可児才蔵はなぜ秀次を見捨てて逃げたのか:「雨降りの傘也」と『笹の才蔵』の生存戦略

可児才蔵が雨の中を騎马で実次を置き去りにするイメージイラスト
この記事のポイント

  • 白山林で敗走中、馬を持たない秀次(信吉)は家臣・可児才蔵に馬を求めた
  • 才蔵は「雨降りの傘也」と言い放ち、主君を置き去りにして去ったと伝わる
  • この一件が秀吉の耳に入り、才蔵は秀次の下を追われることになった
  • その後も複数の主君を渡り歩き、「笹の才蔵」の異名で戦国最強クラスの武功者として名を残した

大河ドラマではまず語られることのない、戦国屈指の珍事件があります。白山林で壊滅した秀次隊が命からがら敗走していたさなか、馬を持たない総大将が、たまたま騎馬で通りかかった一人の家臣に馬を求めました。ところがその家臣は、命令を無視して立ち去ってしまいます。可児才蔵、のちに「笹の才蔵」の異名で知られることになる男です。

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「雨降りの傘也」――伝説の一言

『小牧陣始末記』や『名将言行録』が伝えるところによれば、馬を求められた才蔵はこう言い放ったとされます。「雨降りの傘也」――雨の日に傘を貸す者があるか、自分の身と馬は自分のもの、というにべもない返答です。総大将を徒歩のまま置き去りにしたこの一件は秀吉の耳にも入り、才蔵はほどなく秀次の陣を去ることになりました。ただしこの逸話は後世の記録に基づくもので、当時の一次史料で裏付けられた事実というより、才蔵の人物像を伝える逸話・伝承として読むのが妥当でしょう。

なぜ才蔵は主君を見捨てられたのか

現代の感覚では「クビ覚悟の暴言」だが、当時の武士、とくに才蔵のような一芸に秀でた渡り者にとって、主従関係はもっと乾いたものでした。腕さえあれば次の仕えどころはいくらでもあります。この一件だけを切り取れば身も蓋もない自己保身に見えるが、裏を返せば、それだけ己の武に自信があったということでもあります。

才蔵のもうひとつの顔は、討ち取った敵の首の口に笹の葉を含ませるという独特のスタイルでした。乱戦の中で誰の首か分からなくなるのを防ぐための、いわば戦場での「サイン」であり、この習慣が「笹の才蔵」の異名の由来になったとされます。

渡り歩いたフリーランス武将、その後

秀次の下を追われた後も、才蔵は腕一本で乱世を渡り歩きました。前田利家、森長可、福島正則など複数の主君に仕えたと伝わり、特に関ヶ原の戦いでは、正則から謹慎を命じられていたにもかかわらず密かに戦場へ出て敵兵を討ち取り続けたという逸話が残ります。この働きぶりが徳川家康の耳にも届いたと伝わります。主君を見捨てて逃げたはずの男が、最終的には「戦国最強」とまで呼ばれる武功者として名を残した、その振れ幅こそが才蔵という武将の面白さでしょう。

関ヶ原の「笹の才蔵」|十七の首と笹の葉

才蔵の名を天下に知らしめたのが、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いです。このとき才蔵は福島正則の家臣として東軍に加わり、戦場で次々と敵の首を取りました。その数は十七にのぼったと伝わります。取った首をすべて持ち歩くことはできないため、才蔵は討ち取った首の口に笹の葉を含ませて、自分の手柄の目印にしたといいます。戦のあとの首実検で、笹の葉をくわえた首が次々と見つかり、家康はその働きを大いに称えたと伝えられます。「笹の才蔵」という呼び名はここから生まれました。

若き日の秀次を見捨てて逃げたと言われた男が、十六年後の天下分け目の戦いで、最も多くの首を取った武将の一人として名を残したのです。関ヶ原の勝敗を戦う前に決めた黒田長政の調略、合戦全体の流れは関ヶ原の戦いをわかりやすく解説で書いています。

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