慶(ちか)とは:『豊臣兄弟!』で吉岡里帆が演じる秀長の妻は実在? 慈雲院と呼ばれた正室の生涯

秋の城の屋敷の縁側に座り、庭と天守を見つめる秀長の妻・慶のイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 『豊臣兄弟!』で吉岡里帆さんが演じる慶(ちか)は、秀長の正室で、のちに慈雲院と呼ばれた実在の女性がモデルです
  • 本当の名前は伝わっておらず、「慶」は法名の「慈雲院芳室紹慶」からとられたとみられます
  • 美濃の出身で、父は秀長の家臣・神戸伝左衛門秀好だったとする説がありますが、決め手はありません
  • 一人息子の与一郎を本能寺の変の年に亡くし、秀長の跡は養子の秀保が継ぎました
  • 秀長の死後は「大和大方様」と呼ばれ、大和豊臣家の断絶も、大坂の陣での豊臣家の滅亡も見届けて、元和6年(1620)に亡くなったとされます

大河ドラマ『豊臣兄弟!』で、秀長(小一郎)の妻・慶を演じているのが吉岡里帆さんです。慶は第12回「小谷城の再会」で初登場し、兄嫁の寧々とともに豊臣兄弟を支える女性として描かれてきました。秀長が大和を任されると、慶も大和郡山城に入ります。では、史実の秀長の妻はどんな人だったのでしょうか。記録は多くありませんが、残された手がかりから、その生涯をたどります。

目次

慶は実在したのか ── 名前は伝わらず、法名は「慈雲院」

秀長に正室がいたことは確かで、のちに慈雲院(智雲院と書かれることもあります)と呼ばれました。ただし、生まれたときの名前は伝わっていません。高野山にある彼女の供養塔には「慈雲院芳室紹慶」という法名が刻まれていて、ドラマの「慶(ちか)」という名は、この法名の「慶」の字からとられたものとみられます。つまり、人物は実在ですが、「慶」という呼び名はドラマのための名前ということになります。

戦国時代の女性は、身分の高い人でも実名が残らないことがほとんどです。秀長の娘たちについても同じで、その事情は 末とは:秀長のひとり娘は実在? の「なぜ娘の名は、残りにくいのか」でも触れています。

石灯籠と玉垣に囲まれた大納言塚
大納言塚(奈良県大和郡山市)。秀長の墓所で、慶が長く供養を続けた夫の眠る場所です。

どこの家の娘だったのか ── 美濃の出、神戸秀好の娘という説

慈雲院の出自ははっきりしません。当時の記録で「濃州女中」と呼ばれていることから、美濃の出身だったと考えられています。父については、のちに秀長の重臣となる神戸伝左衛門秀好だったとする説があり、研究者の和田裕弘氏などがこの見方を示しています。ほかにも、寧々の実家である杉原家の縁者とする説など、いくつかの説がありますが、どれも決め手となる史料はありません。

秀長と結婚したのは、永禄9年(1566)から10年ごろと推定されています。秀長が兄とともに織田家に仕え、少しずつ出世していく時期です。秀長の出世の道のりは 秀長の出世と加増 にまとめています。

与一郎の死 ── 本能寺の変の年に

慈雲院と秀長のあいだには、与一郎という男の子がいました。ところが与一郎は、天正10年(1582)に亡くなります。本能寺の変が起きた年です。与一郎は幼名ではなく通称で呼ばれていたことから、すでに元服を済ませていたとみられ、秀長にとっては跡取りと考えていた息子でした。与一郎の妻には、秀長が養女に迎えた岩(のちの智勝院)が定められていましたが、その縁もここで途切れました。

実の子を失った秀長夫妻は、養子を迎えて家をつなごうとしました。丹羽長秀の子・仙丸(のちの藤堂高吉)や、秀吉の姉ともの子・秀保です。最終的に秀長の跡を継いだのは秀保でした。仙丸はのちに藤堂高虎の養子となります(藤堂高虎はなぜ築城の名手になったのか)。秀長の家が秀保の代でどう絶えたのかは 豊臣秀長の子孫・家系はどうなったのか で詳しく書いています。

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末(すえ)のモデルは誰?『豊臣兄弟!』で池端杏慈が演じる秀長の娘は、誰に嫁ぎどうなったのか

ドラマで慶の娘として描かれる末。そのモデルになりそうな、史実の秀長の娘たちを比べます。

大和郡山で ── 大納言の妻として

天正13年(1585)、秀長が大和・紀伊・和泉の百万石を与えられて大和郡山城に入ると、慈雲院も郡山に移りました。奈良の興福寺の僧が書いた『多聞院日記』には、秀長の妻の動きがところどころに記されています。天正18年(1590)に秀長が病に倒れたときには、興福寺に病気が治るよう祈祷を頼んでいます。寺社の力が強い大和で、夫の回復を願って寺に頼るのは、大名の妻として自然な行いでした。大和郡山城については 大和郡山城 で紹介しています。

秀長の死後 ── 高野山の供養塔と「大和大方様」

天正19年(1591)1月、秀長は郡山城で亡くなりました。その年の5月7日の日付で、高野山奥之院に慈雲院の供養塔が建てられています。刻まれた銘は「大納言殿北方 慈雲院 芳室紹慶 逆修」。逆修とは、生きているうちに自分の供養をあらかじめ済ませておくことです。夫を亡くしたその年に、自分の供養塔を夫ゆかりの高野山に建てたことになります。高野山と秀吉・秀長兄弟の関係は 高野山はなぜ焼かれなかったのか をご覧ください。

高野山奥之院の杉木立の参道で、五輪塔に手を合わせる尼姿の女性のイメージ(イラスト)
高野山奥之院で供養塔に手を合わせる慈雲院のイメージ(イラスト)。記録をもとに描いた想像図です。

秀長の死後、慈雲院は「大和大方様」と呼ばれ、跡を継いだ秀保を見守る立場になりました。けれども文禄4年(1595)に秀保が十七歳で亡くなり、大和豊臣家は絶えます。その後も慈雲院は生き続け、慶長10年(1605)ごろには、大和国の四つの村で二千石の知行を受けていたことが分かっています。夫の家がなくなったあとも、秀長の妻として一定の暮らしは保たれていたのです。

豊臣家の滅亡を見届けて ── 元和6年の死

慈雲院が亡くなったのは、元和6年(1620)とされます。大坂夏の陣で豊臣家が滅びたのは、その5年前の元和元年(1615)です。夫の秀長、息子の与一郎、養子の秀保、そして毛利秀元に嫁いだ娘のきく(慶長14年に二十二歳で死去)。身近な人をすべて見送り、夫の兄が築いた豊臣家が滅ぶところまで見届けた、長い後半生でした。高野山奥之院の豊臣家の墓所には、いまも彼女の石塔が残っています。

永禄9〜10年ごろ 秀長と結婚したと推定される
天正10年(1582) 息子の与一郎が亡くなる(本能寺の変の年)
天正13年(1585) 秀長とともに大和郡山城へ
天正19年(1591) 1月に秀長が死去。5月、高野山に供養塔(逆修)
文禄4年(1595) 養子の秀保が死去し、大和豊臣家が絶える
慶長10年(1605)ごろ 大和国の四か村で二千石を知行
元和6年(1620) 死去したとされる

娘のきくが嫁いだ毛利秀元については 毛利秀元とは で紹介しています。

よくある疑問

Q. 慶の読み方は?
A. ドラマでは「ちか」と読みます。史実の名前は伝わっておらず、「慶」は法名の「紹慶」からとったとみられます。

Q. 秀長の妻を演じているのは誰ですか?
A. 吉岡里帆さんです。第12回「小谷城の再会」から登場し、吉岡さんにとっては大河ドラマ初出演となりました。

Q. 慈雲院と智雲院は別の人ですか?
A. 同じ人物です。史料や書き物によって「慈雲院」「智雲院」と表記が分かれています。

Q. 秀長と慶に子どもはいましたか?
A. 与一郎という息子がいましたが、天正10年(1582)に亡くなりました。娘たちについては生母がはっきりしない人もいて、慈雲院の実の子かどうかは分かっていません。

まとめ

ドラマの慶のモデルである慈雲院は、実名も出自もはっきりしないものの、秀長の正室として確かに生きた女性です。本能寺の変の年に息子を失い、夫の死後は高野山に自らの供養塔を建て、大和豊臣家の断絶と豊臣家の滅亡を見届けて元和6年に亡くなりました。記録の少なさは、裏を返せば、表に出ずに夫の家を支え続けた人だったということでもあります。ドラマで慶と秀長が並ぶ場面を見るとき、その先に続く長い後半生を思い浮かべると、また違って見えてくるはずです。第37回・第38回の史実は 第37回「秀長の国」の史実 と 第38回「和を以て、大和をなす」あらすじ予想と史実 にまとめています。

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