- 第38回「和を以て、大和をなす」で間宮祥太朗さんが演じる筆屋の才蔵は、史料に名前が見えない人物で、ドラマが生んだ人物と考えられます
- ただ、才蔵が歩む「奈良から郡山へ」という道は、史実の奈良の商人たちが実際に強いられたものでした。天正13年(1585)10月、奈良中の商売が止められ、売り買いは郡山で行うよう命じられています
- 秀長の時代の奈良・郡山には、名前と店が今に伝わる商人もいます。天正5年(1577)創業と伝わる奈良の墨屋・古梅園と、秀長の茶会に菓子を納めたと伝わる郡山の菊屋です
- 記録に残る商人の姿から、才蔵がどんな立場に置かれ、どんな選択を迫られたのかを読み解きます
『豊臣兄弟!』第38回では、秀長が城下町・郡山の商いを立て直す「起爆剤」として、筆屋の才蔵に目をつけます。奈良の豪商たちが郡山への移転を拒むなか、才蔵は郡山に店を開き、秀長の町づくりの最前線に立つことになりそうです。では、才蔵のような商人は本当にいたのでしょうか。モデルになった人物はいるのでしょうか。この記事では、戦国時代の奈良と郡山に残る記録から、才蔵の「実在の仲間たち」を探してみます。

才蔵という筆屋は記録にいるのか
先に結論を書くと、天正年間の奈良や郡山に「才蔵」という筆屋がいたことを示す史料は見当たりません。秀長の時代の奈良を最もくわしく伝える『多聞院日記』にも、筆屋の才蔵という名は出てこないため、才蔵はドラマのために生まれた人物と考えるのが自然です。人物の詳しい紹介は才蔵とは:間宮祥太朗が演じる筆屋は実在?にまとめています。
一方で、才蔵が背負っている設定そのもの、つまり「奈良の職人が郡山に移り、秀長の城下町で商いを始める」という筋書きには、はっきりした史実の裏付けがあります。名もない多くの商人が実際にたどった道を、ひとりの人物に託して描いたのが才蔵だと言えそうです。
史料に残る「奈良から郡山へ」─ 多聞院日記の天正13年10月
秀長が郡山城に入ったのは天正13年(1585)9月のことですが、そのわずか一か月ほど後、奈良の町に大きな命令が下ります。興福寺の僧・英俊の『多聞院日記』の天正13年10月15日の条には、前日から奈良中の商売が止められ、郡山で売り買いするよう命じられたことが記されています。対象として挙げられているのは味噌、酒、柴木、菜、海苔、硫黄といった暮らしの品々で、特定の高級品だけでなく、奈良の町の商いそのものが郡山へ移されようとしていたことがわかります。
奈良の商人の多くは、興福寺などの寺社に納めものをする代わりに商売の独占を認めてもらう「座」の仕組みの中で暮らしていました。その特権が奈良という土地に結びついていたからこそ、郡山へ移ることには大きな抵抗があったのです。第38回で奈良の豪商たちが移転を拒むのは、この事情を描いたものと考えられます。座の仕組みは座とはで、豪商と才蔵の対立は才蔵と奈良の豪商はなぜ対立したのかでくわしく扱っています。
天正16年の郡山には十四の町があった

では、郡山に集められた商人たちはどこに住んだのでしょうか。郡山の春岳院に伝わる「郡山惣町分日記」という天正16年(1588)の記録には、本町、魚塩町、柳町、綿町、茶町、材木町、紺屋町など十四の町の名が見えます。このうち鍛冶屋町は本町の枝町とされ、残る十三町がのちの「箱本十三町」のもとになりました。同じ商売の人びとを同じ町に集め、町ごとに営業の特権を与えるやり方で、郡山の城下は三年ほどのあいだに形を整えていったのです。
十三町の中には「奈良町」という名の町もあります。奈良から移ってきた人びとが住んだことに由来すると考えられ、才蔵のような奈良出身の商人が郡山で根を下ろした跡を、町の名前そのものが伝えていると言えるかもしれません。箱本十三町の自治のしくみは箱本十三町とはで紹介しています。
才蔵に近い人生①:奈良の墨屋・古梅園

名前が今に伝わる奈良の商人として、まず挙げたいのが墨の老舗・古梅園です。創業は天正5年(1577)と伝わり、まさに秀長が大和に入る少し前から、奈良の町で墨づくりを続けてきました。奈良の墨は、興福寺などの寺で灯明を灯したときに出るすすを集めて作ったのが始まりとされ、「南都油煙」と呼ばれて全国に知られました。筆と墨はいっしょに使われる道具ですから、筆屋の才蔵と墨屋の古梅園は、同じ奈良の文房具の世界に生きていたことになります。
古梅園は郡山には移らず、奈良にとどまって店を守り続けました。秀長の商売停止がどこまで徹底され、いつまで続いたのかははっきりしませんが、奈良の老舗がのちの時代まで残ったことは、奈良の町の商いが完全には途絶えなかったことを示しています。郡山へ移った才蔵と、奈良に残った古梅園は、同じ時代の奈良の職人がとりえた二つの道を表しているとも言えます。奈良墨の歴史は奈良墨とはでたどっています。
才蔵に近い人生②:郡山の菓子屋・菊屋
郡山の側で、秀長の時代から続くと伝わるのが菓子屋の菊屋です。創業四百年あまりとされ、城下町の入り口にあたる場所に店を構えています。秀長が兄の秀吉をもてなす茶会を開いたとき、菊屋が菓子を納めたと伝わり、そのとき献上されたのが、粒あんを餅でくるんで青大豆のきな粉をまぶした「御城之口餅」だといわれます。城の入り口に店があったことから、この名がついたとも伝わります。
もちろん、これは店に伝わる由緒で、同時代の史料で確かめられる話ではありません。それでも、新しい城下町で秀長の求めに応え、その縁を店の看板として守り続けてきた菊屋の歩みは、ドラマで秀長に頼られて郡山に店を開く才蔵の姿と重なります。才蔵が筆で秀長の町づくりに応えたように、郡山に入った商人たちはそれぞれの品で城下町を支えたのでしょう。
秀長と商人の、もうひとつの顔 ─ 奈良借と郡山城の金銀
秀長と商人の関係は、保護と振興だけでは語れません。奈良の町では「ならかし(奈良借)」と呼ばれる強引な高利の貸し付けが秀長の主導で行われ、秀長の死後も、横浜一庵ら旧臣を通じて豊臣政権が続けていたことが研究で明らかになっています。『多聞院日記』は、秀長が亡くなったとき郡山城には金子が五万六千枚あまり、銀は二間四方の部屋がいっぱいになるほど蓄えられていたと記し、英俊はその蓄財を皮肉まじりに書き残しました。
城下町・郡山を栄えさせることは、秀長にとって大和という国の財布を太くすることでもありました。第38回で描かれる「商いの立て直し」の先には、こうした厳しい現実も待っています。大和の財政がなぜ苦しかったのかは大和はなぜ貧しい国だったのかで、日記を書いた英俊については多聞院日記とはで紹介しています。秀長を支えた三家老の行く末は秀長の三家老とはで比べています。
よくある疑問
Q. 才蔵は実在の人物ですか?
A. 史料に名前は見当たらず、ドラマの創作と考えられます。ただし奈良の商人が郡山へ移されたことは、『多聞院日記』に記録があります。
Q. 才蔵を演じるのは誰ですか?
A. 間宮祥太朗さんです。第38回「和を以て、大和をなす」から登場します。
Q. 秀長の時代から続く郡山・奈良の店はありますか?
A. 郡山の菓子屋・菊屋は、秀長の茶会に菓子を納めたと伝わる老舗です。奈良の墨屋・古梅園は天正5年の創業と伝わります。
Q. 奈良の商売はずっと禁止されたのですか?
A. 天正13年10月に奈良での商売が止められたことは確かですが、いつまで、どこまで徹底されたのかははっきりしません。奈良の老舗がのちの時代まで残っていることから、奈良の商いが完全に途絶えたわけではないと考えられます。
まとめ
筆屋の才蔵に、はっきりしたモデルは見つかりません。それでも、天正13年10月に奈良の商売が止められ、郡山に商人が集められたこと、天正16年には郡山に十四の町ができていたことは、同時代の記録が伝えています。奈良に残って店を守った古梅園、郡山で秀長の求めに応えたと伝わる菊屋、そして「奈良町」という町名に名を残した名もない人びと。才蔵は、そうした商人たちの姿をひとりに重ねた人物なのだと思います。第38回の放送後、ドラマで才蔵がどう描かれたかをこの記事に追記します。
秀長と豊臣家をもっと知る本秀長について読める新書と、定番の歴史小説です。
羽柴秀長と豊臣政権 秀吉を支えた弟の生涯渡邊大門(ちくま新書)秀長の生涯を一冊でたどれる新書。楽天ブックスで見る
豊臣の兄弟 秀吉にとって秀長とは何か本郷和人(河出新書)兄・秀吉との関係から秀長を考える新書。楽天ブックスで見る
豊臣秀長 ある補佐役の生涯(上)堺屋太一(文春文庫)秀長を描いた歴史小説の定番。楽天ブックスで見るPR ※ 楽天ブックスへのアフィリエイトリンクです。価格・在庫はリンク先でご確認ください。
- 豊臣秀長とはどんな人物か
兄・秀吉を支えた大和大納言の生涯 - 豊臣秀長の出自
本当に秀吉と同じ父母の弟だったのか - 豊臣秀長はなぜ「長秀」から「秀長」に改めたのか
丹羽長秀と同じ名を持っていた - 豊臣秀長は賤ヶ岳で何をしていたのか
秀吉が戦場を離れられた理由 - 豊臣秀長と大坂城築城
石と材木をどう集めたのか - 豊臣秀長はなぜ四国攻めの総大将に選ばれたのか
十万の軍を率いた夏 - 豊臣秀長の四国平定・九州平定
総大将として天下統一を進めた戦 - 豊臣秀長の百万石
大和・紀伊・和泉の内訳と、大和郡山を任された理由 - 豊臣秀長の大和支配
寺社の国をどう治めたのか - 豊臣秀長の居城・大和郡山城
逆さ地蔵の石垣と、秀長のあとの城主たち - 豊臣秀長が築いた和歌山城
虎伏山に築いた紀州の城 - 豊臣秀長の家臣団
藤堂高虎・桑山重晴・吉川平介ら百万石を支えた人びと - 豊臣秀長に仕えた藤堂高虎
築城の名手になった二十年 - 豊臣秀長の家臣・吉川平介
主君・秀長の面目を潰した処刑 - 豊臣秀長が亡くなった年
天正十九年、豊臣家が一年で失った三つ - 豊臣秀長の子孫・家系はどうなったのか
養子・秀保の十七歳の死と、大和豊臣家の断絶 - 豊臣秀長の妻・慶(慈雲院)
吉岡里帆が演じる正室は実在? 豊臣家の滅亡まで見届けた生涯 - もし豊臣秀長があと十年生きていたら
朝鮮出兵・秀次事件・関ヶ原はどう変わったのか - 豊臣秀長ゆかりの城めぐり
大河『豊臣兄弟!』の舞台を歩く - 豊臣秀長の出世と石高の推移
田を耕していた小一郎が百万石になるまでと、父の違う四人のきょうだい - 豊臣秀長が副将をつとめた紀州攻めと高野山
根来寺は焼け、高野山はなぜ残ったのか。そのあと紀伊は秀長の領国に - 豊臣兄弟!第37回「秀長の国」の史実
秀長はなぜ大和を任され、寺社の国をどう治めたのか
検索で混ざりやすい武将の可児才蔵については別の記事にまとめています。筆屋の才蔵とは無関係です。

