池田恒興の「中入り」はなぜ失敗したのか:奇襲は成功したあとが本番だった

岩崎城/アクセス・場所・地図 小牧・長久手の戦いで徳川方として奮戦した丹羽氏次の居城 岩崎城
この記事のポイント

  • 「中入り」とは、にらみ合いの裏をかいて敵の本国を突く作戦のこと
  • 池田恒興が献策し、秀吉が許可した。狙いは家康の本拠・三河だった
  • 失敗の原因は兵力が大きすぎ、進軍が遅すぎたことである
  • 一年前の賤ヶ岳で、佐久間盛政がまったく同じ型で負けている
大河ドラマ「豊臣兄弟!」第34回「最強のライバル」は9月6日(日)放送。秀吉と家康の対立が動き出す回です。

小牧・長久手で、秀吉は負けた。正確には、戦争には勝ったが、戦闘には負けた。そしてその負け方が、あまりに手痛かった。池田恒興と森長可という有力武将を、一度に失っている。原因は「中入り」と呼ばれる作戦の失敗である。なぜ失敗したのか。

岩崎城

岩崎城。中入り部隊はこの城の攻撃で足を止めた

目次

中入りとは何か

まず言葉の意味から。「中入り」とは、正面でにらみ合っている間に、別動隊がひそかに迂回して敵の後方や本国を突く作戦を指す。小牧山に籠もった家康と、楽田に陣を敷いた秀吉。正面から攻めれば損害が大きく、放っておけば決着がつかない。膠着していた。

そこで池田恒興が献策した。家康の本拠である三河を突けば、家康は小牧山を出ざるをえない。出てきたところを叩く——という筋書きである。理屈としては悪くない。実際、家康はこのあと本当に動いている。

▽ よく語られる話
秀吉が愚かな作戦を採用したので、名将二人を無駄に失った。
▼ 史実ではこうです
作戦の発想そのものは妥当でした。膠着を破るには、相手を陣から引きずり出すしかありません。
問題は実行のほうです。奇襲なのに部隊が大きすぎ、進軍が遅く、途中で寄り道をした。三つが重なって、秘密ではなくなりました。

失敗の理由その一 — 大きすぎた

中入りは奇襲である。奇襲の生命線は、気づかれないことだ。ところがこの部隊は、数隊に分かれた大規模なものだった。池田恒興、森長可、堀秀政、そして秀吉の甥・三好信吉(のちの豊臣秀次)まで加わっている。

人が増えれば、隠せなくなる。行軍の列は長くなり、砂ぼこりは立ち、通った村には目撃者が残る。秀吉としては、成功したときに大きな戦果を取りたかったのだろう。だが「確実に成功させたい」という気持ちが、成功の条件そのものを壊した。

失敗の理由その二 — 遅すぎた

そして進軍が遅かった。迂回路をとる以上、距離は長くなる。そのうえ大部隊で、道は限られている。決定的だったのが岩崎城への攻撃である。途中にあったこの城を、放置せず攻めた。城将の丹羽氏重らは奮戦し、中入り部隊はここで時間を使ってしまう。

後方を安全にしてから進む、という判断自体は間違っていない。だが奇襲において、時間は兵力より重い。

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佐久間盛政はなぜ退かなかったのか:鬼玄蕃の一日と、賤ヶ岳が決まった瞬間

一年前の賤ヶ岳で、まったく同じ型の失敗が起きています。並べて読むと構造が見えます。

失敗の理由その三 — 家康に気づかれた

大きくて遅い部隊は、当然のように発見された。家康は中入りの動きを察知し、小牧山からひそかに兵を出す。そして長久手で、伸びきった中入り部隊の側面を突いた。行軍中の縦に長い隊列は、横から殴られるといちばん弱い。戦うための陣形になっていないからである。

結果、池田恒興と森長可は討ち死にした。秀吉が駆けつけたときには、すべて終わっていた。

なぜ秀吉は、この作戦を許可したのか

ここも考えておきたい。秀吉は慎重な武将である。その人がなぜ、危険な奇襲を許したのか。理由のひとつは時間だと思う。にらみ合いは、一見すると兵力の多い秀吉に有利に見える。だが実際は逆だった。

秀吉が抱えていたのは尾張の戦線だけではない。北陸、四国、紀伊——各地に敵が残っていた。大軍を一か所に貼り付けたまま、何か月も動けないことのほうが痛い。家康は待てるが、秀吉は待てない。この非対称が、無理な作戦を通させた。

もうひとつは献策したのが池田恒興だったことである。恒興は信長の乳兄弟にあたり、織田家中で重い立場にあった。清須会議にも列した一人である。秀吉にとっては、まだ完全な部下ではない。その人物の献策を頭から却下するのは、当時の秀吉の立場では簡単ではなかった。

作戦は軍事だけで決まらない。誰が言い出したかで通り方が変わる。これも敗因のひとつだったと思う。

賤ヶ岳と、まったく同じ形をしている

ここからが本題である。この失敗、一年前にも起きている。賤ヶ岳の戦いで、柴田方の佐久間盛政は大岩山砦への奇襲に成功した。中川清秀を討ち取り、作戦としては見事だった。だが、そのあと戦場に留まりすぎた。そこへ秀吉が美濃から引き返してきて、柴田軍は崩れる。

並べてみると、骨格が同じである。

  • 奇襲そのものは成功する
  • その後、必要以上に時間を使う
  • 敵の主力が戻ってきて、伸びきったところを叩かれる

盛政は勝ちすぎて動けなくなり、恒興は慎重すぎて遅くなった。理由は逆なのに、結果は同じだった。奇襲というのは、成功したあとが本番である。この二つの戦いは、そのことを一年違いで繰り返し証明している。

小牧山城

小牧山城。家康はここから兵を出し、長久手で中入り部隊を捉えた

大河ドラマで描かれない話

この敗戦には、あとを引く影響がある。中入り部隊には、秀吉の甥・三好信吉が加わっていた。のちの豊臣秀次である。この戦いで秀次は敗走し、その責任を問われたと伝わる。秀吉の後継者候補としての評価に、傷がついた。

そして数年後、秀次は関白の座から追われ、切腹させられる。直接の原因は秀頼の誕生だが、「秀次は将としてどうなのか」という視線の始まりが、この長久手にあったとも言える。ひとつの作戦の失敗が、十年以上あとの粛清にまで尾を引いている。

よくある質問

Q. 中入りを言い出したのは誰ですか?
A. 池田恒興が献策し、秀吉が許可したと伝わります。

Q. なぜ岩崎城を攻めたのですか?
A. 進路上にある敵方の城を放置すれば、後方を脅かされるためです。判断としては自然ですが、結果的に貴重な時間を失いました。

Q. 誰が討ち死にしましたか?
A. 池田恒興と、その子・元助、そして森長可が討ち死にしています。秀吉にとって大きな損失でした。

Q. 秀吉は間に合わなかったのですか?
A. 報を受けて出撃しましたが、到着したときには戦いは終わっていました。

ゆかりの地をめぐる

  • 岩崎城(愛知県日進市)… 中入り部隊が足を止めた城
  • 小牧山城(愛知県小牧市)… 家康の本陣
  • 蟹江城(愛知県蟹江町)… この戦いの激戦地
  • 犬山城(愛知県犬山市)… 秀吉方が押さえた城
  • 玄蕃尾城(福井県敦賀市)… 一年前、同じ型の失敗が起きた賤ヶ岳の本陣

イラストで見る武将や姫たち

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まとめ

中入りは、思いつきの愚策ではなかった。膠着した戦線を破るには、相手を引きずり出すしかない。発想は正しい。壊れたのは実行のほうである。大きくして、慎重にして、確実にしようとした。そのすべてが、奇襲という手段と相性が悪かった。

速さと秘密で成り立つ作戦に、規模と安全を足してはいけない。足した瞬間、それはもう奇襲ではなくなる。秀吉はこの一戦で名将二人を失い、家康を力で倒す道をあきらめた。そして妹と母を差し出す道へ切り替える。失敗から学ぶ速さだけは、この人は誰よりも早かった。

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