四国国分(しこくこくぶん)とは、天正十三年八月、四国攻めのあとに秀吉が四国の土地を配り直した処置である。結果だけを並べるとこうなる。十年かけて四国を押さえた長宗我部元親に残されたのは、土佐一国だけだった。そして四国で最も大きい伊予三十五万石を得たのは、この戦に一兵も出していない小早川隆景である。四国国分は、土地が戦の強さではなく、秀吉との距離で配られたことをはっきり示している。
※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。
- 天正十三年八月、四国攻めの戦後処理として実施
- 土佐=長宗我部元親に一国のみ安堵、約十万石
- 阿波=蜂須賀家政、約十八万石
- 讃岐=仙石秀久、十万石
- 伊予=小早川隆景、三十五万石。四国で最大
- 元親の三男・津野親忠が人質として大坂へ
- 蜂須賀正勝は阿波十八万石を辞退し、秀吉のそばに残る道を選んだ
- 仙石秀久は一年半後、讃岐を取り上げられる
四国国分とは何か
四国攻めは二か月で終わった。一宮城が開城し、白地城にいた元親が降伏を受け入れて、八月六日までに講和が成立する。
戦が終われば、次は土地の配り直しである。これを当時「国分」と呼んだ。誰にどの国を与えるかを、天下人が一方的に沙汰する。論功行賞であると同時に、これから四国をどう治めるかの設計図でもあった。
沙汰が下ったのは、講和からひと月と経たないうちのことである。
誰が何をもらったのか
来島通総のように、四国攻めで秀吉方についた者にも小さく配られている。この表を上から見ていくと、ひとつのことに気づく。四国でいちばん大きい取り分を得たのは、四国を取った男ではない。
元親に残されたのは、土佐一国だけだった
元親が押さえていたのは、阿波・讃岐・伊予・土佐の四か国である。そこから三か国を取り上げられ、出発点だった土佐一国に戻された。
二十二歳の初陣から数えて、およそ二十五年。土佐を統一するのに十五年、そこから四国へ出て十年。その積み重ねが、二か月の戦と、ひと月足らずの沙汰で消えた。
しかも「安堵」という言い方に注意が要る。安堵とは、もともと自分のものだった土地を、あらためて上から認めてもらうことである。元親は土佐を自分の力で持っていたはずだった。それを天下人に認めてもらう立場に変わった。これが国分の本質である。
長宗我部氏はどうなったのか
土佐一国に戻されたあと、戸次川で嫡男を失い、浦戸で国を失うまでを追っています。
なぜ伊予は、毛利のものになったのか
四国国分でいちばん引っかかるのが、ここである。伊予三十五万石が、小早川隆景に渡った。隆景は毛利の一門であり、四国攻めの主力として上陸した軍ではない。
理由として伝わっているのは、毛利がかねてから伊予の領有を主張していたことへの配慮である。毛利は以前から伊予の守護家・河野氏と縁戚関係を結び、海を越えて四国へ勢力を伸ばそうとしていた。瀬戸内は毛利の庭であり、伊予はその向こう岸にあたる。
そして毛利は、このとき秀吉に服属し、その軍事行動に動員される側になっていた。味方につけた大勢力に、望んでいた土地を与える。四国国分は、四国の処理であると同時に、毛利をどう扱うかの答えでもあった。
隆景が取った「主家から拝領する」という形
面白いのは、隆景の受け取り方である。
隆景は伊予を秀吉から直接もらう形にしなかった。いったん毛利本家に与えられた伊予を、あらためて主家から拝領するという手順を踏んでいる。
理屈はこうだ。秀吉から直接もらえば、隆景は毛利から独立した一個の大名になってしまう。それは毛利という家が割れることを意味する。だから一度、主家を経由させた。三十五万石を受け取りながら、毛利の一武将という体裁を崩さなかったわけである。
結城秀康が「人質」ではなく「養子」として送られたのと、考え方が似ている。中身は同じでも、通す手順を変えれば、失うものが変わる。
阿波十八万石を断った男 ── 蜂須賀正勝
阿波には、もうひとつ語られにくい話がある。
秀吉は当初、阿波一国およそ十八万石を蜂須賀正勝に与えようとした。一宮城を攻め、降伏の仲介にもあたった人物である。働きから言えば当然だった。
ところが正勝はこれを辞退する。大名になるより、秀吉の側近として仕える道を選んだ。阿波は息子の家政が受け取り、のちに山を下りて徳島城を築くことになる。
十八万石を断れる人間は、そう多くない。土地をもらえば離れることになる。そばにいるほうが値打ちがある、とこの人は考えた。四国国分の表に名前が並ぶ中で、この判断だけが毛色が違う。
讃岐十万石は、一年半で取り上げられた
配られた土地が、そのまま続いたわけでもない。
讃岐十万石を得た仙石秀久は、わずか一年半後にそれを失う。九州で戸次川の敗戦を招いた責任を問われての改易だった。同じく九州での失敗で、尾藤知宣も讃岐を取り上げられている。
戸次川では十河存保と、元親の嫡男・信親が同じ日に討たれた。四国国分で土地を配られた者たちが、その翌年に九州で崩れていく。
人質に出された三男 ── 津野親忠
元親の側にも条件があった。三男の津野親忠が、人質として大坂へ差し出されている。
安堵された土地と引き換えに、子を預ける。家康が於義丸を送ったのと同じ形である。ただし秀吉は、こちらを「養子」とは呼ばなかった。呼び方の違いが、そのまま両家の格の違いだった。
この津野親忠が、のちに長宗我部家の家督争いの火種になる。浦戸で国を失うまでの道は、ここから始まっている。
「土佐侍従 秦元親」という肩書き
国分のあと、元親は朝廷から位階を受ける。そのときの名のりが「土佐侍従 秦元親」だった。
秦(はた)は、長宗我部氏が称した出自である。四国の覇者でも、土佐守護でもない。土佐という一国の名と、朝廷から与えられた官職と、古い氏の名。この三つで人を並べる仕組みに、元親は組み込まれた。
これは秀吉が関白になって作った秩序そのものである。誰が強いかではなく、誰がどの位にいるかで序列が決まる。元親が負けたのは戦だけではなかった。土地の測り方そのものが、入れ替わったのである。
まとめ
四国国分の表をもう一度見ると、配り方の論理が見えてくる。
最大の三十五万石は、味方につけたばかりの大勢力へ。十八万石と十万石は、秀吉の子飼いへ。そして四国を実際に取った男には、出発点の一国だけ。働きの大きさと、もらえる土地の大きさが、まったく比例していない。
比例していないことこそが、この沙汰の狙いだった。四国攻めそのものが、元親を滅ぼすためではなく従わせるための戦だったように、国分も、四国を誰かに任せるためではなく四国を誰も大きくさせないための配り方になっている。伊予に毛利、阿波と讃岐に子飼い、土佐に元親。四国の中で、誰も他の三国へ手を伸ばせない。
元親はこのあと十年あまり生きる。岡豊城に戻り、浦戸へ城を移し、検地を行い、家を続けようとした。四国を取った二十五年より、土佐一国に戻されてからのほうが、この人の仕事は静かで細かい。
和歌山城 ── 豊臣秀長が築いた城と、三つの時代が層になった石垣
秀長が自ら城地を選び、縄張りを引いた城。紀伊を治め、海の向こうへ出るための足場でした。
藤堂高虎とは ── 七度主君を替えた男が、最初に築いたのは秀長の和歌山城だった
秀長に二十一歳で仕えて十五年。主家が絶えると出家した男の実像です。
関白とは ── 摂政・太閤との違いと、就任できた五つの家
七百年、五摂家の外から関白は出ませんでした。その枠の中身を解説しています。
蜂須賀小六(正勝)とは ── 野盗の親分という嘘と、阿波一国を断った理由
四国攻めで一宮城を攻め、講和を仲介した人物。そして阿波一国を辞退しました。

