福井県敦賀市と滋賀県長浜市の県境、標高四百メートルほどの尾根の上に玄蕃尾城——別名内中尾山城がある。
この城には、他の山城にない特徴がひとつある。戦国の陣城が、決戦当時の姿のまま残っているということだ。
理由は単純で、使った人が二度と戻ってこなかったからである。
【柴田勝家が本陣を置いた城】
天正十一年(1583)三月。賤ヶ岳の戦いにあたり、柴田勝家はこの城に本陣を置いた。
越前から近江へ抜ける刀根越を押さえる位置にある。北陸から出てきた勝家にとって、ここは補給路の喉元であり、同時に前線でもあった。
築城時期には二説ある。本能寺の変のあと、秀吉との対決に備えて勝家が築いたとする説と、天正六年(1578)頃に越前衆を動員して築かれていたとする説である。いずれにせよ、賤ヶ岳の時点で完成した姿にあったことは間違いない。
【技巧をこらした縄張】
この城の見どころは、天守でも石垣でもない。土でつくられた縄張そのものである。
南北に並んだ四つの主要な郭を、土橋で連結する。全体を土塁と空堀の多重防御で囲む。主郭には馬出郭が二つ、張出郭が一つ備わる。そして刀根越から攻め上がってくる敵に備えて、食い違いや折れを設けた虎口郭が二つ、直列している。
言葉にすると細かいが、現地に立つとよくわかる。まっすぐ本丸へ入れる道が、どこにもない。登っては折れ、折れては下がり、そのたびに横から狙われる位置を通らされる。
石を積まず、土を削り、盛り、掘る。東国の土の城の技術が、北陸の武将の手で最高度に組み上げられた例と言っていい。
【なぜ、これほど残っているのか】
山城の遺構は、たいてい壊れている。江戸時代に廃城となって畑になり、近代に道路が通り、戦後に開発される。
玄蕃尾城は、そのどれも受けなかった。
勝家がここから撤退し、そして北ノ庄で自刃したあと、この城を使う者がいなかったからである。戦いが終わった時点で、城の役目も終わった。誰も手を入れず、誰も壊さず、山に還るまま四百年が過ぎた。
その結果、土塁も堀切も虎口も、当時の形をとどめている。平成十一年(1999)七月十三日、国の史跡に指定された。
負けた側の城だから残った——というのは皮肉だが、事実である。勝った城は使われ続けて改造され、負けた城は放置されて原形をとどめる。一乗谷城の城下町が焼かれたまま埋もれて残ったのと、構造は同じだ。
【勝家はここで何を待っていたのか】
賤ヶ岳の戦いで、勝家はこの城から動かなかった。動いたのは甥の佐久間盛政である。
盛政は大岩山砦を急襲して中川清秀を討ち取ったが、勝家の帰陣の督促に応じず戦場に留まった。そこへ秀吉が美濃から引き返してくる。柴田軍は崩れ、勝家は越前へ退いた。
本陣に構えていた城は堅固だった。それでも負けた。城の強さが戦の勝敗を決めるとはかぎらないという、身も蓋もない事実がここにある。
勝家は北ノ庄城へ戻り、お市とともに自刃した。玄蕃尾城が本陣であった期間は、わずか一か月ほどである。
【訪ねるときに】
玄蕃尾城は続日本100名城(140番)に選ばれている。
駐車場から本丸まで徒歩およそ三十分の山道である。整備はされているが山城であることに変わりはないので、歩きやすい靴で訪ねたい。冬季は積雪で近づけない時期がある。
着いてまず見てほしいのは虎口である。攻める側の視点で、どの角度から矢が飛んでくるかを考えながら歩くと、この縄張を設計した人間の意図がそのまま伝わってくる。
【玄蕃尾城ゆかりの城】
- 北ノ庄城(福井県福井市)… 勝家が退き、お市とともに最期を迎えた城
- 長浜城(滋賀県長浜市)… 秀吉が初めて城主となった城。賤ヶ岳はこの近く
- 小谷城(滋賀県長浜市)… お市が浅井長政と暮らした城
- 金沢城(石川県金沢市)… 佐久間盛政が城主を務め、のちに前田家の居城となった
- 一乗谷城(福井県福井市)… 同じく「使われなくなったから残った」越前の遺跡
この城で何が決まったのかは佐久間盛政はなぜ退かなかったのかと柴田勝家とはでも詳しく書いています。
【この城に関わった武将】
※ 人物の詳細は姉妹サイト「日本の武将ガイド」に掲載しています。
【アクセス】
〒914-0145 福井県敦賀市刀根(滋賀県長浜市余呉町柳ヶ瀬との県境)
北陸自動車道「木之本IC」から車。林道終点の駐車場から本丸まで徒歩約30分。公共交通機関では訪ねにくいため、車での登城が現実的です。積雪期は通行できないことがあります。
