金子城:武蔵から来た金子氏が三百年守った新居浜の山城と、金子元宅の天正の陣

大池のほとりに咲くしだれ桜と、金子城跡のある金子山

特集 ── もうひとつの兄弟大河NHK『長宗我部兄弟!』をもっと知る元親と親泰の外交、伊予の金子元宅との約束、天正の陣、ゆかりの城まで ▶

金子城(かねこじょう)は、愛媛県新居浜市の金子山にあった山城です。鎌倉時代に武蔵国から移ってきた金子氏が築き、天正13年(1585)に落城するまで、三百年以上にわたって金子氏の拠点でした。最後の城主・金子元宅(かねこ もといえ)は、長宗我部元親と結んで秀吉の四国攻めに立ち向かい、NHKの特番『長宗我部兄弟!』でも描かれました。いまは城跡が滝の宮公園になり、本丸跡の展望台から新居浜の町と瀬戸内海を見渡すことができます。

目次

武蔵から来た金子氏が築いた城

金子氏は、武蔵国入間郡金子郷(いまの埼玉県入間市)を本拠とした村山党の武士団です。金子十郎家忠が源平の戦いで挙げた功によって伊予国新居郡の地頭職を得たとされ、鎌倉時代の中ごろ、建長年間(1249〜1256)に一族の広家が新居郡に移り住んで金子城を築いたと伝わります。弘安5年(1282)には金子頼広の名が記録に見え、南北朝時代には城があったと考えられています。ただし、築城の年や築城者ははっきりしていません。

金子氏はその後、伊予の守護・河野氏ではなく、細川氏、ついで東予の石川氏に仕え、戦国時代には元成・元宅の父子が宇摩・新居の二郡を事実上取り仕切るまでになりました。一族の歩みは金子元宅とはで詳しく書いています。

山麓の居館と、山上の詰めの城

金子城は、国領川の左岸に広がる平野に臨む、標高約80メートルの金子山の山頂に築かれました。西側には谷が入り込み、北側と東側は急な斜面になっていて、低い山ながら天然の要害です。ふだんの暮らしと政務は山麓の居館で行い、いざというときは山上の城に立てこもる、中世の国人らしい「居館と詰めの城」の組み合わせでした。

山麓の居館の跡には、のちに元宅の弟・元春が慈眼寺を建てています。山頂の本丸跡は公園の第1展望台になっていて、山の中には曲輪や堀切の跡が残っています。石垣や天守のある近世の城とはちがい、土を削って平らにした曲輪と、尾根を断ち切る堀切で守る、素朴な山城です。城の用語は城の基本用語も参考にしてください。

▽ よく語られる話
金子元宅は、居城の金子城に立てこもって討ち死にした。
▼ 史実ではこうです
天正の陣で元宅は、金子城を弟の元春に任せ、自らは西条の高尾城に入って全体の指揮をとりました。討ち死にした場所は、高尾城から打って出た先の野々市原(西条市)です。金子城は元宅の最期の地ではなく、元宅が守ろうとした一族の本拠でした。

天正の陣で落ちた城

天正13年(1585)7月、秀吉の四国攻めで、毛利輝元の命を受けた小早川隆景らの大軍が瀬戸内海を渡り、新居郡の御代島と沢津の二手に分かれて上陸しました。伊予で「天正の陣」と呼ばれる戦いです。元宅は金子城を弟の元春に守らせ、自らは主家の石川氏の城である高尾城に兵を集めました。

金子城は毛利勢の総攻撃を受けて落城し、7月17日には元宅も高尾城から野々市原へ打って出て討ち死にしました。落城したあと、金子城が再び使われることはなく、三百年以上続いた金子氏の城はここで役目を終えました。戦いの経過は長宗我部兄弟!(NHK)の内容と史実でも、番組の場面とあわせて紹介しています。

慈眼寺と、金子直吉の「天正の矢叫び」

生き残った元宅の弟・元春は出家し、元和4年(1618)ごろ、金子氏の居館の跡に慈眼寺を建てて住職となりました。本堂の裏手の石段を上ったところに、元宅と元春の兄弟をしのぶ碑があります。

元宅の子孫からは、明治から大正にかけて神戸の鈴木商店を日本有数の総合商社に育てた番頭・金子直吉が出ています。直吉は先祖の元宅を深く敬い、没後三百五十年の法要に多額の寄付をしました。滝の宮公園には、直吉が詠んだ「天正の矢叫びを啼け時鳥」の句碑が立っています。鈴木商店の破綻を経験した晩年の直吉が、滅びた先祖の姿に自分を重ねた句だといわれます。

駐車場と所要時間

城跡は新居浜市の滝の宮公園(新居浜市滝の宮町)になっています。公園には入口の第1駐車場、もみじ谷の第2駐車場、展望台近くの第3駐車場などがあり、車で本丸跡の近くまで上がることができます。JR新居浜駅からは歩いて20分ほどです。

見学の時間は、展望台と城跡の案内だけなら30分ほど、麓の慈眼寺まで回るなら1時間ほどみておくと安心です。公園は春には約1,500本の桜が咲く花見の名所で、桜の季節は駐車場が混み合います。

ライトアップされた滝の宮公園の夜桜と石碑

桜の季節の夜の滝の宮公園。夜桜も楽しめます

見学順 ── 本丸跡の展望台から、麓の慈眼寺へ

まずは第3駐車場から第1展望台(本丸跡)へ向かいましょう。城跡の標柱が立ち、北に新居浜の市街地と瀬戸内海、南に赤石山系の山並みが見渡せます。金子氏がこの眺めで平野と海の両方を押さえていたことがよく分かります。

高台から見下ろした滝の宮公園の日本庭園と大池

高台から見た日本庭園と大池(撮影時は改修工事中)。奥に新居浜の市街地が見えます

続いて尾根の上の第2展望台へ歩くと、途中で曲輪や堀切の跡を探すことができます。最後に西側の麓へ下りて慈眼寺を訪ね、元宅・元春兄弟の碑にお参りすると、城と居館、そして一族の最後までを一続きでたどれます。時間があれば、車で西条市の高尾城跡と野々市原古戦場まで足を延ばすと、天正の陣の舞台がそろいます。

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よくある疑問

Q. 金子城の読み方は?
A. 「かねこじょう」と読みます。

Q. 金子城の城主は誰ですか?
A. 鎌倉時代から戦国時代まで金子氏の城で、最後の城主は金子元宅です。天正の陣のときは、弟の金子元春が守りました。

Q. 金子城には石垣や天守がありますか?
A. ありません。土の曲輪と堀切で守る中世の山城で、いまは本丸跡が展望台になっています。

Q. 金子元宅が討ち死にしたのは金子城ですか?
A. いいえ。元宅が討ち死にしたのは、高尾城から打って出た先の野々市原(西条市)です。

まとめ

金子城は、武蔵から伊予へ移った金子氏が鎌倉時代に築き、三百年以上にわたって一族の拠点とした金子山の山城で、天正13年の天正の陣で落城しました。最後の城主・金子元宅は長宗我部元親と結んで小早川の大軍に立ち向かい、野々市原で討ち死にしましたが、一族は長宗我部に守られて家を保ち、子孫からは金子直吉も出ています。いまは滝の宮公園となった本丸跡から、金子氏が守った平野と海を見渡すことができます。長宗我部氏の本拠は岡豊城跡、長宗我部関連の記事は長宗我部氏特集にまとめています。

【金子城・場所・アクセス】
〒792-0034 愛媛県新居浜市滝の宮町8(滝の宮公園)

【金子城地図】

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