多聞山城跡(多門山城・奈良市):十七年で壊された城と、全国に残った「多聞櫓」という名

多門山城/アクセス・場所・地図 松永久秀が築城 画期的な多門櫓が有名な多門山城
この記事のポイント
  • 多聞山城(多門山城)は松永久秀が奈良に築いた城で、石垣・瓦・白壁を備えた当時としては先進的な城だった
  • 石垣の上に長く連なる櫓を「多聞櫓」と呼ぶのは、この城の名から来ている
  • 城が建っていたのは十七年ほど。信長の命で壊され、地上の遺構はほぼ残っていない
  • 城は消えたが、その作り方は郡山城をはじめ各地の城に受け継がれた

多聞山城(奈良県奈良市法蓮町)は、松永久秀が奈良の町を見おろす丘に築いた城である。石垣を積み、瓦を葺き、白壁をめぐらせた城で、同じ時代の城のなかでは群を抜いて新しかった。いまその場所は中学校の敷地になっていて、坂道のわきに石柱が立つだけである。それでも、この城が残したものは全国の城に残っている。

▽ よく語られる話
多聞山城は跡形もなく壊された城で、いまは何も残っていない。
▼ 史実ではこうです
建物は確かに消えた。ただしこの城で試された造り方—石垣の上に長く連ねる櫓、瓦葺き、白壁—はその後の城の標準になり、「多聞櫓」という呼び名は全国の城に残っている。消えたのは城のほうで、形式は残った。
目次

「多聞櫓」という言葉は、この城から来ている

城を歩いていると、石垣の上に平屋や二階建ての建物が横へ長く連なっているのを見かける。あれを多聞櫓という。倉庫にも通路にも使え、塀のかわりに防御線にもなる、城の部品としてはきわめて使い勝手のよい形である。

この形を広めたのが多聞山城だとされ、名前もそこから来ている。郡山城の堀端に復元された長い建物も多聞櫓で、遠く離れた城でも同じ呼び方をする。ひとつの城の名前が部品の名前になった例は、そう多くない。

久秀が奈良に築いた城 ─ 石垣・瓦・白壁

築いたのは三好長慶の重臣、松永久秀である。永禄のはじめに大和へ入った久秀は、奈良の町の北に構える丘を選んでここに城を置いた。眼下に東大寺と興福寺、奈良の町並みが広がる位置で、筒井氏をはじめ大和の在地勢力を押さえるための拠点だった。

この城の新しさは造りにある。土を掻いて堀切をつくるだけの山城が当たり前だった時代に、石垣を積み、瓦を葺き、白壁を立てた。四階建ての櫓が建っていたとも伝わる。天守がまだ一般的でない時期に、高い建物で城の中心を示すという考え方が、ここにはすでにあった。

多聞城跡の石柱と、丘へ上る長い石段

丘へ上る長い石段のわきに立つ「多聞城跡」の石柱。奈良の町からこの高さを登った先に、石垣と白壁の城があった

宣教師が書き残した城

この城を訪れた南蛮の宣教師が、その壮麗さを書き残している。庭、部屋のしつらえ、城からの眺めまで記されていて、彼らが見慣れた西洋の城館と比べても遜色ないという書きぶりである。当時の日本の城で、外から来た者の目にそこまで映った例はめずらしい。

裏を返せば、久秀は城を見せるものとして造っていた。高い櫓も白壁も、攻めにくくするためだけのものではない。誰がこの国を握っているのかを、奈良の町から見上げさせるための造作でもあった。

東大寺の大仏殿が焼けた戦い

永禄の終わりごろ、久秀と三好三人衆が奈良で衝突し、このとき東大寺の大仏殿が焼けている。久秀の本拠が多聞山城で、東大寺周辺が戦場になった。

火を放ったのが誰かについては、同時代の記録でも書きぶりが分かれている。久秀方の夜襲によるという記述もあれば、三人衆方の陣中の失火とする見方もある。「松永久秀が大仏を焼いた」という言い方が定着したのは後の世のことで、断定できる材料はそろっていない。久秀という人がどう語られてきたかは別の記事にまとめている。

多聞城跡へ上る石段と、脇に立つ小さな石柱

城跡へ上る石段。段を上りきったところが城の中心だった。いまこの先にあるのは学校の敷地で、城の遺構は地上にほとんど残らない

十七年で壊された

久秀は信長に従い、離反し、また許される。一度目の離反のとき、赦しを得るために差し出したのがこの多聞山城だった。城は織田方のものとなり、明智光秀や柴田勝家が入っている。

そして信長の命で、城は壊された。築かれてから十七年ほどでの破却である。石材や瓦、建物は運び出され、筒井城や郡山城など、ほかの城で使われたと伝えられる。郡山城の石垣が寺の石塔まで抱えこんでいるのも、大和では石をよそから集めるしかなかったという同じ事情の続きにある。

久秀自身は二度目の離反のあと信貴山城で最期を迎えた。宿敵だった筒井順慶が大和を任され、やがて豊臣秀長が百万石で郡山へ入る。多聞山城が消えたあとの大和は、こうして主を替えていった。

多聞城跡の斜面と、木立のなかを上る坂道

城跡の斜面を上る坂道。丘そのものの形は残っていて、奈良の町からの高低差が城の位置を教えてくれる

現地はいま ─ 学校の敷地になった城跡

城の中心があったあたりは、いま中学校の敷地である。城跡が学校になるのは各地でよくあることで、平坦に造成された高台という条件が学校用地に向いているからでもある。石垣も櫓跡も地上には見あたらず、坂の途中に立つ「多聞城跡」の石柱が目印になる。

それでも丘の形そのものは残っている。奈良の町側から坂を上ってみると、久秀がなぜここを選んだのかが体で分かる。東大寺と興福寺を見おろせて、奈良盆地の北の出入口を押さえられる位置である。

奈良市内なので、郡山城跡や筒井城跡とあわせて一日で回れる。豊臣兄弟ゆかりの城めぐりに大和を組みこむなら、多聞山城から先に見ると順番が通る。

【多聞山城・場所・アクセス】
〒630-8113 奈良県奈良市法蓮町1416−1

よくある疑問

Q. 「多聞山城」と「多門山城」はどちらが正しいのですか。
どちらの表記も使われます。現地の石柱は「多聞城跡」で、多聞山城・多聞城・多門山城が同じ城を指します。

Q. 遺構は何か残っていますか。
地上に見える遺構はほとんどありません。丘の地形と石柱、そして発掘調査で確かめられた範囲が手がかりになります。

Q. 多聞櫓が残っている城はありますか。
多聞山城のものは残っていませんが、多聞櫓という形式は各地の城に伝わり、復元されたものも含めて今でも見ることができます。

墓地の上に築かれ五輪塔が石垣に使われた多聞山城と、久秀の死をめぐる「仏罰」の話は松永久秀は仏罰を恐れなかったのかで取り上げています。

あわせて読みたい:秀長はなぜ多聞山城や信貴山城を本拠にしなかったのか

まとめ

多聞山城は、石垣と瓦と白壁で造られた早い時期の城であり、奈良の町を見おろす場所に置かれた大和支配の拠点だった。城そのものは十七年ほどで壊され、石材はほかの城へ運ばれ、跡地は学校になった。それでも石垣の上に長く連なる櫓を多聞櫓と呼ぶかぎり、この城の名前は全国の城に残り続ける。

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