秀長はなぜ小田原攻めに行けなかったのか|病床の天正18年、兄が北条を囲むあいだ秀長は何をしていたのか ─ 年頭の欠席、「死んだ」という噂、長丸の上洛の取次【豊臣兄弟!】

小田原城:北条早雲に始まり北条家5代にわたり関東を支配した名城 小田原城
この記事のポイント
  • 天正18年(1590)3月、秀吉は北条家を討つため小田原へ出陣しましたが、秀長はこの戦いに加わりませんでした。前の年の暮れから重い病にかかっていたためです
  • 秀長は天正17年11月から有馬温泉で湯治をしましたが回復せず、天正18年の正月には年頭の挨拶にも出られませんでした。3月には「秀長が死んだ」という噂まで流れています
  • それでも秀長は、京や大和で療養しながら、家康の嫡男・長丸(のちの秀忠)の上洛を取りつぐなど、政権の仕事を続けたとされます
  • 小田原城が開城した天正18年7月、秀長は兄を迎えるために上洛しましたが、9月に病が再発します。翌天正19年1月22日、大和郡山城で亡くなりました

中国攻め、四国攻め、九州攻めと、秀吉の大きな戦いのほとんどで重い役を担ってきた秀長。ところが、天下統一の最後の戦いとなった天正18年(1590)の小田原攻めに、秀長の姿はありませんでした。秀長はなぜ小田原に行けなかったのでしょうか。そして兄が小田原を囲んでいるあいだ、秀長は何をしていたのでしょうか。この記事では、天正17年の暮れから天正18年の秋までの秀長を、月ごとにたどります。病そのものや死因の説は豊臣秀長の死因は何だったのかでくわしく書いています。

目次

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なぜ行けなかったのか ─ 前の年から続いていた病

秀長が小田原に行けなかったのは、病のためです。秀長は天正17年(1589)の暮れごろから体調を崩し、11月4日から12月3日まで、摂津の有馬温泉で湯治をしました。しかし京に戻っても回復せず、本拠の大和郡山には帰れないまま、京で療養を続けたとされます。

天正18年の正月、秀長は秀吉への年頭の挨拶に出ることができませんでした。かわりに出仕したのは、のちに跡を継ぐ秀保です。豊臣家の一門の筆頭ともいえる秀長が、正月の挨拶にも出られない。それほど病は重かったのです。

時期 秀長のようす
天正17年11月4日〜12月3日 有馬温泉で湯治
天正17年12月〜 回復せず、京で療養
天正18年正月 年頭の挨拶に出られず、秀保が代わりに出仕
3月1日 秀吉が小田原へ出陣。秀長は加われず
3月3日 秀長が死んだという噂が流れる
4月15日 大和へ帰る
7月25日 小田原から戻る兄を迎えるため上洛
9月19日 病が再発し、郡山へ戻る
10月19日 秀吉が郡山まで見舞いに来る
天正19年1月22日 大和郡山城で死去(52歳)

兄が小田原を囲むあいだ、秀長は何をしていたのか

家康の嫡男・長丸の上洛を取りつぐ

天正18年の正月、徳川家康の嫡男・長丸(のちの二代将軍・秀忠)が上洛し、秀吉に対面しました。小田原攻めを前に、家康が秀吉に従う姿勢をあらためて示すためのものでした。病の床にありながら、秀長はこの上洛の取次をつとめたとされます(徳川家康の子ども一覧)。

秀長は、家康が秀吉に臣従したときから、徳川家と豊臣家のあいだに立つ立場にありました。大名と秀吉をつなぐ「取次」は、秀長の大事な仕事の一つです(豊臣政権の「取次」とは何か)。体が動かなくても、その役目だけは手放さなかったことになります。

同じ正月の14日には、秀長の妹で家康の正室になっていたあさひ(旭姫)が、聚楽第で亡くなっています(旭姫はなぜ駿府ではなく京都で亡くなったのか)。病の秀長にとって、つらい知らせが重なった正月でした。

「死んだ」という噂と、見舞いの人々

秀吉が小田原へ出陣した2日後の3月3日、秀長が死んだという噂が流れたと伝わります。秀長の病が重いことは、まわりの大名たちにも知られていたのでしょう。

しかし秀長は持ちこたえました。3月18日には、小田原へ向かう途中の家康から、回復を喜ぶ手紙が届いたとされます。23日には島津義久が秀長の屋敷を見舞いました。九州攻めで秀長と戦い、降伏した島津家の当主が見舞いに来たというのは、秀長がかつての敵からも頼りにされていたことを物語ります。

大和へ帰り、母・大政所の屋敷を守らせる

4月15日、秀長はようやく大和へ帰りました。4月18日には、聚楽第の留守をあずかる家老たちに、母・大政所の屋敷を警固するよう指示する書状を出しています。この書状には秀長の花押(サイン)が書かれており、およそ9か月ぶりのことだったといいます。それまでは花押も書けないほど、病が重かったと考えられます。

5月には、大政所が郡山の秀長のもとを訪れました。息子の病を心配した母が、自ら会いに来たのでしょう。

興福寺の中金堂
秀長の回復を願う祈祷がくりかえし行われた興福寺(奈良市)

寺社での祈祷

秀長が病のあいだ、大和の興福寺などでは、回復を願う祈祷がくりかえし行われました。秀吉も弟の回復を寺社に祈らせています。かつて秀長は大和の寺社と厳しく向きあった領主でしたが(興福寺と東大寺は本当に「悪」だったのか)、その寺社が秀長のために祈ることになったのです。

▽ よく語られる話
秀長は病で寝たきりになり、小田原攻めのころには政治から離れていた。
▼ 史実ではこうです
秀長は病で小田原には行けませんでしたが、長丸の上洛の取次や、大政所の屋敷の警固の指示など、京と大和でできる仕事を続けていました。病床からも、伊達政宗ら諸大名の取次にかかわったとされます。

天下統一の日に、秀長はいなかった

天正18年7月5日、北条氏直は小田原城を出て降伏し、11日には父の氏政らが切腹しました(小田原征伐で北条氏政はなぜ降伏しなかったのか)。北条家の滅亡と、そのあとの奥州の仕置によって、秀吉の天下統一はなしとげられます。

小田原城の天守
小田原城の天守(小田原城)。天正18年、秀長はこの城を囲む戦いに加われませんでした
小田原征伐のイメージイラスト:石垣山から小田原城を見おろす
石垣山から小田原城を囲む秀吉の軍(イメージ)。この場に秀長はいませんでした

7月25日、秀長は小田原から戻る兄を迎えるために上洛しました。病をおして京にのぼり、9月19日まで京にとどまっています。しかし天下統一の勝利の場に、秀長は立ちあうことができませんでした。兄とともに尾張から天下をめざした弟が、その最後の場面だけは見られなかったのです。

再発、そして最期へ

9月、郡山へ戻った秀長の病は再びひどくなります。10月19日には、秀吉がわざわざ郡山まで見舞いに来ました。秀次や諸大名も同行したといいますが、秀長と対面できたかどうかははっきりしません。

年が明けた天正19年1月10日、秀長は紀伊熊野の那智の坊に書状を出しました。これが、記録に残る秀長の最後の具体的な仕事とされます。その直後に容体は悪化し、秀保と秀長の娘の婚約が急いで整えられました。そして1月22日、秀長は大和郡山城で52年の生涯を閉じます(豊臣秀長の子孫・家系はどうなったのか)。

大和郡山城の天守台から見おろす郡山の城下
大和郡山城の天守台から見た城下。秀長はこの城で亡くなりました

小田原攻めのとき、秀長が健在だったらどうなっていたのか。北条家との交渉や、戦のあとの関東・奥羽の仕置に、秀長がどうかかわったのかは、いまとなってはわかりません。ただ、天下統一のその年に秀長が病に倒れたことは、豊臣政権のその後に大きな影を落としていくことになります。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
公式ガイドで伝えられている最終回(第47回・12月6日放送予定)の流れでは、北条討伐のため秀吉が小田原攻めを決め、秀長は布石を打ちながらも病に倒れて参陣できません。北条が降伏して天下統一がなったあと、秀長は大和郡山城で生涯を閉じる、という筋になるようです。放送後にこの枠を更新します。

あわせて読みたい:天正十八年に何が起きたのか(『豊臣兄弟!』第46回の予習に)

よくある質問

Q. 秀長は小田原攻めに参加したのですか?
A. いいえ。天正17年の暮れから重い病にかかっており、天正18年3月の秀吉の出陣に加わることはできませんでした。

Q. 秀長はいつから病気だったのですか?
A. 天正17年(1589)の暮れごろから体調を崩し、11月から12月にかけて有馬温泉で湯治をしています。それより前から病を抱えていたとみる見方もあります。

Q. 小田原攻めのあいだ、秀長はどこにいたのですか?
A. 京で療養し、4月15日に大和へ帰りました。病床から長丸(秀忠)の上洛の取次や、大政所の屋敷の警固の指示などを行ったとされます。

Q. 秀長は天下統一を見届けられたのですか?
A. 小田原城の開城と北条家の滅亡(天正18年7月)は、秀長の存命中のできごとです。秀長は7月25日に兄を迎えるため上洛しましたが、勝利の場には立ちあえませんでした。

Q. 秀長はいつ亡くなったのですか?
A. 天正19年(1591)1月22日、大和郡山城で亡くなりました。52歳でした。

まとめ

秀長が小田原攻めに行けなかったのは、天正17年の暮れから重い病にかかっていたためでした。年頭の挨拶にも出られず、「死んだ」という噂まで流れましたが、秀長は京と大和で療養しながら、長丸の上洛の取次や大政所の屋敷の警固の指示など、できる仕事を続けました。天下統一がなった天正18年7月、秀長は兄を迎えるために上洛しますが、9月に病が再発し、翌年1月22日に郡山城で亡くなります。兄とともに天下をめざした弟は、その最後の場面だけを見届けられなかったのです。

参考:『多聞院日記』/『兼見卿記』/『家忠日記』

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