蟹江城跡:小牧・長久手を決めたのは長久手ではない ― 海から奪われ、半月で取り返された城

蟹江城:小牧長久手の戦いでは激戦地 織田家重臣滝川一益が築城した蟹江城
この記事のポイント
  • 蟹江城は伊勢湾に近い平城で、海から尾張へ入る喉元にあたる
  • 小牧・長久手の戦いの最中、秀吉方の滝川一益が海から奪い取った
  • 家康と織田信雄に囲まれ、一益は半月ほどで開城して降伏した
  • 長久手の局地戦より、この蟹江の攻防のほうが戦局を決めている

蟹江城(愛知県海部郡蟹江町)は、いま住宅地のなかに石碑と井戸跡が残るだけの城跡である。それでも天正十二年の夏、ここは徳川家康と豊臣秀吉の戦いで最も重い一か所になった。海から尾張へ手を入れるか、入れられないか—それがこの城で決まった。

▽ よく語られる話
小牧・長久手の戦いは、長久手での局地戦で家康が勝ち、そのまま終わった。
▼ 史実ではこうです
長久手のあと戦線は動かなくなり、秀吉は別の入口を探した。それが海から尾張へ入る蟹江である。ここを取られれば家康の後ろが崩れた。実際に一度は取られ、そして取り返された。この失敗で尾張を力ずくで取る道が閉じ、秀吉は織田信雄と単独で講和する方向へ舵を切る。戦局を動かしたのは長久手ではなく、この城だった。

蟹江城が消えるまで年出来事永享年間北条時任が築いたと伝わる弘治元年松平広忠に攻められる永禄十年滝川一益が城を築き直し、伊勢への拠点とする天正十一年一益が失脚し、織田信雄の家臣が城主となる天正十二年 六月一益が海から入り、城を奪う同年 七月家康・信雄に囲まれ、一益は開城して降伏天正十三年天正地震で城そのものが壊滅する

目次

海に近い平城だった

蟹江城は永享年間に北条時任が築いたと伝わる中世の平城で、本丸・二ノ丸・三ノ丸を持ち、大野・下市場・前田という三つの支城を従えていた。いまの地形からは想像しにくいが、当時この一帯は伊勢湾の入り江が深く入りこんでおり、城のすぐ近くまで船が来た。

尾張は西から攻めると、まずここに当たる。陸路で清須へ向かうより、海から蟹江へ入るほうが早い。この立地が、のちの合戦の意味を決めることになる。

滝川一益が築き直した城

戦国期の蟹江は織田氏と対立する側にあり、長島城の服部友貞と結んでいた。これを変えたのが滝川一益である。永禄十年ごろ、寂れていた蟹江城を織田家の拠点として築き直し、北伊勢への進攻や長島一向一揆の鎮圧をここから進めた。服部友貞は追われ、長島城も一益のものになる。

つまり一益にとって蟹江は、自分が手を入れて作り直した城だった。十数年後、彼が海からこの城を狙ったのは偶然ではない。勝手を知っている城だったのである。

ただし一益は賤ヶ岳のあと秀吉に敗れて失脚し、蟹江城は織田信雄の家臣が預かることになっていた。

天正十二年、海から入った

小牧・長久手の戦いが膠着していた夏、一益は九鬼嘉隆の水軍とともに海から蟹江へ向かった。そして城を守っていた城代を内応させ、戦わずに城へ入っている。支城のいくつかも同時に手に落ちた。

これは大きい。蟹江が秀吉方のものになれば、家康が小牧に張りつけている戦線の後ろ側に、海からいくらでも兵を送りこめる。家康は前と後ろから挟まれることになる。

家康はなぜ即座に動けたのか

報せを受けた家康は、驚くほど早く清須を発っている。信雄も加わった。長久手で勝ったあと、両軍は小牧のあたりでにらみ合ったまま動けずにいた。その膠着が、逆に家康を自由にしていた—前線が動かないぶん、兵を割いて後ろへ回せたのである。

この時期の戦線がなぜ止まっていたのかは第34〜35回の史実解説に、長久手で何が起きたのかは池田恒興の「中入り」の記事にまとめている。

半月の籠城と、一益の降伏

家康と信雄は蟹江城を囲み、支城を順に落としていった。海からの補給も九鬼水軍が押し返され、一益は孤立する。籠城の期間は記録によって半月とも一か月ほどとも伝わるが、いずれにせよ長くは持たなかった。一益は城を開いて降伏する。

この敗戦は一益の生涯を終わらせた。彼はこのあと出家し、二度と表舞台に戻っていない。自分が築き直した城を自分で奪い、そこで終わったことになる。

長久手より、この戦いが戦局を決めた

小牧・長久手の戦いは、長久手の局地戦で家康が勝ったことばかり語られる。だがその後も両軍は半年以上にらみ合っており、長久手だけでは何も決まっていない。

決めたのは蟹江である。秀吉方は陸で動かないなら海から、という最後の手を打って失敗した。これで尾張へ力ずくで入る道は塞がった。だから秀吉は方針を変え、家康ではなく織田信雄と単独で講和する。家康が戦う名目そのものを消す手である。小牧・長久手はどっちが勝ったのかという問いの答えは、この順番で見ると分かりやすい。

城が消えた日

合戦の翌年、蟹江城は地震で壊滅した。天正十三年の天正大地震である。この地震は飛騨の帰雲城を山ごと埋め、各地の城を倒した。蟹江のような低湿地の平城は、揺れと液状化にとりわけ弱い。

戦いで落ちた城が、翌年に地面ごと失われた。再建されることもなかった。

蟹江城趾の石碑と、本丸跡を伝える説明板

蟹江城跡(愛知県蟹江町)に立つ石碑と説明板。板には「天正十二年 蟹江合戦で落城」とあり、ここが本丸跡と伝えられている。周囲はすっかり住宅地である

現地はいま

城跡は住宅地のただなかで、遺構らしい遺構は残っていない。目印は「蟹江城趾」の石碑と、本丸跡と伝わる井戸跡である。道の折れ方や区画に、かろうじて城の輪郭が読み取れる程度だと思ったほうがいい。

それでも、ここに立って伊勢湾の方角を見ると、なぜこの場所が狙われたのかは分かる。平らで、海が近い。守りにくく、しかし押さえれば尾張の裏口になる。

【蟹江城・場所・アクセス】
〒497-0040 愛知県蟹江町城1

よくある疑問

Q. 蟹江城の戦いはいつですか。
天正十二年(小牧・長久手の戦いと同じ年)の夏です。六月に滝川一益が城を奪い、七月には家康・信雄に囲まれて開城しています。

Q. なぜ一益は海から来たのですか。
陸の戦線が小牧で膠着していたからです。また一益は永禄年間にこの城を築き直した本人で、地の利を知っていました。

Q. 遺構は残っていますか。
石碑と井戸跡のみです。城そのものは合戦の翌年、天正地震で壊滅しました。

Q. 長久手の戦いとどちらが重要ですか。
知名度は長久手ですが、戦局を動かしたのは蟹江です。長久手のあとも戦線は動かず、蟹江の失敗で秀吉が講和へ舵を切りました。

あわせて読みたい:家康は引き分けたのに、なぜ長宗我部と島津は秀吉に敗れたのか(小牧・長久手、四国攻め、九州攻めを比べた記事です)

まとめ

蟹江城は、海から尾張へ入る喉元に置かれた平城である。滝川一益が築き直し、十数年後に自ら海から奪い、そして囲まれて失った。この半月ほどの攻防で、秀吉が尾張を力ずくで取る道は閉じている。翌年には地震で城そのものが消え、いまは住宅地の石碑だけが残る。小牧・長久手の戦いを決めた場所は、長久手ではなくここだったと言っていい。

滝川一益のイラストと人物データは、姉妹サイト「日本の武将ガイド」でご覧いただけます。

小牧・長久手の戦いの全体像はこちら:豊臣兄弟!第34〜35回 史実解説

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