野守とはで紹介しています。

もし小川祐忠なら ─ 伊予の国分山城

下野守を、のちに伊予今治七万石の大名となった小川祐忠と同一人物とみる説があります。祐忠には「大和国郡山のあたりで三万石を与えられた」という記録があり、下野守の知行と近いからです。ただし、その三万石を得た時期が秀長の大和入りのころなのか、秀長の跡を継いだ秀保の死後なのかははっきりせず、同一人物説はまだ仮説の段階です(小川祐忠とは)。

この説に立つなら、「三家老の城」として浮かび上がるのが、祐忠が慶長3年(1598)に居城とした伊予の国分山城です。今治の唐子浜に面した唐子山に築かれた山城で、もとは村上水軍の村上武吉が築いたと伝わり、いま残る堀の跡などは天正15年(1587)に伊予に入った福島正則の時代のものとされます。祐忠が関ヶ原の戦いのあとに改易されると、伊予に入った藤堂高虎がこの城を拠点とし、のちに海辺に新しく今治城を築きました。国分山城跡はいまは登城道が草木に覆われ、気軽に訪ねられる城跡ではないようです。高虎の今治城は今治城で紹介しています。

今治城の高石垣と多聞櫓、天守
国分山城のあとに藤堂高虎が築いた今治城

なぜ二人には「自分の城」がなかったのか

秀長の家中を見わたすと、城を預かる家臣と、本城で国を動かす家臣とが、はっきり分かれていたことが分かります。小泉城や宇陀松山城の羽田正親、高取城の本多利久、築城を担った藤堂高虎は前者で、検地奉行の小堀正次や、寺社との取次を担った横浜一庵は後者です。大和は寺社の力が強く、城で国境を守るのと同じくらい、寺との交渉や年貢の帳簿づくりが国の命運を左右しました。家中最高の五万石が「城主」ではなく「実務の要」に与えられたことは、秀長が大和で何を重んじたのかをよく表しています。本多利久については本多利久と宇多頼忠とはで、小堀正次については小堀正次とはで、家臣団の全体は豊臣秀長の家臣団とはで紹介しています。

大和郡山で三家老の足跡をたどる

いま大和郡山を歩くと、三家老の足跡をそれぞれ見つけることができます。郡山城の常盤曲輪と梅林門は一庵の屋敷と門の名残、城下の小川町は下野守の屋敷跡と伝わる場所です。JRでひと駅の大和小泉には羽田正親の小泉城跡があり、足を延ばせば宇陀松山城の城下町も訪ねられます。郡山城そのものは大和郡山城で紹介しています。三人の最期の比較は秀長の三家老とはにまとめました。

よくある疑問

Q. 横浜一庵はどこの城主だったのですか?
A. 城主として城を預かった記録は見当たりません。秀長の本城・大和郡山城に屋敷を与えられ、本丸北東の曲輪は「法印曲輪」と呼ばれていました。郡山城をあずかる城代のような立場だったとみられます。

Q. 小川下野守の領地はどこですか?
A. 知行は三万五千石とも一万五千石とも伝わりますが、場所や城は分かっていません。郡山城下の小川町が屋敷跡と伝わります。

Q. 三家老で城を持っていたのは誰ですか?
A. 記録ではっきりしているのは羽田正親で、小泉城を預かったのち、宇陀松山城へ移りました。

Q. 国分山城は三家老の城と言えるのですか?
A. 小川下野守と小川祐忠が同一人物であれば、という条件つきです。同一人物説は仮説の段階なので、確かなこととは言えません。

まとめ

秀長の三家老のうち、城主として城を預かったことがはっきりしているのは羽田正親だけでした。家中最高の五万石を得た横浜一庵は、自分の城を持たず、本城の一角に屋敷を構えて国の実務を回す「城代」型の家老で、その名は郡山城の曲輪と門に残りました。小川下野守は、知行も城もはっきりせず、郡山の小川町に名を残すだけです。分からないことが多い二人ですが、だからこそ、残されたわずかな地名や伝えが、秀長の大和がどう動いていたのかを教えてくれます。

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