- 大坂城の着工は天正十一年(1583)九月。賤ヶ岳の勝利からわずか四か月後だった
- 天下人の城づくりは「築く」より「集める」仕事で、石・材木・人夫の割り当てが本体だった
- 秀長は但馬の銀山、大和・紀伊の材木、堺と和泉の水運という、資材と資金の源を押さえる位置にいた
- 石が足りず、大和郡山城では石仏や墓石までが石垣に転用されている
大坂城というと、どうしても天守の華やかさに目が向く。だが城を一つ建てるという事業を分解すると、その大半は戦の話ではなく、調達と輸送と人繰りの話になる。
豊臣秀長という人物の能力が最もよく見えるのは、実はこの部分である。秀長の最期や四国・九州平定の総大将としての姿はよく語られるが、ここでは天下人の本拠がどう作られたかという角度から、弟の仕事を追ってみたい。

大坂城。現在の天守は昭和六年の再建で、石垣は徳川期に築き直されたもの(大阪府大阪市)
賤ヶ岳から四か月後の着工
天正十一年(1583)四月に柴田勝家が滅び、九月一日には早くも大坂での普請が始まっている。場所は石山本願寺の跡地。十年にわたって信長を苦しめた寺内町の立地を、秀吉はそのまま自分の本拠に選んだ。
縄張りには黒田官兵衛が関わったと伝えられる。天守は天正十三年(1585)ごろに姿を現し、宣教師たちがその金色の装飾を書き残している。ただし惣構や外堀まで含めた全体が完成するのは、さらに後のことになる。大坂城は一度に建った城ではなく、十年以上かけて外側へ膨らみ続けた城だった。
石をどこから運ぶか、という問題
この規模の城で最大の難所は、設計でも技術でもなく調達である。石材は瀬戸内の島々、六甲、生駒の山から切り出され、海路と川筋で運ばれた。材木は吉野や紀伊の山から伐り出される。人夫は諸大名に割り当てられる。
諸大名に負担を割り当てて公儀の城を築かせるやり方は、のちに江戸幕府の天下普請として制度化されるが、その原型はこの時期にできあがっている。つまり大坂城の築城とは、全国から資材と労働力を吸い上げる仕組みを作る作業そのものだった。

大坂城の巨石。運搬そのものが権力の誇示だった
弟が押さえていた場所
秀長が大坂城の普請総奉行を務めたと明記する同時代史料はない。しかし彼が置かれていた位置を並べると、この事業の急所をことごとく押さえていることが分かる。
天正八年に但馬を平定した秀長は、生野銀山を管掌下に置いた。銀は資金である。天正十三年の紀州攻めののち、彼は大和・紀伊・和泉あわせて百万石余を領した。吉野と紀伊の山は良質な材木の産地であり、和泉と堺は瀬戸内から畿内への荷が集まる港である。資金と材木と港を、弟が一手に握っていたことになる。
四国平定で十万を超える軍勢を渡海させ、九州でも一方面軍を率いた実績も、同じ能力の別の現れと見るべきだろう。船を集め、糧を運び、期日に間に合わせる。秀長は戦場の将である前に、物流の将だった。
なぜ京都ではなく、大坂だったのか
関白にまで上る人物が本拠を置くなら、京都のほうが自然に見える。実際、秀吉はのちに聚楽第を建て、伏見にも城を築いた。それでも最初に選んだのは大坂だった。
理由は地形と水にある。上町台地の北端は三方を川と低湿地に囲まれた天然の要害で、そこは同時に、淀川と大和川の水系が瀬戸内へ抜ける結節点でもあった。堺で荷を受け、川船に積み替えて京へ運ぶ。その動脈の口を押さえる位置である。
信長が十年をかけて石山本願寺と戦い続けたのも、教団を憎んだからというより、この場所が欲しかったからだと見るべきだろう。秀吉は信長が手に入れられなかった土地に、信長が構想したであろう城を建てたことになる。
そして城が完成に近づくと、大坂は城下町として整備されていく。堀を掘った土は町の造成に使われ、堺や平野から商人が移された。城づくりと町づくりが同じ事業として進んだ点も、長浜城で兄弟が試したやり方の延長にある。
大河で描かれない話
秀長の居城となった大和郡山城の石垣を見ると、石仏や墓石、礎石らしきものが数多く積み込まれている。とりわけ有名なのが、逆さまに据えられた地蔵、いわゆる「さかさ地蔵」である。
大和は古くから開けた土地だが、築城に使える良質な石材には乏しかった。そのため周辺の寺社から石を集め、仏像さえ転用せざるを得なかった。百万石を領した天下人の弟が、石一つに苦労している。

大和郡山城の石垣。寺社から集められた転用石が数多く積まれている
秀長は大和郡山で商人を町ごとに組織し、自治と負担を組み合わせた仕組みを敷いたと伝えられる。箱本と呼ばれる制度で、城下の運営を町側に任せる代わりに、必要なときに人と物を出させる。これも、必要なものを必要な場所に集めるという同じ発想の延長にある。
よくある質問
Q. 大坂城の築城はいつ始まりましたか。
A. 天正十一年(1583)九月一日に普請が始まったと伝えられます。賤ヶ岳の戦いのおよそ四か月後です。
Q. 秀長は大坂城の築城にどう関わったのですか。
A. 普請の総責任者だったとする確実な史料はありません。ただし生野銀山、吉野・紀伊の材木、和泉と堺の港という、資金・資材・輸送の要所をいずれも領国内に持っており、事業の基盤を支える位置にいました。
Q. 現在の大阪城天守閣は豊臣時代のものですか。
A. いいえ。現在の天守は昭和六年(1931)の再建で、載っている石垣も徳川幕府が築き直したものです。豊臣期の遺構はその下に埋まっています。
Q. 豊臣時代の石垣は見られますか。
A. 地中に埋もれた状態で保存されており、発掘された部分を公開するための整備が進められています。訪問前に現地の公開情報をご確認ください。
Q. なぜ京都ではなく大坂に本拠を置いたのですか。
A. 上町台地の北端という要害の地形に加え、淀川・大和川の水系と瀬戸内航路が交わる物流の結節点だったことが大きいとされます。信長が石山本願寺と長く争ったのも、この立地をめぐる争いという面がありました。
ゆかりの地をめぐる
- 大阪城(大阪府大阪市)… 秀吉が天正十一年から築いた天下人の本拠。現在見られる石垣は徳川期のもの
- 大和郡山城(奈良県大和郡山市)… 秀長の居城。さかさ地蔵をはじめ転用石が多数残る
- 長浜城(滋賀県長浜市)… 兄弟が城づくりと町づくりを最初に手がけた城
まとめ
大坂城が短期間で立ち上がったのは、秀吉が急いだからだけではない。石を切り、木を伐り、船を出し、人夫を集める段取りが、すでに回る状態になっていたからである。その段取りを担っていたのが、銀山と山と港を領した弟だった。
天正十九年(1591)に秀長が没すると、豊臣家はこの調達と分配の中枢を失う。その後の朝鮮出兵で兵站が破綻していく過程を見ると、失われたものの大きさが逆算できる。秀吉と秀長の出自をたどったときに見えた「代わりのいない関係」は、城づくりの現場でも同じだったのである。

