大河ドラマ『豊臣兄弟!』の小一郎は、はじめ村で田を耕して暮らし、兄の藤吉郎に半ば無理やり連れ出されて武士になります。では実際の秀長は、どこから出発して、どのように出世し、どの時点でどれだけの領地をもらったのでしょうか。この記事では、秀吉の家族が四人きょうだいだったことと父親の問題から始めて、小一郎が百万石の「大和大納言」になるまでを、記録で確かめられることと確かめられないことに分けてたどります。
- 秀吉の家族は、姉・とも、藤吉郎(秀吉)、小一郎(秀長)、妹・旭の四人きょうだいです
- 秀長と旭は、秀吉とは父の違う弟妹(父は竹阿弥)とされますが、根拠の『太閤素生記』には年代が合わない点があり、同じ父とみる説もあります
- 田を耕していた小一郎を兄が連れ出した話は、同時代の記録には見えません。若いころの秀長は記録がほとんどない人です
- 最初にもらった家禄(知行)を示す文書はありません。はっきり記録に出てくるのは天正元年、兄が北近江を任されたころからです
- 竹田城代(天正5年)→ 但馬一国と播磨の二郡(天正8年)→ 姫路城(天正11年)→ 紀伊・和泉 → 大和を加えて「百万石」(天正13年)と、わずか十年あまりで駆け上がりました
秀吉の家族は四人きょうだい
秀吉と秀長の母は、尾張国愛知郡中村(いまの名古屋市中村区)の「なか」で、のちに大政所と呼ばれる人です。なかには四人の子がいて、上から姉のとも、藤吉郎(秀吉)、小一郎(秀長)、妹の旭という順番になります。生年は、ともが天文3年(1534)、秀吉が天文6年(1537。天文5年説もあります)、秀長が天文9年(1540)、旭が天文12年(1543)とされ、ほぼ三年おきに生まれています。

| 名前 | 生年 | 父(通説) | その後 |
|---|---|---|---|
| 姉・とも(日秀尼) | 天文3年(1534) | 木下弥右衛門 | 弥助(三好吉房)に嫁ぎ、秀次・秀勝・秀保を産む。寛永2年(1625)に92歳で没 |
| 藤吉郎(秀吉) | 天文6年(1537) | 木下弥右衛門 | 関白・太閤。慶長3年(1598)没 |
| 小一郎(秀長) | 天文9年(1540) | 竹阿弥(同父説もあり) | 大和・紀伊・和泉の大名、権大納言。天正19年(1591)没 |
| 妹・旭(朝日姫) | 天文12年(1543) | 竹阿弥(同父説もあり) | 天正14年(1586)に徳川家康へ嫁ぐ。天正18年(1590)に48歳で没 |
このきょうだいは、のちの豊臣政権でそれぞれ大きな役を負わされます。姉ともの息子たちは秀吉の養子や跡継ぎ候補になり、妹の旭は家康を臣従させるために夫と別れさせられて家康に嫁ぎ、弟の秀長は政権の二番手になりました。家臣を代々持たない成り上がりの秀吉にとって、頼れるのは身内しかいなかったのです。
藤吉郎と小一郎は、父が違うのか
「秀吉と秀長は父の違う兄弟」という話のもとは、江戸時代のはじめに書かれた『太閤素生記』です。この本によると、なかの最初の夫・木下弥右衛門は天文12年に亡くなり、なかは同じ中村の出で織田信秀に同朋衆として仕えていた竹阿弥と再婚し、秀長と旭はこの竹阿弥とのあいだの子だとされています。同書は秀長を「小竹」と呼んでいます。
父が同じでも違っても、秀吉が家を出たあとに継父とうまくいかなかったと伝わること、母なかを中心にした家族のつながりが強かったことは変わりません。出自のくわしい検討は 豊臣秀長と秀吉の出自 にまとめています。
田を耕していた小一郎を、兄が連れ出した話
ドラマや小説でおなじみなのが、村で田畑を耕すことに満足していた小一郎を、出世しはじめた藤吉郎が「おまえが要る」と口説き落として、ほとんど無理やり家臣にしてしまう場面です。兄弟の性格の違いがよく出る、とても印象的な場面ですが、実はこの話を裏づける同時代の記録はありません。
ただ、この話がまったくの作り話とも言い切れません。秀吉は父祖代々の家臣を持たない人だったので、姉の夫の弥助、妻ねねの実家の木下家定や浅野長政など、身内や親類を次々と家臣団に取りこんでいます。そのなかで、実の弟を呼び寄せない理由はありませんから、「兄が弟を必要とした」という話の芯は、状況から見てじゅうぶんありうることです。
最初にもらった家禄は、いくらだったのか
小一郎が最初にどれだけの家禄(知行)をもらったのかは、残念ながら分かっていません。そもそも秀吉自身が信長の足軽や小者から出発しているので、その弟が最初からまとまった領地を持っていたとは考えにくく、はじめは兄の家の中で働く身内の一人として、兄から扶持をもらっていたのでしょう。
数字が見えてくるのは、天正元年(1573)に浅井氏が滅び、秀吉が北近江三郡、およそ十二万石を任されてからです。このなかから秀長にも領地が分けられたはずで、一万石前後とみる推定もありますが、それを示す文書は見つかっていません。ですから「最初の家禄は○石」と言い切っている説明は、推定だと思って読むのがよいと思います。

はじめて記録に出てくる小一郎
長浜市の資料によると、「木下小一郎長秀」の名が確かめられるいちばん早い記録は、天正元年に北近江の伊香郡黒田郷に出した文書です。翌天正2年(1574)の長島一向一揆攻めでは、『信長公記』に「木下小一郎」の名が見え、このころには兄の軍勢の一角を担っていたことが分かります。天正3年には、兄と同じ「羽柴」の名字を名のった文書も現れます。
長浜時代の秀長の仕事は、戦よりも領国の実務でした。寺社に禁制を出し、旧浅井家の家臣や村々との取次をし、兄が信長の命で各地に出陣しているあいだは留守を預かるという役回りで、ここで身につけた「兄の代わりに国を治める」経験が、のちの大和支配にそのままつながっていきます。
竹田城代から但馬一国へ
秀長がはじめて大きな軍勢を任されたのは、天正5年(1577)に始まる中国攻めのときです。秀吉が播磨に入ると、秀長は別働隊を率いて但馬に攻め込み、山名氏の城だった竹田城を落として城代になりました。兄の手足ではなく、一方面を預かる将として働きはじめた瞬間です。

天正8年(1580)には但馬の平定を終え、山名氏の本拠だった有子山城(出石)に入ります。このとき秀長に与えられたのは、但馬国七郡の十万五千石余りと播磨国の二郡とされ、はじめて石高で語れる「大名」になったと言えます。秀吉の弟とはいえ、信長から見れば家臣の家臣(陪臣)にすぎない立場で、この規模の領地を持ったことは異例でした。

姫路城と播磨・但馬
天正10年(1582)の本能寺の変のあと、秀長は山崎の戦いで天王山に陣を置き、翌天正11年の賤ヶ岳の戦いでは、兄が美濃に向かっているあいだ前線を支えました。戦いのあと、秀吉が大坂に本拠を移すと、秀長は兄がそれまで使っていた姫路城に入り、播磨と但馬を任されます。この年には美濃守に任じられ、官位の上でも一人前の大名になりました。賤ヶ岳での働きは 豊臣秀長は賤ヶ岳で何をしたのか でくわしく書いています。

紀伊・和泉、そして大和へ
秀長の領地がいっきに広がったのは天正13年(1585)です。春の紀州攻めのあと紀伊と和泉を与えられ、和歌山に新しい城を築かせました。続いて夏の四国攻めでは、兄に代わって総大将をつとめて長宗我部元親を降し、その功で閏8月に大和を加えられて、郡山城に移ります。

こうして秀長は、大和・紀伊・和泉の三か国を持つ「百万石」の大名になりました。ただし百万石というのは名目で、実際の石高は七十三万石余りだったという説や、国ごとの石高を足すと八十三万石ほどになるという見方もあります。なぜ大和だったのか、内訳はどうだったのかは なぜ秀長は大和郡山に百万石を与えられたのか を、寺社の多い大和をどう治めたかは 秀長は寺社の国・大和をどう治めたのか をご覧ください。

出世の階段を一覧にすると
秀長の立場と領地の移り変わりを、記録の確かさとあわせて並べると次のようになります。確かさは、同時代の文書で確かめられるものを◎、おおむね確かなものを○、推定や後世の伝えを△としました。
| 年 | 立場・居城 | 領地・石高 | 確かさ |
|---|---|---|---|
| 永禄年間ごろ | 兄のもとに加わる(時期・経緯は不明) | 不明 | △ |
| 天正元年(1573) | 木下小一郎長秀として北近江で文書を出す。長浜で兄の領国を支える | 兄の北近江約12万石の一部(額は不明。一万石前後とする推定あり) | ◎(石高は△) |
| 天正5年(1577) | 但馬に攻め入り、竹田城代 | 但馬の一部を預かる | ○ |
| 天正8年(1580) | 有子山城(出石) | 但馬七郡10万5千石余+播磨二郡 | ○ |
| 天正11年(1583) | 姫路城、美濃守 | 播磨・但馬 | ○ |
| 天正13年(1585)春〜夏 | 紀州攻め・四国攻め(総大将) | 紀伊・和泉など | ○ |
| 天正13年閏8月 | 郡山城 | 大和・紀伊・和泉で名目百万石 | ◎(実高は諸説) |
竹田城代から百万石まで、わずか八年です。しかもこの間、秀長は兄に取って代わろうとすることは一度もなく、領地が増えるたびに、兄が次の戦に集中できるよう後ろを固める役を引き受けつづけました。領地の広さは、兄が弟にどれだけの留守を任せられたか、その信頼の大きさでもあったのです。
官位でたどる、大和大納言への道
石高と並んで、秀長の出世は官位にも表れています。天正11年に美濃守、天正13年10月に従四位下参議、天正14年10月に従三位権中納言、天正15年(1587)8月に従二位権大納言と、わずか四年で公家でもなかなか届かない位まで上りつめ、ここから「大和大納言」と呼ばれるようになります。尾張中村で生まれた百姓の子が、兄に続いて朝廷の高位に並んだわけで、この兄弟の出世がどれほど異例だったかがよく分かります。
四人のきょうだいの、その後
出世を重ねたきょうだいでしたが、その後はけっして幸せなものばかりではありませんでした。秀長は天正19年(1591)1月、郡山城で病のため亡くなり(享年52)、兄より七年早くこの世を去ります。妹の旭は、家康に嫁いでわずか四年後の天正18年に亡くなりました。家康に嫁いだいきさつは 旭姫と大政所 にくわしく書いています。
いちばん長く生きたのは姉のともで、92歳まで生きましたが、そのあいだに三人の息子をすべて失っています。秀勝は朝鮮への出陣中に病死し、秀長の跡を継いだ秀保は十津川で急死し、関白になった秀次は秀吉に切腹を命じられました。秀次と秀吉の関係は 秀吉と秀次はどういう関係だったのか で取り上げています。きょうだいがそろって出世した家は、弟の秀長を失ったところから、少しずつほどけていったのです。
よくある疑問
Q. 秀長が最初にもらった石高はどれくらいですか?
A. 分かっていません。秀吉が北近江を任された天正元年ごろ、そのなかから一万石前後を分けられたとみる推定がありますが、文書の裏づけはありません。石高がはっきりするのは、但馬を平定した天正8年の「但馬七郡10万5千石余と播磨二郡」からです。
Q. 秀長は本当に百姓をしていたのですか?
A. 尾張中村の百姓の家に生まれたことはほぼ確かですが、若いころに田畑を耕していた、兄に無理やり連れ出されたといった具体的な話は、同時代の記録には出てきません。
Q. 秀吉と秀長は本当に異父兄弟ですか?
A. 『太閤素生記』は異父兄弟としていますが、同じ本に書かれた弥右衛門の没年と秀長の生年が合わないため、同じ父の兄弟とみる説もあります。どちらとも決められていません。
Q. 秀長はいつ「秀長」と名のったのですか?
A. 若いころは「長秀」と名のり、天正12年ごろに「秀長」に改めたとされます。理由は 豊臣秀長はなぜ「長秀」から「秀長」に改めたのか をご覧ください。
ゆかりの地をめぐる
- 長浜城(滋賀県長浜市)… 兄弟がはじめて城と領地を持った場所
- 竹田城跡(兵庫県朝来市)… 秀長がはじめて城代をつとめた山城
- 出石城(有子山城)(兵庫県豊岡市)… 但馬の大名としての本拠
- 和歌山城(和歌山市)… 紀伊を与えられて築かせた城
- 大和郡山城(奈良県大和郡山市)… 百万石の居城で、最期を迎えた城
まとめ
秀吉の家族は、姉とも・藤吉郎・小一郎・旭の四人きょうだいで、秀長と旭は父が違うとされますが、その根拠には年代の合わない点が残ります。田を耕していた小一郎を兄が連れ出したという名場面も、最初の家禄の額も、記録からは確かめられません。確かなのは、天正元年に長浜で兄の領国の実務を担っていた小一郎が、竹田城代、但馬の大名、姫路城主を経て、天正13年には大和・紀伊・和泉の百万石と大納言の位にまで上りつめたことで、その出世はいつも、兄の留守を預かる役とひとつながりでした。記録の空白の多い前半生と、はっきりした数字の並ぶ後半生、その落差こそが「補佐役・秀長」の出世の形だったのだと思います。
- 豊臣秀長とはどんな人物か
兄・秀吉を支えた大和大納言の生涯 - 豊臣秀長の出自
本当に秀吉と同じ父母の弟だったのか - 豊臣秀長はなぜ「長秀」から「秀長」に改めたのか
丹羽長秀と同じ名を持っていた - 豊臣秀長は賤ヶ岳で何をしていたのか
秀吉が戦場を離れられた理由 - 豊臣秀長と大坂城築城
石と材木をどう集めたのか - 豊臣秀長はなぜ四国攻めの総大将に選ばれたのか
十万の軍を率いた夏 - 豊臣秀長の四国平定・九州平定
総大将として天下統一を進めた戦 - 豊臣秀長の百万石
大和・紀伊・和泉の内訳と、大和郡山を任された理由 - 豊臣秀長の大和支配
寺社の国をどう治めたのか - 豊臣秀長の居城・大和郡山城
逆さ地蔵の石垣と、秀長のあとの城主たち - 豊臣秀長が築いた和歌山城
虎伏山に築いた紀州の城 - 豊臣秀長の家臣団
藤堂高虎・桑山重晴・吉川平介ら百万石を支えた人びと - 豊臣秀長に仕えた藤堂高虎
築城の名手になった二十年 - 豊臣秀長の家臣・吉川平介
主君・秀長の面目を潰した処刑 - 豊臣秀長が亡くなった年
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