上月城は播磨・備前・美作の三国が接するあたりに築かれた山城です。出雲街道を押さえる位置にあり、織田と毛利が中国地方でぶつかったとき、まっさきに奪い合われました。城に入った尼子勝久と山中鹿介が毛利の大軍に囲まれ、救援に向かった羽柴秀吉が引き返したことで、尼子家再興の望みはここで絶たれます。石垣も建物も残りませんが、境目の城とはどういうものかを教えてくれる城跡です。
- 播磨・備前・美作の三国境、出雲街道を押さえる山城
- 秀吉が落としたのち、尼子勝久と山中鹿介が入った
- 毛利の大軍に囲まれ、救援が来ないまま開城した
- 尼子家の再興運動はこの城で終わった
上月城とは:三国の境に置かれた城
上月城があるのは兵庫県佐用郡佐用町、標高二百メートルに満たない荒神山です。高さはささやかですが、位置が特別でした。ここは播磨から備前へ、そして美作へ抜ける道が交わる場所で、山陰と山陽をつなぐ出雲街道が足もとを通っています。三つの国の境に立つ城は、どの勢力にとっても喉もとにあたりました。
築かれたのは南北朝のころ、赤松氏の一族である上月景盛の手によると伝えられます。以後、赤松氏の勢力下で守られ、戦国の終わりには赤松政範が城主となっていました。曲輪を尾根に連ね、堀切で断ち切る構えで、石垣はほとんど用いられていません。

山上の本丸跡。標柱の奥に供養の石塔が並び、落城のあとを今に伝えている。
秀吉が落とし、尼子が入った
織田信長の命で中国方面へ向かった羽柴秀吉は、天正五年(一五七七年)に上月城を攻めます。城は落ち、城主の赤松政範は果てました。境目の城を落としたあと、秀吉は見せしめとして厳しい処断を行ったと記録されています。毛利方に付こうとする者への警告でした。
空いた城に入れられたのが、月山富田城を追われた尼子氏の残党です。当主に担がれた尼子勝久と、再興を誓う山中鹿介がここを拠点とし、出雲を目指す足がかりにしようとしました。秀吉にとっても、毛利の背後を突ける手駒でした。
なぜ救援は来なかったのか
翌天正六年、毛利は吉川元春と小早川隆景を大将とする大軍を差し向け、上月城を囲みます。秀吉は救援に向かい、近くの山に陣を敷いて毛利勢と向き合いました。ところが、そのまま戦いにはなりません。

本丸跡に立つ供養の石塔。落城で命を落とした人々を弔うために建てられた。
尼子再興の終わり
救援の望みが絶たれ、城は開かれました。尼子勝久は城兵の助命と引き換えに自刃し、山中鹿介は捕らえられます。備中へ護送される途中、川の渡しで討たれました。月山富田城が落ちてから十年あまり、各地を転戦し続けた再興運動は、この播磨の山でついに終わります。
上月城はその後、使われないまま廃されました。毛利との境目は、秀吉が三木城を落とし、鳥取城を囲み、備中へ進むにつれて西へ移っていきます。本能寺の変で中国攻めが中断したあと、この一帯が戦場になることはありませんでした。

麓に立つ石碑。城跡へは登山道が整えられ、二十分ほどで本丸跡に立てる。
上月城跡・場所とアクセス
兵庫県佐用郡佐用町上月。JR姫新線の上月駅から歩いて二十分ほどで登山口に着き、そこから本丸まではさらに二十分ほどの登りです。麓には上月歴史資料館があり、上月合戦の経過や出土品を見ることができます。三木城や姫路城とあわせて回れば、秀吉の中国攻めが播磨をどう動いたのかがつながります。西へ抜ければ津山城、北へ向かえば竹田城跡です。
