福島県相馬市。ここに、戦国時代を最後まで独力で戦い抜き、そして生き残った家の城がある。相馬中村城跡である。
この城が完成したのは慶長十六年(1611)。関ヶ原の戦いから十一年後、戦国はとうに終わっている。それなのにこの城は、石垣をほとんど積まず、土塁と堀だけで守りを固めている。しかもその守りは、北を向いている。北にいるのは伊達政宗だ。

大手一の門。両脇の社号標は「縣社 中村神社」「縣社 相馬神社」と刻まれている
【相馬氏──下総から陸奥へ、七百年動かなかった家】
相馬氏の祖は相馬師常。千葉常胤の次男で、下総国相馬郡(現在の茨城県南部から千葉県北部)を名字の地とした。平将門の子孫を称する家でもある。
鎌倉時代、相馬氏は陸奥国行方郡(現在の南相馬市周辺)へ移った。以後、明治にいたるまで約七百年、この家はこの土地から動いていない。戦国大名の多くが滅び、あるいは遠国へ移されたことを思えば、これは異例である。
戦国期の本城は小高城だった。中村城のほうは、大永年間(1521〜28)に在地の中村氏が築いたものを相馬氏が押さえ、永禄六年(1563)に一族の相馬隆胤が入っている。つまり中村城は、戦国のあいだは支城──それも、伊達に対する最前線の支城だった。

本丸を囲む水堀。石を積まず、土をそのまま削り出した斜面が続く
【伊達との、二代にわたる戦い】
相馬と伊達の因縁は深い。相馬顕胤の正室は伊達稙宗の娘で、天文十一年(1542)に伊達家が父子で割れた天文の乱では、顕胤は舅の稙宗方についた。この乱で稙宗が敗れると、相馬は伊達宗家と真正面から対立する側に回る。
以後、盛胤・義胤の二代は、輝宗・政宗の二代と戦い続けた。米沢城で生まれた政宗にとって、相馬は南奥州平定の最後の障害のひとつだったのである。
天正十七年(1589)、政宗が摺上原で蘆名氏を滅ぼすと、相馬は完全に孤立した。常識的にはここで終わっていた家である。それを救ったのは戦ではなく、翌年の小田原参陣だった。豊臣秀吉のもとへ自ら出向いたことで、相馬は所領を安堵される。

中村城跡の縄張図。案内板は「北の伊達氏に備えるため、北方に守り堅い名城」と説明する
【関ヶ原のあと、家は一度消えた】
だが試練はもう一度来る。慶長五年(1600)の関ヶ原で去就をはっきりさせなかった相馬は、慶長七年(1602)、いったん改易された。四百年以上守ってきた所領が、書類一枚で消えたことになる。
この改易は、まもなく取り消される。相馬は本領を回復し、嫡子・利胤が初代藩主として中村藩六万石を立てた。
ここで思い出したいのが、同じころ常陸で同じ立場に置かれた佐竹氏である。佐竹は太田城から水戸城へ本拠を移した直後、関ヶ原の去就を咎められて秋田へ移された。相馬は残り、佐竹は去った。戦国を勝ち抜く力よりも、そのあとを渡り切る判断と運が、家の行方を分けた。
【五か月で築いた城】
本領を回復した相馬氏が新しい本拠に選んだのが、中村城だった。案内板はこう記す。
慶長十六年(一六一一)七月、相馬利胤が木幡勘解由長清を責任者として築城に着手し、十一月に完成、十二月二日小高城よりここに移った。
着工から完成まで、わずか五か月。異様な速さである。相馬氏が本拠を北へ移したのは、藩領の北端に近い中村が仙台藩との境に最も近かったからだ。政宗はまだ生きている。戦国は終わっても、隣は伊達だった。

内堀を渡って本丸へ入る。橋の位置も幅も、築城当時の考え方をそのまま残している
【石垣を積まなかった理由】
この城の最大の特徴は、近世の城でありながら石垣がほとんどないことだ。縄張図の解説も「石垣が少なく土塁を巡らし多くの堀に囲まれているのも特徴」と明記する。
六万石という規模では、総石垣の城は財政的に無理がある。同時に、幾重にも堀と土塁を巡らせるこの構えは、東国の中世城郭の技術をそのまま近世に持ち込んだものでもある。豪華ではないが、実際に守るための城だった。

本丸及び天守閣跡の案内板
【五十九年で消えた天守】
築城時、本丸南西隅には三重の天守が建った。ところが寛文十年(1670)、落雷で焼失し、以後ついに再建されなかった。
再建しなかったのは、費用の問題だけではないだろう。この時代、天守はすでに戦うための施設ではなくなっていた。焼けたものをそのままにしておけるほど、世の中は静かになっていたのである。天守を持たない期間のほうが、この城にとってはるかに長い。

本丸跡に鎮座する相馬神社。祭神は相馬氏の祖・相馬師常
【本丸に、七百年前の祖先が祀られた】
明治十三年、廃城となった本丸の中央に相馬神社が創建された。祭神は相馬師常──鎌倉時代に下総から陸奥へこの家を導いた、七百年前の祖である。
家が大名でなくなったあとに、家の始まりの人を神として祀る。城が神社になった例は各地にあるが、ここまで筋の通った祀り方は多くない。

城跡に建つ二宮尊徳像。相馬藩は天保の飢饉のあと、二宮仕法による復興に取り組んだ
【飢饉のあとの相馬藩】
本丸の一角に二宮尊徳の座像が建つ。相馬藩は天保の飢饉で大きな打撃を受け、その復興に二宮仕法を導入した藩として知られる。荒れた村を数値で把握し、計画的に立て直していく方法である。
戦国を戦い抜いた家が、幕末には土地の疲弊と向き合っていた。城の性格が変わったのと同じだけ、藩の仕事も変わっていたことになる。


左から、本丸へ向かう参道と土塁/相馬神社の社号標/福島県指定史跡「中村城跡」の案内板
【相馬氏ゆかりの城】
- 小高城(福島県南相馬市)… 中村城へ移るまで相馬氏の本城だった城
- 米沢城(山形県米沢市)… 相馬が二代にわたって戦った伊達政宗の生誕の城
- 白石城(宮城県白石市)… 仙台藩の南の要。相馬領との境を押さえた城
- 水戸城(茨城県水戸市)… 関ヶ原の去就を咎められ、秋田へ移された佐竹氏の城
- 棚倉城(福島県東白川郡棚倉町)… 同じ陸奥南部に築かれた近世の平城
相馬氏と将門伝承、そして今に続く神事については相馬野馬追の記事でも触れている。
【アクセス】
〒976-0042 福島県相馬市中村字北町140(相馬神社)
JR常磐線「相馬駅」から徒歩約20分。城跡は馬陵公園として整備され、桜の名所としても知られる。

