蟹江城(愛知県海部郡蟹江町)は、いま住宅地のなかに石碑と井戸跡が残るだけの城跡である。それでも天正十二年の夏、ここは徳川家康と豊臣秀吉の戦いで最も重い一か所になった。海から尾張へ手を入れるか、入れられないか—それがこの城で決まった。
海に近い平城だった
蟹江城は永享年間に北条時任が築いたと伝わる中世の平城で、本丸・二ノ丸・三ノ丸を持ち、大野・下市場・前田という三つの支城を従えていた。いまの地形からは想像しにくいが、当時この一帯は伊勢湾の入り江が深く入りこんでおり、城のすぐ近くまで船が来た。
尾張は西から攻めると、まずここに当たる。陸路で清須へ向かうより、海から蟹江へ入るほうが早い。この立地が、のちの合戦の意味を決めることになる。
滝川一益が築き直した城
戦国期の蟹江は織田氏と対立する側にあり、長島城の服部友貞と結んでいた。これを変えたのが滝川一益である。永禄十年ごろ、寂れていた蟹江城を織田家の拠点として築き直し、北伊勢への進攻や長島一向一揆の鎮圧をここから進めた。服部友貞は追われ、長島城も一益のものになる。
つまり一益にとって蟹江は、自分が手を入れて作り直した城だった。十数年後、彼が海からこの城を狙ったのは偶然ではない。勝手を知っている城だったのである。
ただし一益は賤ヶ岳のあと秀吉に敗れて失脚し、蟹江城は織田信雄の家臣が預かることになっていた。
天正十二年、海から入った
小牧・長久手の戦いが膠着していた夏、一益は九鬼嘉隆の水軍とともに海から蟹江へ向かった。そして城を守っていた城代を内応させ、戦わずに城へ入っている。支城のいくつかも同時に手に落ちた。
これは大きい。蟹江が秀吉方のものになれば、家康が小牧に張りつけている戦線の後ろ側に、海からいくらでも兵を送りこめる。家康は前と後ろから挟まれることになる。
家康はなぜ即座に動けたのか
報せを受けた家康は、驚くほど早く清須を発っている。信雄も加わった。長久手で勝ったあと、両軍は小牧のあたりでにらみ合ったまま動けずにいた。その膠着が、逆に家康を自由にしていた—前線が動かないぶん、兵を割いて後ろへ回せたのである。
この時期の戦線がなぜ止まっていたのかは第34〜35回の史実解説に、長久手で何が起きたのかは池田恒興の「中入り」の記事にまとめている。
半月の籠城と、一益の降伏
家康と信雄は蟹江城を囲み、支城を順に落としていった。海からの補給も九鬼水軍が押し返され、一益は孤立する。籠城の期間は記録によって半月とも一か月ほどとも伝わるが、いずれにせよ長くは持たなかった。一益は城を開いて降伏する。
この敗戦は一益の生涯を終わらせた。彼はこのあと出家し、二度と表舞台に戻っていない。自分が築き直した城を自分で奪い、そこで終わったことになる。
長久手より、この戦いが戦局を決めた
小牧・長久手の戦いは、長久手の局地戦で家康が勝ったことばかり語られる。だがその後も両軍は半年以上にらみ合っており、長久手だけでは何も決まっていない。
決めたのは蟹江である。秀吉方は陸で動かないなら海から、という最後の手を打って失敗した。これで尾張へ力ずくで入る道は塞がった。だから秀吉は方針を変え、家康ではなく織田信雄と単独で講和する。家康が戦う名目そのものを消す手である。小牧・長久手はどっちが勝ったのかという問いの答えは、この順番で見ると分かりやすい。
城が消えた日
合戦の翌年、蟹江城は地震で壊滅した。天正十三年の天正大地震である。この地震は飛騨の帰雲城を山ごと埋め、各地の城を倒した。蟹江のような低湿地の平城は、揺れと液状化にとりわけ弱い。
戦いで落ちた城が、翌年に地面ごと失われた。再建されることもなかった。

蟹江城跡(愛知県蟹江町)に立つ石碑と説明板。板には「天正十二年 蟹江合戦で落城」とあり、ここが本丸跡と伝えられている。周囲はすっかり住宅地である
現地はいま
城跡は住宅地のただなかで、遺構らしい遺構は残っていない。目印は「蟹江城趾」の石碑と、本丸跡と伝わる井戸跡である。道の折れ方や区画に、かろうじて城の輪郭が読み取れる程度だと思ったほうがいい。
それでも、ここに立って伊勢湾の方角を見ると、なぜこの場所が狙われたのかは分かる。平らで、海が近い。守りにくく、しかし押さえれば尾張の裏口になる。
【蟹江城・場所・アクセス】
〒497-0040 愛知県蟹江町城1
よくある疑問
Q. 蟹江城の戦いはいつですか。
天正十二年(小牧・長久手の戦いと同じ年)の夏です。六月に滝川一益が城を奪い、七月には家康・信雄に囲まれて開城しています。
Q. なぜ一益は海から来たのですか。
陸の戦線が小牧で膠着していたからです。また一益は永禄年間にこの城を築き直した本人で、地の利を知っていました。
Q. 遺構は残っていますか。
石碑と井戸跡のみです。城そのものは合戦の翌年、天正地震で壊滅しました。
Q. 長久手の戦いとどちらが重要ですか。
知名度は長久手ですが、戦局を動かしたのは蟹江です。長久手のあとも戦線は動かず、蟹江の失敗で秀吉が講和へ舵を切りました。
蟹江城は天正13年の天正地震で壊滅しました(天正地震で壊れた城一覧)。
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まとめ
蟹江城は、海から尾張へ入る喉元に置かれた平城である。滝川一益が築き直し、十数年後に自ら海から奪い、そして囲まれて失った。この半月ほどの攻防で、秀吉が尾張を力ずくで取る道は閉じている。翌年には地震で城そのものが消え、いまは住宅地の石碑だけが残る。小牧・長久手の戦いを決めた場所は、長久手ではなくここだったと言っていい。
滝川一益のイラストと人物データは、姉妹サイト「日本の武将ガイド」でご覧いただけます。
