長久手城(ながくてじょう)は、愛知県長久手市にあった平城で、古くは「長湫城」とも書かれました。いまの長久手市の名前のもとになった城ですが、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで焼かれ、遺構はほとんど残っていません。住宅地のなかの一角に、城跡を示す石碑と標柱が立っています。
文・写真:佐藤秀信(すべて現地で撮影)
- 長久手城は、長久手(長湫)の地名のもとになった平城
- 戦国時代は加藤氏の城で、城主は家康・信雄方についたとされる
- 小牧・長久手の戦いで秀吉方の別働隊に焼かれたと伝わる
- いまは住宅地のなかに「長久手城址」の石碑と古い標柱が残る

「長久手城址」と刻まれた石碑。周りは植え込みのある小さな広場になっています。
■ 豊臣秀吉・秀長 オリジナルグッズ ■
当サイトがデザインした秀吉・秀長グッズ。Tシャツ・マグカップ・トートバッグに加え、スマホケース・フェイスタオル・タンブラーなどもあります
※当サイト「日本の歴史ガイド」のオリジナル商品です。NHK・大河ドラマの公式グッズではありません。
長久手城の歴史
長久手城のはじまりははっきりしませんが、室町時代にはこの地に武士の館があったとされ、戦国時代の中ごろには加藤太郎右衛門忠景が城主として城を整えたと伝わります。長久手のあたりは尾張の東のはずれで、三河へ抜ける道筋にあたり、近くには丹羽氏の岩崎城もありました。
天正12年の小牧・長久手の戦いで、城主の加藤氏は徳川家康・織田信雄の側につきました。家康の本拠・岡崎を突こうとした秀吉方の別働隊は、この一帯を進むなかで周りの城に火をかけており、長久手城もこのとき焼かれたとされます。城主の加藤忠景も、この戦いのなかで命を落としたと伝わります。そして城が焼けた直後の4月9日、城から遠くない仏ヶ根の一帯で、家康の本隊と池田恒興・森長可の隊がぶつかりました。その長久手の戦いのくわしい流れは小牧・長久手の戦いはどっちが勝った?にまとめています。
城が焼かれたあと再建された記録はなく、そのまま廃城になったとみられます。それでも「長久手」の名は、この戦いとともに全国に知られることになりました。

入口の「長久手城址」の標識。市の史跡めぐりの統一デザインです。
いまの長久手城跡
城跡は静かな住宅地のなかにあり、石段を上がった先が小さな広場になっています。堀や土塁のような城らしい遺構は見当たりませんが、少し高くなった地形と石垣の積まれた段差に、かつてここが周りより一段高い場所だったことがうかがえます。
広場には「長久手城址」の石碑と、さらに古そうな細い標柱が立っていて、標柱の前には花や水が供えられていました。地元の人が今も手入れを続けていることが伝わってきます。古戦場公園の勝入塚・庄九郎塚とあわせて回ると、戦いの直前にこの城が焼かれ、すぐそばで決戦が起きたという流れがよくわかります。


長久手城跡の場所
【場所】愛知県長久手市(住宅地の中)。リニモ「はなみずき通」駅から歩いて10分ほどです。
【実録】朝5時出発、小牧・長久手の戦いの史跡を車で日帰り ― 長久手古戦場から秀吉の本陣・楽田城まで11か所
回った順番や駐車場・トイレ、御城印・御朱印の情報はこちらの「2. 長久手城址と武蔵塚」にまとめています。
