今帰仁城跡(なきじんぐすく):百曲がりと呼ばれる石垣と、尚巴志に滅ぼされた北山王の城

今帰仁城(なきじんぐすく)は、沖縄本島北部の本部半島にある大きなグスクです。琉球王国が生まれる前、島が三つに割れていた時代に北部を治めた北山王の居城で、外周はおよそ一・五キロ、標高百メートルほどの丘をまるごと石垣で囲いこんでいます。目を引くのは、まっすぐな区間がほとんどない城壁です。地元で「百曲がり(ももまがり)」と呼ばれるこの折れ曲がった石垣こそ、今帰仁城がどうやって攻め手を迎え撃つつもりだったのかを物語っています。城は中山の尚氏に落とされ、のちに薩摩の兵にも焼かれましたが、石垣はほとんどそのまま残りました。

この記事のポイント
  • 三山時代に北部を治めた北山王の居城。外周およそ一・五キロ
  • 「百曲がり」と呼ばれる折れ曲がった石垣は、古い野面積みが主体
  • 中山の尚巴志に攻め落とされ、北山は滅びた
  • 落城後は監守が置かれ、薩摩の琉球侵攻でふたたび戦場になった
  • 世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つで、日本100名城98番
目次

今帰仁城とはどんな城か

今帰仁城跡の丘の上を走る石垣と遠くの海

丘の稜線に沿って石垣が伸びていく。城のへりに立つと、その向こうに海が広がっているのがわかる。

城が築かれているのは本部半島の丘陵で、標高はおよそ百メートル。三方が急な斜面になっていて、残る一方から登っていくしかありません。その登り口を塞ぐように石垣と門が構えられているので、攻める側は狭い坂を押し上がるしかなくなります。囲われた範囲は広く、外郭・大隅・大庭・主郭といった区画が段をなして並び、全体の外周は一・五キロほど。沖縄のグスクのなかでも最大級です。ここまでの規模を築けたということは、北部一帯の人と物を動かせる力があったということでもある。城からは中国製の青磁や白磁が大量に出土していて、北山が独自に明と交易していたことがはっきりしています。グスク全体の成り立ちや石積みの種類については琉球のグスクをまとめた記事で扱っています。

百曲がり ― なぜまっすぐ積まなかったのか

今帰仁城跡の大きく湾曲した石垣

大きく弧を描いて伸びていく城壁。自然石をそのまま積み上げた野面積みで、上端はゆるやかに波打っている。

▽ よく語られる話

今帰仁城の石垣が何度も折れ曲がっているのは、攻め寄せた敵を側面から射るための工夫である。だから「百曲がり」と呼ばれる。

▼ 史実ではこうです

折れがあれば横から攻撃できる、という効果は確かにあります。本土の城でいう横矢掛かりと同じ理屈です。ただ、今帰仁城の曲線は人が図を引いて設計したというより、石灰岩の台地のへりをそのままなぞった結果という面が強い。岩盤の縁が入りくんでいれば、そこに石を積んだ壁も入りくみます。防御のために曲げたのか、曲がっている地形に積んだら結果として守りやすくなったのか。この二つは切り分けられず、どちらか一方だと言い切る材料はありません。

積み方そのものは、自然石をほとんど加工せずに重ねていく野面積みが主体です。あとの時代の中城城や座喜味城で見られる、四角く整えて横目地を通す布積みや、多角形に噛み合わせる相方積みとくらべると、今帰仁城の壁はずっと荒い。ところがその荒さが、かえって強さを生んでいます。石の形がばらばらなぶん噛み合いが複雑で、ひとつが動いてもまわりが支える。台風と豪雨をくり返し受けながら数百年もちこたえてきたのは、この積み方だからこそでした。

平郎門をくぐる

今帰仁城跡の平郎門と、その先に続く石段

平郎門(へいろうもん)。門の上には一枚の大きな石が渡されている。くぐった先は石段が奥へ、上へと続いていく。

城の正門にあたるのが平郎門です。写真のとおり、開口部の上に巨大な一枚岩を渡し、その上にまた石を積み上げている。琉球のグスクにはアーチ式の門も多いのですが、ここは梁を一本の石で受ける、より古い形です。門をくぐると道はすぐ石段になり、坂を上へ上へと導かれていきます。この上りきったところが大庭、さらにその奥が主郭。攻める側から見れば、狭い門を抜けた瞬間に、両側の高い石垣にはさまれた石段を登らされることになります。上から見下ろす側がどれだけ有利か、実際に立ってみるとすぐわかるはずです。

北山王とは何者だったのか

今帰仁城跡の石垣越しに見える海と砂州

城壁の上から北を望む。曲線の石垣の向こうに森が下り、その先に砂州と海が広がる。

十四世紀の沖縄本島は、北山・中山・南山という三つの勢力に分かれていました。それぞれが独立して明へ使者を送り、別々に冊封を受けている。つまり中国から見れば、この島には王が三人いたことになります。そのうち北部を押さえていたのが北山で、本拠がこの今帰仁城でした。北山の勢力範囲は本島北部にとどまらず、伊平屋・伊是名といった島々や、奄美の一部にまで及んでいたと考えられています。写真のように城から海がよく見えるのは偶然ではなく、北山にとって海路こそが力の源だったからです。その北山を滅ぼしたのが中山の尚巴志(しょうはし)でした。尚巴志はまず南山を退け、次いで北へ兵を向けます。最後の北山王・攀安知(はんあんち)は今帰仁城に籠もって戦いましたが、味方の裏切りもあって城は落ち、攀安知は自ら命を絶ったと伝えられます。こうして島は一つにまとまり、琉球王国が生まれました。吉野ヶ里遺跡の甕棺が語る弥生の争いと同じで、島の統一もまた、城が落ちるという形で決着したのです。

落城のあと ― 監守の時代と、薩摩の侵攻

今帰仁城跡の石垣を下から見上げた眺め

下から見上げた城壁。手前の壁の上に、さらにもう一段の石垣が重なっているのがわかる。

北山が滅びたあとも、今帰仁城は捨てられませんでした。王府は北部を治めるために監守(かんしゅ)を置き、王族がこの城に入って一帯を統治します。つまり城としての役目はそのまま続いたわけです。その終わりが来たのは慶長十四年でした。薩摩の島津氏が兵を送って琉球へ攻め入り、まず北部の今帰仁城を襲います。城は火をかけられて焼け、そのまま城郭としての機能を失いました。そして薩摩勢はそのまま南下し、首里城の尚氏も降伏します。以後の琉球は薩摩の支配を受けながら中国への朝貢も続けるという、両属の立場に置かれました。侵攻を命じた島津氏の本城だった内城の側から見れば、これは家中をまとめるための大事業でしたが、攻められた側にとっては二百年近く続いた王国の独立が終わった瞬間でした。

戦いの城から、祈りの場へ

城郭としての役目を終えたあと、今帰仁城が忘れられたかというと、まったくそうではありませんでした。城内には御嶽(うたき)と呼ばれる祈りの場がいくつもあり、落城後もそこへ人が通い続けたからです。石垣の内側に残る拝所には、いまも折々に供え物がされ、祭祀が営まれています。これは今帰仁だけの話ではなく、琉球のグスクに共通する性格です。本土の城なら、落ちて使われなくなれば石垣は畑の石垣に転用され、堀は埋められて宅地になっていく。玄蕃尾城のように山の中でそのまま残った城が例外扱いされるのは、そういう事情があるからです。ところが今帰仁城の石垣は、崩されるどころか手をつけてはいけない場所として守られ続けました。グスクを訪ねるときに、ここが観光地であると同時に生きた信仰の場でもあることを頭に入れておくと、見え方がずいぶん変わってきます。

世界遺産と日本100名城

今帰仁城跡に立つ世界遺産の石碑

城跡の入口に立つ石碑。「世界遺産 琉球王国のグスク及び関連遺産群 今帰仁城跡」と刻まれている。

今帰仁城跡は、座喜味城跡・勝連城跡・中城城跡・首里城跡などとともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界文化遺産に登録されています。写真の石碑には、その長い登録名がそのまま刻まれている。日本100名城では九十八番に選ばれていて、九十九番の中城城、百番の首里城とあわせ、番号の最後の三つを沖縄のグスクが占めています。天守もなければ櫓もなく、残っているのは石垣と礎石だけ。それでも百名城の掉尾を飾っているのは、この石垣が本土のどの城とも違う系統の技術で積まれているからです。日本100名城の一覧を通して眺めると、城という言葉がどれほど幅の広い概念かがよくわかります。

訪ね方と見どころ

所在地は沖縄県国頭郡今帰仁村今泊5101。那覇からは車でおよそ二時間、美ら海水族館からなら十五分ほどの距離なので、本部半島をまわる日の行程に組みこみやすい場所です。入口には今帰仁村歴史文化センターがあり、出土品や城の解説はここで見られます。順路は平郎門から石段を登り、大庭から主郭へ。主郭の先にある志慶真門郭(しげまじょうかく)まで下りると、建物跡の礎石が並んでいるのが見られます。歩く距離はそれなりにあるので、歩きやすい靴で行ってください。もう一つ知っておくと得なのが、ここが日本でいちばん早い桜の名所だということ。寒緋桜(かんひざくら)が一月下旬から二月にかけて咲き、石垣に沿って濃いピンクの帯ができます。本土の桜の季節より二か月ちかく早い。沖縄をふくむ九州・沖縄のお城と城跡の一覧もあわせてどうぞ。

今帰仁城跡・場所とアクセス

〒905-0428 沖縄県国頭郡今帰仁村今泊5101

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