※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』第37回「秀長の国」のあらすじには、大和郡山城に移った秀長のもとに「新たな家臣も加わり」とあります。その候補として名前が挙がるのが、横浜一庵(よこはま・いちあん)です。秀長の家中でもっとも高い五万石を与えられ、大和の寺社との交渉を任された家老でした。
この記事では、横浜一庵が秀長のもとで何をしたのか、そして伏見の大地震で迎えた意外な最期までをたどります。
- 横浜一庵(良慶)は、秀長が大和に入った天正十三年(1585)ごろから史料に現れる家臣。羽田正親・小川下野守とともに「三家老」と呼ばれた
- 大和で五万石を領し、秀長の家臣のなかで最も高い禄だった
- 興福寺との取次、和歌山城の普請、春日社の石垣の補修など、寺社と城の実務を担った
- 秀長の死後は秀保に、秀保の死後は秀吉に仕えたが、文禄五年(1596)の慶長伏見地震で圧死した
横浜一庵は第37回に登場するのか
第37回では、四国攻めの恩賞として大和一国を与えられた秀長が大和郡山城に入り、興福寺をはじめとする寺社勢力と向き合います。「新たな家臣」が誰なのかは放送前の時点では明らかにされていませんが、横浜一庵はちょうどこの大和入りのころから史料に名前が見える人物で、寺社との交渉役でもありました。登場すれば、寺社との対立の場面で秀長を支える役まわりになりそうです。
放送で登場したら、この記事に追記します。第37回の見どころ全体は第37回「秀長の国」あらすじ予想と史実にまとめています。
横浜一庵とは:秀長の家中で最高の五万石

横浜一庵は天文十九年(1550)の生まれで、実名は良慶とされます。父は四郎三郎と伝わりますが、秀長に仕える前の経歴はよくわかっていません。はっきり史料に現れるのは、秀長が大和に入った天正十三年(1585)ごろからです。
一庵は、羽田正親・小川下野守とともに秀長の「三家老」として領国の政治を担いました。大和国内で五万石を与えられ、これは当時の秀長の家臣のなかで最も高い禄でした。新しく大和の主となった秀長が、一庵をどれほど頼りにしていたかがわかります。
天正十七年(1589)には出家して頭を剃り、「大蔵卿法印」と名のりました。
寺社と城の実務:興福寺との取次
一庵の大きな役目のひとつが、興福寺との取次でした。取次とは、主君と相手方とのあいだに立って、意向を伝え、交渉をまとめる役です。寺社の国・大和では、興福寺との関係をどう保つかが国を治める要でした。秀長が寺社に指出を命じ、所領を大きく削っていくなかで、寺の言い分を受け止め、秀長の方針を伝える一庵の立場は、きわめて難しいものだったはずです。
このほか一庵は、秀長が紀伊に築いた和歌山城の普請奉行や、春日社の石垣の補修の奉行もつとめています。寺社との交渉と、城や社の工事の両方を任されていたことになります。
盤覚とは:坂口涼太郎が演じる興福寺の坊官は実在? 一乗院と、秀長に会いに来た寺の使者
秀長のもとへ来た興福寺の使者。一庵が向き合った「寺の側」の人物です。
秀長の死後:秀保、そして秀吉へ
天正十九年(1591)正月に秀長が亡くなると、一庵は跡を継いだ秀保に仕えました。文禄の役(朝鮮出兵)では、国元の留守を預かっています。
文禄四年(1595)に秀保が十七歳で急死し、秀長の家が絶えると、一庵は秀吉の直臣となりました。同じ年に起きた秀次事件では、秀長家の旧臣のなかにも命を落とした者がいましたが、一庵は生き残っています。
伏見の大地震での最期
一庵の最期は、戦場でも処罰でもありませんでした。文禄五年(1596)閏七月十三日、京都・伏見一帯を大地震が襲います。慶長伏見地震です。秀吉が築いたばかりの伏見城の天守も崩れ、多くの人が犠牲になりました。一庵もこの地震で、崩れた建物の下敷きになって亡くなったとされます。四十七歳でした。
子の横浜茂勝が跡を継いだといわれますが、秀長の家中で最高の禄を得た家老の家は、その後大きく名を残すことはありませんでした。
まとめ
横浜一庵は、秀長が大和に入ったころから史料に現れ、五万石という家中最高の禄を与えられた家老でした。興福寺との取次を担い、城や社の工事も任された、寺社の国・大和を治めるための実務の要です。秀長・秀保・秀吉と主を替えながら生き延びたものの、最後は伏見の大地震で命を落としました。
秀長の家臣たちについては豊臣秀長の家臣団とはで、同じく「新たな家臣」候補の島左近については島左近は秀長の家臣だったのかで、同じ三家老の羽田正親については羽田正親とはで、検地奉行の小堀正次については小堀正次とはで書いています。
