- 天正十二年(1584)四月九日、長久手で羽柴方の別動隊が壊滅した。池田恒興・元助父子と森長可が討死している
- その別動隊の総大将は、秀吉の甥・三好信吉。数え十七歳だった
- 家康は戦場で勝った。だが秀吉は織田信雄と単独で講和し、戦いそのものを終わらせた
- 「長秀」から「秀長」への改名は、この戦いの直後にあたる時期に行われている
大河ドラマ『豊臣兄弟!』第34回「最強のライバル」と第35回「秀長誕生」。秀吉と家康が、生涯でただ一度だけ直接ぶつかった小牧・長久手の戦いである。
戦場では家康が勝った。それでも天下を取ったのは秀吉だった。なぜそうなるのか。そして、なぜこの時期に弟の名が「秀長」になるのか。四十五分では追いきれない部分を、史料と現地の記録から補っておきたい。

家康が本陣を置いた小牧山城。もとは信長が築いた城である
この回で実際に起きたこと
- 三月… 織田信雄が秀吉に通じたとして家老三人を誅殺。家康が信雄に味方して出陣する
- 三月十七日… 羽黒の戦い。森長可が徳川方に敗れる
- 三月末〜四月… 秀吉は楽田に、家康は小牧山城に入り、にらみ合いが続く
- 四月六日夜半… 三河・岡崎を突く別動隊、およそ二万四千が進発
- 四月九日未明… 池田恒興勢が岩崎城を攻撃
- 四月九日早朝… 白山林で三好信吉の隊が奇襲を受け、壊滅する
- 四月九日午前… 桧ヶ根で堀秀政が徳川勢を退ける
- 四月九日昼… 仏ヶ根で池田恒興・元助父子と森長可が討死
- 十一月十二日… 秀吉と織田信雄が単独で講和。家康は戦う理由を失う
三月に始まり、十一月に終わる。八か月におよぶ戦役のうち、両軍が本気でぶつかったのは四月九日の一日だけである。この一日に何が起きたのかを押さえると、この戦いの妙な結末が見えてくる。
補助線①:中入りは、誰の判断だったのか
にらみ合いを破ったのは、三河へ回り込んで岡崎を突くという策だった。世に言う「中入り」である。
ただ、はっきりしていることがひとつある。失敗の責任を身体で払ったのは恒興のほうだった。恒興は四十九歳、嫡男の元助は二十六歳。父子そろって仏ヶ根で討たれている。
そして中入りという策そのものは、決して無謀ではない。むしろ、この時点では成功しかけていた。問題は、成功したあとに起きた。
補助線②:三好信吉は、なぜ白山林で崩れたのか
岡崎へ向かった別動隊は、四つの隊に分かれていた。先頭が池田恒興・元助父子と森長可、次いで長谷川秀一、堀秀政、そして最後尾が三好信吉である。
この最後尾の三好信吉が、総大将だった。秀吉の姉の子、のちの豊臣秀次にあたる人物で、このとき数え十七歳。二万四千の総大将である。
四月八日、家康は別動隊の動きを察知した。丹羽氏次・榊原康政らおよそ四千五百が小幡城へ入り、夜のうちに追撃態勢をとる。
そして四月九日の早朝、休息をとっていた信吉の隊が背後から急襲された。先頭ではなく、最後尾から崩された。行軍中の部隊にとって、これがいちばん立て直しの効かない崩れ方である。
尾張旭市に残る記録には、この場面の細部が伝わっている。信吉は応戦したものの総崩れとなり、逃げる途中で馬を失った。そこへ家臣の木下勘解由利匡が自分の馬を差し出し、みずからは追手と戦って討死する。兄の木下助左衛門祐久も、同じく討たれた。
十七歳の総大将を逃がすために、兄弟が二人とも死んでいる。白山林の跡には、いまも木下勘解由の塚が残る。
補助線③:秀吉はなぜ、勝てなかったのに勝者になったのか
長久手一日の損害は、羽柴方の死者およそ二千五百、織田・徳川方およそ五百九十と伝わる。四倍以上の開きがある。戦術的には、家康の完勝といっていい。
それでもこの戦いは、秀吉の勝ちで終わる。理由は単純で、秀吉が倒そうとしていた相手は家康ではなかったからである。
この戦役の名目上の当事者は、あくまで織田信雄だった。家康は信雄に味方して出てきた側である。ならば信雄さえ折れれば、家康は戦う名分を失う。
十一月十二日、秀吉は伊賀と伊勢半国の割譲と人質を条件に、信雄と講和した。家康には何の相談もない。家康は次男の於義丸を秀吉の養子に出すという形で、戦いを終えるほかなくなった。
補助線④:「秀長誕生」── 長秀から秀長へ
第35回のサブタイトル「秀長誕生」は、おそらく改名を指している。
秀吉の弟は、はじめから「秀長」だったわけではない。通称は小一郎、諱は長秀。「木下小一郎長秀」と名乗っていた。
ここに厄介な事情がある。織田家中には、丹羽長秀という重臣がいた。諱が完全に重なっているのである。しかも「羽柴」という姓は丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつ取ったと伝わる(これ自体、後世の解釈という見方もある)。名乗りとして、これ以上ないほど紛らわしい。
実際に「長秀」と署名した文書は残っている。天正八年(1580)六月付で、但馬の漁師に鮎漁を許した免許状に、本人の署名と花押がある。この時点では、まだ長秀である。
そして改名の時期は、かなり狭い範囲まで絞られている。研究では天正十二年六月八日から九月十二日までのあいだとされる。つまり小牧・長久手の直後である。
理由については、史料に「そのために改めた」と書かれたものはない。丹羽長秀との重複を避けたとする説、小牧・長久手を経て兄が信長の実質的な後継者の座を固めたことで、兄の一字「秀」を上に戴く形に改めたとする説などがある。いずれも推測であって、確定していない。
なお秀長自身は、この戦役で遊んでいたわけではない。伊勢方面で松ヶ島城を落とし、信雄との講和交渉には秀吉の名代として直接おもむいている。戦って、交渉して、そして名前が変わった年である。
現地はいま:にらみ合いの城と、一日の古戦場
この戦いは、城と古戦場が愛知県内にまとまって残っている。順にたどれば、八か月の動きがそのまま歩ける。
- 小牧山城(愛知県小牧市)… 家康が本陣を置いた城。もとは信長が築いた
- 犬山城(愛知県犬山市)… 池田恒興が奪い、羽柴方の拠点となった国宝天守
- 岩崎城(愛知県日進市)… 別動隊が最初に攻めた城。城主の弟・丹羽氏重は十六歳で戦死し、城兵二百余名が討たれた
- 岡崎城(愛知県岡崎市)… 別動隊が目指していた家康の本拠
- 蟹江城(愛知県海部郡)… 六月の蟹江城合戦の舞台。滝川一益が築いた城
- 清洲城(愛知県清須市)… 織田信雄の城
- 兼山城(美濃金山城)(岐阜県可児市)… 討死した森長可の居城

岩崎城。別動隊がここで足を止めたことが、長久手の結果を分けた
犬山城の現地の様子は、姉妹サイトの実録記事「【実録】国宝三城と関ケ原|犬山・岐阜・大垣の城から天下分け目の古戦場」で写真つきに紹介している。
岡崎城と三河の一帯については、同じく姉妹サイトの「【実録】家康の岡崎と長篠の戦い ― 田原城・西尾城から長篠城・設楽原・野田城へ|都内発 車1泊2日 三河の史跡めぐり」が現地の写真つきでたどっている。
次回以降に効いてくること
小牧・長久手は、それ単体で終わる戦いではない。ここで決まらなかったことが、翌年から順に効いてくる。
ひとつ、石川数正の出奔。この戦いの翌年、家康の重臣が突然出奔して秀吉のもとへ走る。徳川の軍制まで作り直させることになる事件である。
ふたつ、天正大地震。秀吉が家康を力で攻めるつもりでいた矢先、中部一帯を巨大地震が襲う。攻める側の準備が崩れた。
みっつ、大政所と旭姫。力で無理なら、と秀吉は妹を家康に嫁がせ、実母まで人質として送り出す。家康が上洛して臣従を表明するのは、天正十四年十月二十七日のことである。
よくある疑問
Q. 結局、小牧・長久手はどちらが勝ったのですか?
A. 長久手の戦闘では家康が勝ちました。ですが戦役全体は、秀吉が織田信雄と単独講和したことで終わっています。戦術は家康、戦略は秀吉、という整理をされることが多いです。
Q. なぜ秀吉の甥が「三好」を名乗っているのですか?
A. 阿波の三好氏の一族である三好康長(笑岩)の養子となっていたためです。のちに羽柴姓へ戻り、豊臣秀次となります。
Q. 秀長はこの戦いで何をしていたのですか?
A. 伊勢方面で松ヶ島城を落とし、講和交渉では秀吉の名代として信雄側と直接やりとりしています。前線と外交の両方を担っていました。
Q. 岩崎城の戦いは、なぜ重要なのですか?
A. 別動隊がここで足を止めたことで、家康の追撃が間に合ったからです。城主の弟・丹羽氏重は十六歳で戦死し、城兵二百余名が討たれました。
イラストで見る武将・姫たち
この記事に登場する人物は、姉妹サイト「日本の武将ガイド」でイラストとあわせてご覧いただけます。
- 豊臣秀吉 … 戦場では勝てず、外交で勝った天下人
- 徳川家康 … 長久手で完勝しながら、戦役では引かされた側
- 織田信雄 … この戦役の名目上の当事者
- 豊臣秀次 … 白山林の総大将。のちに関白となり、高野山で自刃した
- 滝川一益 … 六月の蟹江城合戦を起こした、鉄砲の名手
- 池田恒興 … 信長の乳兄弟。仏ヶ根で嫡男とともに討死
- 池田元助 … 恒興の嫡男。二十六歳で父と同じ日に討たれた
- 池田輝政 … 次男。父と兄を失い、池田家を継いだ
- 森長可 … 「鬼武蔵」。二十七歳、銃弾を受けて戦死
- 森可成 … 長可の父。森家の当主が続けて戦死していく
- 林為忠 … 森家の筆頭家老
- 豊臣秀長(小一郎) … この年、名が「秀長」に改まる
- 丹羽長秀 … 秀長と諱が完全に重なっていた織田家の重臣
- 本多忠勝 … わずかな手勢で秀吉本隊の前に立ちはだかった
- 榊原康政 … 白山林で信吉隊を突き崩した先発隊の将
- 井伊直政 … 長久手で井伊の赤備えが本格的に働いた戦い
- 酒井忠次 … 徳川四天王の筆頭
- 石川数正 … 翌年、徳川を出て秀吉のもとへ走る
- 織田信長 … 二年前に消えた、両者に共通する前提
- 三好信吉(豊臣秀次)はなぜ白山林で大敗したのか … 十七歳の総大将に何が起きたか
- 池田恒興の「中入り」はなぜ失敗したのか … 奇襲は成功したあとが本番だった
- 森長可とは:森蘭丸の兄「鬼武蔵」 … 二十七歳で討死するまで
- 織田信雄はなぜ家康に断りもなく秀吉と和睦したのか … 戦っていたのは誰だったのか
- 小牧・長久手の戦いはどっちが勝った? … 秀吉と家康 唯一の直接対決
- 豊臣秀長はなぜ「長秀」から「秀長」に改めたのか … 丹羽長秀と同じ名を持っていた男
まとめ
小牧・長久手は、勝敗の話がそのまま結末にならない戦いである。四月九日、家康は完璧に勝った。池田恒興・元助父子と森長可という、秀吉方の重い将を三人まとめて討ち取っている。
それでも十一月、戦いは秀吉の望む形で終わった。秀吉は、勝てない相手とは戦い続けないという判断ができる人だった。倒せないなら、戦う理由のほうを消してしまえばいい。
そしてこの年、弟の名が「秀長」になる。兄の一字を上に戴くその形は、羽柴家がもう織田家の一部ではなくなったことを、名乗りのうえで示しているようにも見える。断定はできない。だが時期だけは、はっきり重なっている。
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