可児才蔵とは:笹の才蔵と呼ばれた理由、関ヶ原の十七の首、そして秀次を見捨てた「雨降りの傘也」

可児才蔵が雨の中を騎马で実次を置き去りにするイメージイラスト
この記事のポイント

  • 白山林で敗走中、馬を持たない秀次(信吉)は家臣・可児才蔵に馬を求めた
  • 才蔵は「雨降りの傘也」と言い放ち、主君を置き去りにして去ったと伝わる
  • この一件が秀吉の耳に入り、才蔵は秀次の下を追われることになった
  • その後も複数の主君を渡り歩き、「笹の才蔵」の異名で戦国最強クラスの武功者として名を残した

大河ドラマではまず語られることのない、戦国屈指の珍事件があります。白山林で壊滅した秀次隊が命からがら敗走していたさなか、馬を持たない総大将が、たまたま騎馬で通りかかった一人の家臣に馬を求めました。ところがその家臣は、命令を無視して立ち去ってしまいます。可児才蔵、のちに「笹の才蔵」の異名で知られることになる男です。

目次

可児才蔵とは、どういう武将だったのか

可児才蔵(かに さいぞう)。名は吉長(よしなが)。天文二十三年(1554)に生まれ、慶長十八年(1613)に六十歳で亡くなりました。

斎藤龍興にはじまり、柴田勝家、明智光秀、前田利家、森長可、織田信孝、豊臣秀次、そして福島正則。主君を替え続けた武将です。最後の主君・正則の下で関ヶ原を戦い、討ち取った首に笹を差したことから「笹の才蔵」と呼ばれました。「槍の才蔵」とも呼ばれます。

ただしこの人物には、同時代の史料がきわめて乏しいという事情があります。岐阜県自身が企画展の告知で「限定的な史料から生涯やエピソード、真の姿に迫る」と書いているほどです。有名な逸話のほとんどは、江戸時代以降に編まれた本に出てきます。この記事では、どこまでが確かでどこからが伝承なのかを分けて書きます。

なお大河ドラマ『豊臣兄弟!』に出てくる「才蔵」(間宮祥太朗さんが演じる奈良の筆屋)は、この可児才蔵とは別人です。そちらをお探しの方は才蔵とは:間宮祥太朗が演じる筆屋は実在したのかへどうぞ。

出身地は、公式見解と本人の墓碑が食い違っている

才蔵がどこの生まれかについて、二つの説があります。しかも片方は、本人の墓石に刻まれています。

▽ よく語られる話
可児才蔵は美濃国可児郡(現在の岐阜県可児郡御嵩町)の生まれで、大寺山願興寺で育った。苗字の「可児」も郡の名に由来する。
▼ 史実ではこうです
これは願興寺の寺記『大寺記』にもとづく説で、岐阜県と御嵩町の公式見解でもあります。しかし広島の才蔵寺に残る才蔵本人の墓碑には「生国尾州葉栗郡楽典郷」と刻まれています。尾張国葉栗郡です。本人の墓石の文字という点では、こちらのほうが直接的な証拠になります。苗字と郡名が一致していることから美濃説が通説になった、という可能性もあります。

父母も分かっていません。願興寺の寺伝には朝倉義景の落胤という話もありますが、根拠は寺の伝承だけです。

槍については宝蔵院流を胤栄に学んだと語られます。ただし主要な辞典が挙げる宝蔵院流の門弟一覧に、才蔵の名はありません。伝承として読むべきところです。美濃の土豪という出発点では、同じ美濃で斎藤家に仕えたのち信長・秀吉のもとへ移った竹中半兵衛と重なります。

「七度主君を替えた」という言い方は、別人のものだった

才蔵を紹介するとき、よく「七度も主君を替えた」と書かれます。

▽ よく語られる話
可児才蔵は「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」と言い、その言葉どおり七人の主君に仕えた。
▼ 史実ではこうです
この言い回しは才蔵のものではありません。藤堂高虎に帰されるものとして流布している言葉です。しかも才蔵の主君の数え方自体が定まっておらず、六人とも七人とも八人とも書かれます。「七度」という具体的な数字に根拠はありません。

確かなのは、斎藤家の滅亡から福島正則に落ち着くまで、二十年以上を渡り歩いて過ごしたということです。このうち前田利家に仕えた時期だけは『石川県史』に逸話と「誓文日記」が収録されていて、加賀藩側の記録に名が残っています。比較的硬い部分です。

「笹の才蔵」と呼ばれた理由

笹を背に差した戦国時代の武者のイメージイラスト

才蔵は背に笹の指物を負って戦いました。そして討ち取った首に、その指物から抜いた笹の葉を差し込んだ(あるいはくわえさせた)といいます。

理由は単純です。首を全部は持ち運べないから。乱戦のなかで何人も討つと、取った首はその場に置いていくしかありません。あとで「これは自分が取った首だ」と示すための目印が、笹でした。

天正十年(1582)の甲州征伐で、森長可の下にいたときのことです。才蔵は「十六の首を取り申した」と豪語したのに、持ってきたのは三つだけでした。調べさせると、笹をくわえた首が十三出てきた。以後そう呼ばれるようになった、と伝わります。

ただし命名の経緯には別の話もあります。関ヶ原のあと徳川家康が「笹の才蔵」の名を与えたとするもので、岐阜県の観光公式サイトはこちらを採っています。森長可の陣中で呼ばれ始めたという話とは両立しません。二説ある、というのが正確なところです。なお森長可は、のちに小牧・長久手の戦いで討死しました。その合戦の経過は井伊直政はなぜ「赤鬼」と呼ばれたのかでも触れています。

「雨降りの傘也」―伝説の一言

『小牧陣始末記』や『名将言行録』が伝えるところによれば、馬を求められた才蔵はこう言い放ったとされます。「雨降りの傘也」―雨の日に傘を貸す者があるか、自分の身と馬は自分のもの、というにべもない返答です。総大将を徒歩のまま置き去りにしたこの一件は秀吉の耳にも入り、才蔵はほどなく秀次の陣を去ることになりました。ただしこの逸話は後世の記録に基づくもので、当時の一次史料で裏付けられた事実というより、才蔵の人物像を伝える逸話・伝承として読むのが妥当でしょう。この言葉が出たのは、秀次の軍が総崩れになった白山林の大敗の最中でした。

なぜ才蔵は主君を見捨てられたのか

現代の感覚では「クビ覚悟の暴言」だが、当時の武士、とくに才蔵のような一芸に秀でた渡り者にとって、主従関係はもっと乾いたものでした。腕さえあれば次の仕えどころはいくらでもあります。この一件だけを切り取れば身も蓋もない自己保身に見えるが、裏を返せば、それだけ己の武に自信があったということでもあります。

才蔵のもうひとつの顔は、討ち取った敵の首の口に笹の葉を含ませるという独特のスタイルでした。乱戦の中で誰の首か分からなくなるのを防ぐための、いわば戦場での「サイン」であり、この習慣が「笹の才蔵」の異名の由来になったとされます。見捨てられた側の秀次は、のちに秀吉から五箇条の折檻状を突きつけられることになります。

渡り歩いたフリーランス武将、その後

秀次の下を追われた後も、才蔵は腕一本で乱世を渡り歩きました。前田利家、森長可、福島正則など複数の主君に仕えたと伝わり、特に関ヶ原の戦いでは、正則から謹慎を命じられていたにもかかわらず密かに戦場へ出て敵兵を討ち取り続けたという逸話が残ります。この働きぶりが徳川家康の耳にも届いたと伝わります。主君を見捨てて逃げたはずの男が、最終的には「戦国最強」とまで呼ばれる武功者として名を残した、その振れ幅こそが才蔵という武将の面白さでしょう。

関ヶ原の「笹の才蔵」|十七の首と笹の葉

才蔵の名を天下に知らしめたのが、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いです。このとき才蔵は福島正則の家臣として東軍に加わり、戦場で次々と敵の首を取りました。その数は十七にのぼったと伝わります。取った首をすべて持ち歩くことはできないため、才蔵は討ち取った首の口に笹の葉を含ませて、自分の手柄の目印にしたといいます。戦のあとの首実検で、笹の葉をくわえた首が次々と見つかり、家康はその働きを大いに称えたと伝えられます。「笹の才蔵」という呼び名はここから生まれました。

若き日の秀次を見捨てて逃げたと言われた男が、十六年後の天下分け目の戦いで、最も多くの首を取った武将の一人として名を残したのです。関ヶ原の勝敗を戦う前に決めた黒田長政の調略、合戦全体の流れは関ヶ原の戦いをわかりやすく解説で書いています。

もっとも、才蔵が背を向けたあとも秀次が見捨てられたわけではない。すぐ後に現れた木下勘解由・助左衛門の兄弟は、自分の馬を差し出し、その場に踏みとどまって命を落とした。才蔵とは対照的な選択をした二人については、こちらで書いている。

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福島家で、いくらもらっていたのか

才蔵は天正十五年(1587)ごろから福島正則に仕え、慶長六年(1601)の安芸移封にも従って広島へ移りました。

知行高は七百五十石ほどと伝わります。ただしここは注意が必要です。広島城が『福嶋記』から作成した家臣一覧は千石以上が対象で、才蔵はそこに載りません。慶長六年の知行宛行状の一群も広島城に残っていますが、才蔵宛のものが確認されたという報告はありません。数字そのものを裏づける資料は、いまのところ見つかっていないのが実情です。

慶長十六年(1611)に出家し、才入と改めました。広島城の東、矢賀山に「竹葉軒」という山荘を持っていて、その跡に建てられたのが才蔵寺です。主君だった福島正則そのひとの歩みは賤ヶ岳の七本槍の記事でも追っています。

最期 ── 墓碑の日付が、伝承と合わない

才蔵の死に方には、よく知られた話があります。

▽ よく語られる話
才蔵は若いころから愛宕権現を厚く信仰し、「我は愛宕権現の縁日に死なん」と予言していた。そしてその縁日である六月二十四日、身を清め、甲冑を着けて長刀を持ち、床机に腰かけたまま息を引き取った。
▼ 史実ではこうです
この話は『名将言行録』系の逸話です。そして広島の才蔵寺に残る墓碑には「于時慶長十八年十一月廿四日」と刻まれています。十一月二十四日。二十四日という日付は合っていますが、月が違います。愛宕権現の縁日に死んだという話のほうが、伝承として整えられた可能性があります。なお「生きながら棺に入った」「立ったまま死んだ」といった話も語られますが、裏づけは確認できませんでした。伝承の形は「床机に腰かけたまま」です。

遺言により、広島の矢賀の坂の脇に葬られました。西国街道の要衝で、いまも才蔵峠と呼ばれています。才蔵をめぐる話は、このように記録と伝承が噛み合わないものが多く、馬を断られた木下勘解由・助左衛門の逸話もその一つです。

才蔵寺のミソ地蔵は、戦国の遺風ではない

広島市東区の才蔵寺には、受験シーズンになると合格祈願の味噌がたくさん供えられます。広島市の公式サイトも「二葉の里歴史の散歩道 合格祈願コース」の一か所として紹介しています。

作法は少し変わっています。願い事を書いた紙を味噌の袋に貼り、その袋を地蔵の頭に乗せて拝み、さらに自分の頭にも乗せて願う。そして味噌を奉納します。

ところがこの風習が始まったのは昭和に入ってからとされます。戦国から続く作法ではありません。由来にも「才蔵の好物が味噌だった」「味噌造りを奨励した」「墓の後ろに生えた竹の葉に脳病全快の利益がある」など複数の説があり、寺や自治体による公式の説明は見当たりません。脳の病を祈る信仰という点では、戦国の武将が実際にどんな病で死んだかを記録から拾った戦国武将の病気と死因も合わせて読めます。

逸話の出どころ ──『名将言行録』という問題

ここまで読んでお気づきかもしれませんが、才蔵の有名な話はほぼすべて同じところから来ています。

▶ 才蔵の逸話を載せている主な書物
  • 『常山紀談』巻之十一「可児才蔵が事」── 湯浅常山、江戸中期の逸話集
  • 『名将言行録』巻之三十四「可児吉長」── 岡谷繁実が安政元年から明治二年にかけて編纂
  • 『小牧陣始末記』── 江戸期の軍記物。「雨降りの傘也」の出典
  • 『芸州誌』── 広島の地誌。関ヶ原の「二十騎」の数字
  • 『大寺記』── 願興寺の寺記。美濃出身説と朝倉落胤説
  • 『石川県史』── 前田家時代の逸話と「誓文日記」

このうち中心になっている『名将言行録』は、当時流布していた話を集めたもので、入念な検証を経ていないと指摘されています。歴史学では信頼性の低い「俗書」として扱われるのが一般的です。

つまり「戦国最強」という評価は、史料の薄さの上に乗っています。だからといって才蔵が架空の人物というわけではありません。実在は確かで、墓も残っています。ただ、その武勇を同時代の記録で確かめる手段がないのです。同じ問題は川並衆をめぐる『武功夜話』にもあって、そちらは川並衆とは何者だったのかで扱いました。

ゆかりの地をたどる

笹やぶに囲まれた古い峠道と地蔵堂のイメージイラスト

▶ 可児才蔵をめぐる場所
  • 才蔵寺 ── 広島県広島市東区東山町1-11。墓碑、ミソ地蔵、甲冑と槍を持つ才蔵像、延壽泉。駐車場はありません
  • 才蔵峠 ── 広島市の矢賀。遺言で最初に葬られた場所。西国街道の要衝でした
  • 大寺山願興寺 ── 岐阜県可児郡御嵩町御嵩1377-1。名鉄広見線の御嵩駅からすぐ。才蔵が生まれたとされる寺
  • 御嶽宿わいわい館 ── 御嵩町御嵩1554-1。才蔵グッズや物産を販売。企画展も行われました

御嵩町は才蔵を「推し武将」として売り出していて、八ページのパンフレットも発行しています。岐阜関ケ原古戦場記念館でも企画展と講演が行われました。学術的な再評価というより、郷土史と地域振興の文脈での再発見というのが実際のところです。関ヶ原まで足を延ばすなら、合戦の帰趨を決めた松尾山城も同じ戦場の内です。

もう一人の「才蔵」と、混同しないために

最後にもう一度だけ書いておきます。

大河ドラマ『豊臣兄弟!』の第三十七回・第三十八回に登場する筆屋の才蔵(間宮祥太朗さん)は、可児才蔵とは別人です。奈良で筆を作っていた商人で、史料で確認できない創作の人物です。

同じ時代を生きた同じ名の二人ですが、片方は槍で首を取る武将、片方は筆を作る商人。関係はありません。筆屋のほうは才蔵とは:間宮祥太朗が演じる筆屋は実在したのかにまとめています。

ついでに言うと、可児才蔵が秀次の下を去った白山林の戦いでは、才蔵が断った馬を、代わりに差し出して討死した兄弟がいました。木下勘解由・助左衛門です。尾張旭市の公式サイトは、この場面で馬を差し出したのは木下勘解由利匡だと書いていて、才蔵の名を出していません。同じ場面の、表と裏です。

まとめ

可児才蔵は、天文二十三年に生まれ、慶長十八年に六十歳で没した武将です。主君を替え続け、最後に福島正則の下で関ヶ原を戦い、笹を目印に首を取りました。

ただしその武勇を同時代の史料で確かめることはできません。出身地は公式見解と墓碑が食い違い、死んだ日も伝承と墓碑で月が合わない。有名な「七度主君を替えた」は別人の言葉でした。

それでも広島には墓があり、味噌が供えられ、岐阜では町が旗を振っています。史料が薄いまま四百年語り継がれてきた、という事実のほうが面白いのかもしれません。

三好信吉(豊臣秀次)はなぜ白山林で大敗したのか、秀吉はなぜ秀次を「手討ちにする」と書いたのか、関ヶ原の戦いをわかりやすく解説もあわせてどうぞ。

※才蔵の逸話はほぼすべて江戸期以降の編纂物に由来します。本記事では出典ごとの食い違いをそのまま示し、断定を避けました。知行高、宝蔵院流への入門、朝倉義景の落胤説、ミソ地蔵の由来は、いずれも裏づけが確認できていません。

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