【棚倉城とは】
棚倉城は、二代将軍・徳川秀忠の命によって築かれた奥州の抑えの城である。築いたのは丹羽長重。安土城の普請総奉行を務めた丹羽長秀の子にあたる。
寛永二年(1625)の着工から、慶応四年(1868)の戊辰戦争で落城するまで、およそ二百五十年。その間に城主は十六代を数えた。昭和二十三年七月に県立公園へ編入され、現在は城跡公園として整備されている。

本丸へ上がる石段脇に立つ石碑(福島県東白川郡棚倉町)
【神社を移して、城を建てた】
現地の案内板は、築城の経緯を具体的に書いている。
秀忠の命を受けた長重は案を練り、この地にあった近津神社の神境を最適地とした。そして宮を現在の馬場都々古和気神社へ移し、寛永二年にこの地で築城をはじめた——と。

「棚倉城跡」の案内板。棚倉城之図に本丸・二の丸・三の丸・林曲輪と内濠・外濠が描かれている
神社の境内を城地に選び、神社のほうを動かす。近世城郭の立地選定としては珍しくない判断だが、それをはっきり書き残している案内板は多くない。城を建てるとは、そこにあったものをどかすことでもある。
添えられた「棚倉城之図」を見ると、本丸を内濠が四角く囲み、その外に二の丸・三の丸・林曲輪が広がり、さらに外濠が巡っている。追手門、追手橋形門、櫓門、隅櫓、北門、南門、埋門、番所。土塁と石垣も描き分けられていて、平城としてよく整った縄張りだったことが分かる。

本丸跡。周囲をぐるりと土塁が囲み、その外に水堀が巡る
【城主が十六代替わった城】
長重が棚倉にいた期間は短い。寛永四年(1627)、長重は白河へ移された。代わって内藤豊前守信照が城主となる。案内板は信照が「滋賀県近江山城より」入ったと記している。
以後、幕末の阿部美作守正静に至るまで、棚倉の城主は十六代を数えた。二百五十年で十六代というのは、平均すると十五年ほどで交代している計算になる。
これは大田原城の大田原氏が三百二十六年動かなかったのとは正反対である。大田原氏は戦国以来の在地領主で、この土地の人だった。棚倉は違う。幕府が奥州街道を押さえるために置いた城であり、そこに座る大名は幕府の都合で入れ替わる。壬生城の城主が頻繁に替わったのと同じ構造が、奥州側でも働いていた。

本丸を巡る水堀。秋には対岸の木々が水面に映る
【六百年立っている木】
この城跡で一番心に残るのは、実は建物でも堀でもない。大ケヤキである。

福島県指定天然記念物「棚倉城跡の大ケヤキ」の案内板(昭和五十一年五月四日指定)
案内板によれば、この大ケヤキは移された近津明神のご神木であり、形が優れていたために残されたと伝えられる。
数字が挙がっている。樹齢は約六百年、根回りは十二メートル、二個の瘤のある周囲は九・五メートル、樹高は三十二・三メートル。
樹齢六百年ということは、寛永二年の築城の時点ですでに二百年以上そこに立っていたことになる。城が建つ前から立っていて、城主が十六代替わるのを見て、戊辰の兵火をくぐり、いまも立っている。棚倉町はこれを「先人が育んで来た歴史の生き証人」と呼び、樹木の保護と生育環境の保全に努めているという。
神社は移された。城は落ちた。木だけが動かなかった。
【一日で落ちた城】
棚倉城が実戦を経験したのは、二百五十年でただ一度である。
慶応四年(1868)、戊辰戦争。当時の城主・阿部正静は奥羽越列藩同盟の側にあり、六月二十四日、城は兵火にかかって落城した。新政府軍の攻撃を受けてから、ほぼ一日での陥落だったと伝えられる。
秀忠が奥州の抑えとして築かせた城が、二百四十年後、その奥州を攻める軍の前に一日で崩れた。会津若松城が一か月の籠城に耐え、二本松城で少年兵が散ったのと比べると、あまりに短い。
平城の限界という説明もできるが、それだけではないだろう。幕府が置いた城の城主は十五年ごとに替わり、土地との結びつきは薄い。三百年動かなかった大田原氏の城が新政府方として持ちこたえたことを思えば、城の強さは石垣や堀の寸法だけで決まるものではなかったのかもしれない。
【棚倉城・場所・アクセス】
〒963-6131 福島県東白川郡棚倉町棚倉字城跡
JR水郡線「磐城棚倉駅」から徒歩約10分。東北自動車道 白河インターから車で約30分。城跡公園として開放され、駐車場がある。
見どころは本丸を囲む土塁と水堀、そして大ケヤキ。春は堀端の桜、秋は紅葉が水面に映る。城之図の案内板で曲輪の配置を頭に入れてから本丸を一周すると、失われた門や櫓の位置が想像できる。
【棚倉城ゆかりの城】
