大阪城:秀吉の城は地下に眠る ― 徳川が埋めて築き直した城と、百トンの蛸石

大阪城:大阪冬の陣・夏の陣にて淀の方・豊臣秀頼自刃と共に消失!!豊臣秀吉が築城した大阪城

大阪城は豊臣秀吉の城として知られています。ところが、いま園内で見上げる石垣も堀も、そのひとつも秀吉が築いたものではありません。大坂夏の陣で豊臣の城が焼けたあと、徳川幕府は残った石垣ごと土で埋め、その上に一回り大きな城を新しく築きました。秀吉の城は地面の下、数メートルの深さで眠っています。

この記事のポイント
  • 石山本願寺の跡地に秀吉が築き、大坂の陣で焼け落ちた
  • 徳川幕府は豊臣の城を埋め、その上に新しい城を築き直した
  • いま見える石垣はすべて徳川の時代のもの
  • 現在の天守は昭和の再建で、徳川の天守台に豊臣風の姿が載る
目次

石山本願寺から、秀吉の城へ

大阪城が建つ上町台地の北端は、もともと石山本願寺があった場所です。三方を川と低湿地に囲まれ、北は淀川の水運につながるという、城を置くには申し分のない地形でした。織田信長が十年にわたって攻めあぐねたのもこの地の利によります。

本能寺の変のあと、信長の後継の座を固めた豊臣秀吉は、天正11年(1583年)にこの跡地で築城を始めました。黒漆と金で飾られた五層の天守が上がり、金銀をちりばめた御殿が並び、諸大名を迎える舞台になります。城のまわりには町が広がり、大坂は日本の経済の中心になりました。

大阪城の枡形と高石垣

枡形を囲む高石垣。表面をそろえて積んだ切込接の壁が、直角に折れながら道をふさぐ。

大坂の陣と、埋められた城

秀吉の死後、城を継いだのは子の秀頼でした。徳川家康との対立が深まり、慶長19年(1614年)の冬の陣で真田信繁が出丸を築いて奮戦しますが、和睦の条件として外堀が埋められます。翌年の夏の陣で城は落ち、秀頼と淀殿は自刃しました。大坂の陣(冬・夏)と真田幸村(信繁)の記事でくわしく扱っています。

▽ よく語られる話

大阪城は秀吉が築いた城で、いま残る石垣や堀にも秀吉の時代の面影が残っている。

▼ 史実ではこうです

夏の陣のあと、徳川幕府は豊臣の城を復旧するのではなく、跡形を消す道を選びました。焼け残った石垣の上に土を盛り、堀を埋め、その上にひと回り大きい城を新たに築いたのです。天守台の位置も変わり、石垣は高さも積み方も一新されました。いま園内で見られる石垣、堀、櫓、門はすべて徳川の時代のものです。豊臣期の石垣は地下数メートルの深さで見つかっており、その一部は地下の施設で見学できるように整備されました。

再築の工事は元和6年(1620年)から十年ほど、三期にわたって行われ、藤堂高虎が縄張を担いました。全国の大名に石を運ばせる天下普請で、瀬戸内の島々から巨石が船で運ばれています。篠山城跡や名古屋城と同じやり方ですが、規模はこの城が最大でした。

極楽橋から見る大阪城の天守

橋の上から天守を望む。手前の石垣も橋も、徳川の再築のときに造られたもの。

巨石が語る天下普請

桜門をくぐった正面に、蛸石と呼ばれる巨大な一枚岩があります。表面の広さはおよそ六十平方メートル、重さは百トンを超えると見積もられ、城の石垣に使われた石としては国内で最大です。まわりにも肥後石や振袖石といった名のついた巨石が並び、枡形の壁一面が巨岩でできています。

これらは瀬戸内海の島々の石切場から切り出され、船で運ばれてきました。運搬を担った大名にとっては見せ場でもあり、大きな石を据えることが忠勤の証になります。石には担当した大名の刻印が残り、どの家がどこを受け持ったのかを今でも読み取れます。堀の深さも桁外れで、南の空堀は底まで二十メートル近くあり、石垣の高さは日本一を誇ります。

大阪城の巨石

枡形に据えられた巨石。瀬戸内の島から船で運ばれ、大名たちが競うように大きな石を献じた。

城下町・大坂と、天下の台所

秀吉の時代、城の西に広がる低湿地には堀川が何本も開かれ、船が町の奥まで入れるようになりました。淀川で京と結ばれ、海路で瀬戸内と九州につながる位置は、物が集まるには理想的です。徳川の世に入っても大坂は幕府の直轄地として商いの中心であり続け、諸藩の蔵屋敷が立ち並んで、年貢米がここで銀に換えられました。天下の台所と呼ばれた所以です。

城は大坂城代が預かり、西国の大名をにらむ役目を負いました。城代は譜代大名から選ばれ、京都所司代とならぶ重職です。戦いのための城ではなくなったあとも、この城が持つ意味は小さくなりませんでした。幕末、将軍徳川家茂と慶喜が長く滞在したのもこの城で、鳥羽伏見の戦いのあと慶喜が江戸へ去ると、城内は火に包まれます。和歌山城から将軍となった家茂が最期を迎えたのも、この城でした。

天守は二度失われ、三度目に建った

徳川の天守は寛文5年(1665年)に落雷で焼け、以後、江戸時代を通じて再建されませんでした。幕末には城内の建物の多くが焼け、明治には陸軍の施設が置かれます。いま建つ天守は昭和の初めに市民の寄付を集めて建てられた三代目で、鉄骨鉄筋の建物です。

この天守をよく見ると、上の層は黒地に金の装飾、下の層は白漆喰と、上下で様式が違っています。徳川の天守台の上に、大坂夏の陣図屏風に描かれた豊臣の天守の姿を参考にして建てられたためです。史実に忠実な復元ではありませんが、市民の手で城のかたちを取り戻そうとした建物として、それ自体が歴史の一部になりました。国の登録有形文化財に指定されています。

江戸時代から残る建物

天守ばかりが注目されますが、この城には江戸時代の建物がいくつも残っています。大手門とそれに続く多門櫓、千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓、そして火薬庫の焔硝蔵と金蔵。いずれも国の重要文化財です。とくに焔硝蔵は壁も床も天井もすべて花崗岩で組まれた石造りの倉で、火薬を湿気と火から守るための工夫が徹底されています。

千貫櫓の名は、石山本願寺を攻めた織田方が「あの櫓を落とせるなら銭千貫を出す」と言ったことに由来すると伝わります。櫓そのものは徳川の再築のときのものですが、名前だけが本願寺の時代から引き継がれていることになります。

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城内の二の丸南側には、秀吉を祀る豊國神社があります。明治に京都の豊国神社の別社として創建され、のちにいまの場所へ移されました。境内には秀吉の銅像が立っています。

大阪城公園の豊國神社の社殿

大阪城公園の豊國神社

豊國神社の豊臣秀吉像

豊國神社の豊臣秀吉像

大阪城・場所とアクセス

大阪府大阪市中央区大阪城1-1。地下鉄谷町四丁目駅、森ノ宮駅、天満橋駅、JR大阪城公園駅など、どの方角からも歩いて入れます。天守は有料で、日本100名城のスタンプは天守閣一階のインフォメーションに置かれています。豊臣期の石垣を見られる地下の施設は公開日が決まっているので、訪ねる前に確認しておくと確実です。駿府城跡や篠山城跡とあわせると、徳川が豊臣の名残をどう消していったかが見えてきます。

大阪城の天守を見上げる

見上げた天守。上の層は黒地に金、下の層は白漆喰と、上下で様式が違っているのがわかる。

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