大分府内城は、大分川の河口に面した海際に築かれた城です。かつては三方を海と堀に囲まれ、白い櫓が水の上に浮かんで見えたことから白雉城(はくちじょう)とも呼ばれました。ここはもともと大友宗麟が本拠を置き、南蛮貿易で栄えた府内の町。大友氏が去ったあと、豊臣家臣の福原直高が港を押さえる位置に新しく城を築き、関ヶ原ののちに竹中半兵衛の従弟・竹中重利が入って大きく整えました。天守は江戸期の大火で失われましたが、宗門櫓と人質櫓は当時の建物のまま残っています。
- 海に面した縄張で、水運と一体になった城。別名は白雉城・荷揚城
- 大友宗麟の館とは別物。府内城は大友氏が去ったあとに築かれた
- 地名の「荷落」を縁起の悪さから「荷揚」へ改めたと伝わる
- 竹中半兵衛の従弟・竹中重利が大改修し、いまに伝わる姿になった
- 天守は江戸期の大火で焼失。宗門櫓と人質櫓は当時の建物が現存する
大友宗麟の府内と、城のはじまり

水堀の向こうに白い隅櫓が建つ。石垣が水面すれすれまで下り、背後には現代のビルが並ぶ。
府内は、いまの大分市の中心部にあたる古い地名です。豊後の守護だった大友氏がここに館を構え、二十一代の大友宗麟の代には南蛮船が出入りする国際的な町になりました。キリスト教の宣教師が滞在し、西洋式の病院が開かれ、南蛮の品が行き交う。九州でも屈指の富がここに集まっていたわけです。ただし注意しておきたいのは、宗麟がいたのは「大友館」であって、いま城跡として残る府内城ではないということ。宗麟は島津の北上を受けると館を捨て、海に突き出した臼杵城(丹生島城)へ本拠を移して籠城しました。府内城の物語は、大友氏が去ったあと、新しい支配者たちがこの港の価値を引き継ぐところから始まります。宗麟の窮地を救った秀吉の九州平定が、その入れ替わりの引き金でした。
荷落から荷揚へ ― 港を押さえた築城

堀の角に立つ隅櫓。石垣の隅は大きな石を交互に組んだ算木積みで、水面に白壁が映っている。
九州平定のあと、府内には秀吉配下の福原直高が十二万石で入りました。直高が選んだのは大友時代の館の跡ではなく、大分川の河口に近い海際の土地です。城を海に面して築くということは、船をそのまま城へ着けられるということ。物資も兵も水路で動かせます。写真のように石垣が水面のすぐ上から立ち上がっているのは、その名残です。おもしろいのは地名の話で、この一帯はもともと荷落(におろし)と呼ばれていました。荷が落ちるでは縁起が悪いというので、荷揚(にあげ)と改めたと伝わります。いまの住所表記が大分市荷揚町なのは、このときの改名がそのまま生きているからです。直高は関ヶ原で西軍についたために改易となり、城の完成を見届けることなく去りました。海を押さえる城という発想そのものは、平戸城や杵築城など九州の海沿いに共通するものです。
竹中重利の大改修 ― 半兵衛の従弟が整えた城
関ヶ原ののち、府内へ三万五千石で入ったのが竹中重利です。秀吉の軍師として知られる竹中半兵衛の従弟にあたる人物で、関ヶ原では東軍につきました。重利は入封するとすぐ城の大改修に着手し、天守や櫓、山里曲輪、内堀を次々に整えていきます。縄張は海側から本丸・二の丸・山里丸・三の丸と並び、それぞれの曲輪を橋で結ぶ形。三万五千石の大名としては相当に力の入った普請で、大手門の完成をもって、府内城はほぼ現在に伝わる姿になったとされます。重利は豊後国内の高田城も預かっており、府内を中心に豊後の要地を押さえる立場にありました。
竹中家の終わり ― 長崎奉行の不正
ところが竹中家の府内支配は二代で終わります。重利の跡を継いだ竹中重義が、長崎奉行に在任中の不正を咎められ、切腹・改易となったためです。長崎奉行は海外貿易を一手に握る役職で、うまみも大きければ目も厳しい。幕府が直轄地の貿易を統制していく過程で、締めつけの見せしめとなった面もあったでしょう。城を整えた家が、その二代目で消える。岩国城の吉川家のように関ヶ原の判断が二百年尾を引いた家もあれば、府内の竹中家のように役職ひとつで断たれる家もある。江戸初期の大名の立場がどれほど不安定だったかが、この城の歴代からよくわかります。
天守はどこへ消えたのか
同じことは各地で起きていて、仙台六十二万石がそもそも天守を建てなかったのも、篠山城の天守台に天守が上がらなかったのも、根は同じ事情です。天守のあるなしで城の格を測ろうとすると、この時代の城は読み違えることになります。
大給松平氏の二百年
竹中家の改易後、府内には日根野吉明が二万石で入りましたが、跡継ぎがなく断絶。その後、稲葉氏が城代として入るなどの変遷を経て、大給(おぎゅう)松平氏の松平忠昭が府内藩主として入り、以後この家が明治維新まで長く府内を治めます。石高は二万石あまりと小さな藩でしたが、城下は豊後の商業と海運の中心であり続けました。城主の家が次々と替わったのは、府内が幕府にとって扱いの難しい土地だったからでもあります。豊後は小さな藩が細かく分立していて、大きな大名を置かない。そのかわり要地には譜代を配して睨みを利かせる。杵築城や高田城を含めた豊後の城の配置を並べてみると、その意図が見えてきます。
現存する宗門櫓と人質櫓

石垣の上に白壁の櫓と土塀が続く。背後には近代のビルが迫り、城跡が市街のただ中にあることがわかる。
幾度かの災害と戦災をくぐり抜けて、府内城には江戸時代の建物がいくつか残っています。宗門櫓と人質櫓です。宗門櫓は江戸後期の大地震で倒壊したのち再建されたと伝わる建物で、人質櫓とともに県の史跡に指定されています。人質櫓という名は、大名が幕府へ差し出す人質に関わる由来だと説明されることが多いのですが、実際にどう使われたかまでははっきりしません。いずれにせよ、市街地のただ中にある城跡で、江戸の建物が二棟も残っているのは幸運なことです。写真のように背後にはビルが迫っていて、この城が生きた町の真ん中にあることがよくわかります。福山城でも、いちばん価値があるのは再建天守ではなく現存する櫓と門でした。府内城も同じで、見るべきものは天守台の上にはありません。
廊下橋と、いまの府内城

石垣の上から見下ろした眺め。白壁の櫓と土塀の向こうに堀が横たわり、その先は現代の市街地が広がる。
本丸と山里丸を結んでいた廊下橋は、古い絵図をもとに木造で復元されました。屋根が架かった橋で、堀の上に渡るその姿は府内城跡を象徴する眺めになっています。ほかにも隅櫓や西南隅櫓、大手門が再建され、堀と石垣とあわせて城の輪郭がたどれるようになりました。ただし、本丸の内側には長く公共施設が建っていた時期があり、城跡の全体が公園として整えられているわけではありません。城の一部が市役所や学校の敷地になるというのは、市街地にある城跡のほとんどが通ってきた道です。佐倉城が陸軍の連隊に使われて建物を失ったのと同じで、城跡が生き延びるか消えるかは、明治以降にその土地が何に使われたかで決まりました。府内城の場合、堀と石垣と二棟の櫓が残ったのは、ぎりぎりの幸運だったといえます。
訪ね方と見どころ
所在地は大分県大分市荷揚町。JR大分駅から歩いて十五分ほどで、日本100名城の九十四番です。市街のまん中にあるので、観光というより散歩の感覚で立ち寄れます。見る順番としては、まず堀の外側を一周してください。水面すれすれから立ち上がる石垣と、角に据えられた隅櫓の眺めがこの城のいちばんの見どころです。それから大手門をくぐって本丸へ入り、天守台に登る。ここに天守があったのだと思いながら市街を見わたすと、かつては目の前が海だったことが想像できます。宗門櫓と人質櫓は忘れずに近くで見てください。城を出たら、歩いていける距離に大友氏館跡の庭園が整備されているので、あわせて訪ねると府内という町の厚みがわかります。九州・沖縄のお城と城跡の一覧と日本100名城の一覧もどうぞ。
大分府内城・場所とアクセス
〒870-0046 大分県大分市荷揚町4-1
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