家康はなぜ秀長の屋敷に泊まったのか|天正14年10月26日の夜、秀吉がひそかに訪ねてきた ─ 仲野太賀演じる秀長の見せ場

大阪城:大阪冬の陣・夏の陣にて淀の方・豊臣秀頼自刃と共に消失!!豊臣秀吉が築城した大阪城
この記事のポイント
  • 天正14年(1586)10月26日、上洛した家康は大坂に着き、秀長の屋敷に泊まりました
  • その夜、秀吉がひそかに家康の宿所を訪ね、酒を酌み交わしたと伝わります。徳川家臣・松平家忠の『家忠日記』にも、秀吉が宿所を訪ねたことが記されています
  • 秀長の屋敷が宿所に選ばれたのは、秀長が秀吉の弟であり、豊臣政権で諸大名との取りつぎを担う立場にあったからと考えられます
  • 翌27日、家康は大坂城で秀吉に臣従の礼をとりました。秀長の屋敷の一夜は、豊臣と徳川が手を結ぶ前夜だったのです

『豊臣兄弟!』第41回「家康の野望」では、仲野太賀さん演じる秀長の屋敷が、大きな舞台になると予想されます。上洛した家康(松下洸平)は、なぜ秀長の屋敷に泊まったのでしょうか。そして、その夜に何が起きたのでしょうか。この記事では、家康の上洛の行程を日付で追いながら、秀長の屋敷の一夜を紹介します。

秀長の屋敷で対面する家康と秀吉のイメージイラスト
秀長の屋敷で向き合う家康と秀吉のイメージ(イメージイラスト)
目次

家康の上洛 ─ 日付で追う

家康が上洛を決めたのは、秀吉が母の大政所を人質として岡崎へ送ると決めたからでした。徳川家臣・松平家忠の『家忠日記』から、その行程を追ってみましょう。

日付(天正14年) できごと
10月14日 家康が上洛のため浜松を出て、三河の吉田へ
10月18日 大政所が人質として岡崎に入る。家忠は知立まで出迎える
10月20日 家康が三河を発つ。家忠が見送る
10月26日 家康が大坂に着き、秀長の屋敷に入る。その夜、秀吉が宿所を訪ねる
10月27日 家康が大坂城で秀吉に対面し、臣従の礼をとる
11月4日 秀吉と家康が贈り物を交わす
11月5日 家康が正三位に叙される

家康は、大政所が岡崎城に入ったのを見届けてから三河を発っています。人質が確かに岡崎に入るまでは動かない。家康の慎重さがよく表れています(本多作左衛門はなぜ大政所の宿所に薪を積んだのか)。

なぜ秀長の屋敷だったのか

上洛した家康の宿所に、なぜ秀長の屋敷が選ばれたのでしょうか。理由として、次の三つが考えられます。

① 秀吉の弟で、豊臣家の「身内」だった

秀長は秀吉の実の弟です。家康は、すでに秀吉の妹・旭姫を妻に迎えていて、秀長にとっては義理の兄弟になっていました。豊臣家の身内の屋敷に迎えることは、家康を「客」ではなく「一門」として扱う意味をもっていました(旭姫(朝日姫)の生涯)。

② 豊臣政権の取りつぎ役だった

秀長は、豊臣政権のなかで諸大名との取りつぎを担っていました。この年の4月、大坂城を訪れた大友宗麟には、「公儀のことは宰相(秀長)に」と語っています。家康のような大大名を迎えるのに、秀長ほどふさわしい人物はいませんでした(大友宗麟の大坂城訪問と「公儀のことは宰相に」)。

③ 家康の身の安全

家康にとって、大坂は敵地も同然でした。秀吉の弟の屋敷に泊まることは、豊臣家が家康の身の安全を保証するという意味もあったと考えられます。

その夜、秀吉がひそかに訪ねてきた

家康が秀長の屋敷に入った26日の夜、秀吉がひそかに家康の宿所を訪ねてきました。『家忠日記』にも、秀吉が家康の宿所を訪れたことが記されていて、二人は親しく酒を酌み交わしたと伝わります。

翌日の対面は、諸大名が居並ぶ公式の場です。その前の晩に、秀吉が自ら足を運んで家康と打ち解けておく。秀吉らしい根回しでした。江戸時代の書物には、このとき秀吉が家康の手を取り、翌日の対面では諸大名の前で自分を立ててほしいと頼んだ、という話も見えます。

▽ よく語られる話
秀吉は前夜に家康の宿所を訪ね、家康に頭を下げて、翌日の対面で臣下の礼をとってくれるよう頼みこんだ。
▼ 史実ではこうです
秀吉が前夜に家康の宿所を訪ねたことは『家忠日記』にも記されていて、確かな出来事と考えられます。ただし、そこでどんな言葉が交わされたのかを伝えるのは主に後世の書物で、秀吉が頭を下げて頼んだという場面まで確かめることはできません。
大阪城の石垣と堀
秀長の屋敷があった大坂城のあたり(大阪城)

秀長の屋敷はどこにあったのか

大坂の秀長の屋敷は、大坂城の近くにありました。いまの大阪城公園の西の丸庭園のあたりにあったとする説が知られています。秀吉の弟として、城のすぐそばに屋敷を構えていたのです。ただし、豊臣時代の大坂城は徳川の大坂城の下に埋もれていて、屋敷の正確な場所や姿はわかっていません。

翌日の対面と、秀長の役割

10月27日、家康は大坂城で秀吉に対面し、諸大名の前で臣従の礼をとりました。このとき家康が秀吉の陣羽織を所望したという有名な逸話がありますが、『徳川実紀』では、その段取りをつけたのは秀長と浅野長政だったとされます(家康はなぜ秀吉の陣羽織を所望したのか)。

宿所を用意し、兄と家康をつなぎ、対面の段取りまで整える。豊臣と徳川が手を結ぶ大切な場面で、秀長は表に立たずに全体を支えていました。主人公の秀長にとって、まさに腕の見せどころだったといえるでしょう。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』第41回「家康の野望」は10月25日(日)放送予定です。伝えられているあらすじでは、秀長が家康に「ともに天下を支えよう」と語りかける場面がある一方、家康の胸には秀長の命を狙う計算があるとされます。秀長の屋敷の一夜がどう描かれるのかに注目です。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 上洛した家康はどこに泊まったのですか?
A. 大坂の秀長の屋敷です。天正14年(1586)10月26日に大坂に着き、秀長の屋敷を宿所としました。

Q. 秀吉はなぜ前夜に家康を訪ねたのですか?
A. 翌日の公式の対面を前に、家康と打ち解け、諸大名の前での振る舞いを頼むためだったと伝わります。秀吉が宿所を訪ねたことは『家忠日記』にも記されています。

Q. 秀長の屋敷はどこにありましたか?
A. 大坂城の近くにあり、いまの大阪城公園の西の丸庭園のあたりとする説があります。正確な場所はわかっていません。

Q. 家康が秀吉に臣従したのはいつですか?
A. 天正14年(1586)10月27日、大坂城で秀吉に対面して臣従の礼をとりました。

まとめ

天正14年10月26日、上洛した家康は秀長の屋敷に泊まり、その夜には秀吉がひそかに訪ねてきました。秀吉の弟で、豊臣政権の取りつぎ役でもあった秀長の屋敷は、家康を一門として迎え、身の安全を保証する場所でもありました。翌日の対面の段取りまで整えた秀長は、豊臣と徳川が手を結ぶ前夜を、表に立たずに支えていたのです。

参考:『家忠日記』/『徳川実紀』/柴裕之『徳川家康』平凡社

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