【福井城とは】
福井県福井市大手にある福井城は、慶長六年から十一年(1601〜06)にかけて、徳川家康の次男・結城秀康が築いた平城である。柴田勝家の北ノ庄城があった地を大きく造り替えたもので、本丸の北西隅には高さ約三十メートルの天守がそびえていた。いま本丸跡には福井県庁と県警本部が建つが、周囲の内堀と石垣は往時のままの姿をとどめており、県庁を囲む堀の風景は全国でもここだけの眺めである。

御本城橋のたもとに立つ「福井城址」の碑。背後の石垣と堀は築城当時のまま
【北ノ庄から福井へ — 結城秀康の越前六十八万石】
この地にはもともと、織田信長の筆頭家老・柴田勝家が築いた北ノ庄城があった。天正十一年(1583)の賤ヶ岳の敗戦により、勝家はお市の方とともに城を枕に果てる。その跡地に新しい時代の城を築いたのが結城秀康だった。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いののち、越前六十八万石の大名となった秀康は、翌六年に北ノ庄へ入り、新しい城の建設と、勝家にはじまる城下町の大改造に着手する。多くの民の力と汗に支えられ、およそ六年の歳月をかけて完成した城と城下町は、都市としての福井の原形をかたちづくり、今日の福井市の礎となった。家康の次男でありながら豊臣秀吉の養子となり、さらに結城家を継いだという数奇な経歴の人物が、この町の骨格をつくったことになる。

本丸跡に立つ結城秀康公の騎馬像。徳川家康の次男にして、越前六十八万石の初代藩主

像のかたわらの碑文。「多くの民の力と汗に支えられ」という一節が、六年がかりの築城を物語る
【高さ三十メートルの天守と本丸の構え】
秀康が築いた福井城の姿は、現在の案内板に復元図として描かれている。藩の権威を象徴していたのが本丸北西隅の天守で、高さ約三十メートルという壮大な建物だった。中央には藩政において最も重要な本丸御殿があり、北東・南東・南西の各隅には三つの櫓が立っていた。
南側の御本城橋が本丸への正式な通路で、この橋を渡ると本丸の正門である瓦御門があった。西側には屋根付きの御廊下橋がかかっていた。現在の御廊下橋は平成二十年(2008)に史料に基づいて再建されたもので、平成三十年(2018)にはその先の山里口御門も、明治時代の古写真や史料をもとに復元されている。

「福井城址のご案内」。中央が本丸復元図で、寛文九年(1669)の焼失以前の姿を描いている

本丸の石段。笏谷石を積み上げた石垣が、雨に濡れて青みを帯びる

平成三十年に復元された山里口御門まわりの石垣と堀
【「福の井」— 福井という名のはじまり】
天守台に残る井戸「福の井」は、慶長六年(1601)の築城当時からあったと考えられている。安永四年(1775)の「御城下絵図」の天守台には「福井」と記された井戸が描かれており、この頃には城の特別な井戸として知られていたことがうかがえる。
福井藩の正史『越前世譜』には「北庄を福井と御改候事(天守之傍ニ福井と云名井有、其名ニ依而被改之)」とあり、この名井が福井という地名の由来になったという説が生まれた。ただし実際のところは、寛永元年(1624)に三代藩主・松平忠昌が「北ノ庄」の名は敗北につながるとして「福居」と改め、それが一七〇〇年頃に「福井」となったと考えられている。とはいえ、井戸の名が町の名になったという言い伝えのほうが、はるかに人の心に残る。

天守台に立つ「天守閣跡と福の井」の碑

「福の井」の案内板。井戸の由来と、震災を経た再整備の経緯が記されている
【福井地震と、いまの城跡】
秀康時代の建物は寛文九年(1669)の火災で焼け落ちた。天守も再建されることはなく、以後の福井城は御殿を中心とした城として幕末を迎える。
さらに近代、昭和二十三年(1948)の福井地震では本丸の石垣がいたる所で崩れた。「福の井」は崩壊こそしなかったものの井戸の形が大きく歪み、震災後に井戸枠が作り変えられている。かつての姿をしのべるよう、井戸の石積みと井戸枠を地震前の大きさに復元整備する工事が行われ、平成二十九年(2017)三月に完成した。現在の「福の井」は口径約一・六メートル、深さ約五・一メートル、水深約二・一メートルである。石積みには、割れて使えないものを除き、昔のままの石が使われている。

天守台の隅。福井地震で崩れ落ちた石も、そのまま残されている
本丸跡に県庁が建っていることを惜しむ声もあるが、堀と石垣がこれほど良い状態で市街の中心に残っているのは、むしろ稀なことでもある。堀端を一周すれば、六十八万石の城の大きさが足で分かる。

内堀と石垣。堀の幅が、この城の格をそのまま伝えている
【福井城・場所・アクセス】
〒910-0005 福井県福井市大手三丁目
【福井城地図】
