【史跡名】
徳川四天王の一人 井伊直政像
【史跡の説明】
井伊直政は徳川四天王の一人に数えられ、旧武田家の家臣団を多く抱えた「井伊の赤備え」で有名な武将です。
関ヶ原の戦いの戦功で近江(滋賀県)佐和山城主となり、後に城を彦根に移し現在の彦根城が存在しています。

彦根駅前には井伊の赤備えを率いた「直政」の勇姿を銅像で見ることが出来ます。
彦根駅前に立つ、赤備えの武将
JR彦根駅の西口を出ると、馬にまたがった井伊直政の像が彦根城のほうを向いて立っています。兜には、天を衝くように伸びる大きな二本の脇立。これが井伊家の目印です。駅から城までは歩いて十五分ほどで、この像は城下町歩きの出発点になっています。
「井伊の赤備え」はどこから来たのか
井伊の部隊は、具足も旗指物も赤で統一していました。これは直政がもともと考え出したものではありません。武田家が滅んだあと、徳川家康は武田の旧臣を多く召し抱え、そのうちの山県昌景の赤備えの家臣団を直政に預けました。武田で最も恐れられた部隊を、そのまま受け継いだのです。赤は戦場でよく目立ちます。逃げも隠れもしないという意思表示であり、同時に「あれが井伊だ」と敵に知らせる看板でもありました。
小牧・長久手から関ヶ原まで
赤備えが世に知られたのは小牧・長久手の戦いです。このとき直政は二十代前半で、戦ぶりから「井伊の赤鬼」と呼ばれました。関ヶ原の戦いでは、本来は先鋒ではない立場でありながら前へ出て戦端を開き、戦後の大名の配置換えでも大きな働きをしています。ただ、敵中を突破して退く島津勢を追ったときに鉄砲で撃たれ、その傷がもとで二年後に亡くなりました。四十二歳でした。同じ徳川四天王については榊原康政や高崎城でも書いています。
佐和山から彦根へ
関ヶ原の功で、直政は石田三成の居城だった佐和山城に入りました。ところが三成の城をそのまま使うことを嫌い、琵琶湖に近い彦根山へ城を移す構想を立てます。直政自身は完成を見ないまま世を去り、城を築いたのは子の代でした。それが国宝の天守が残る彦根城です。城のなりたちは彦根城で書いています。
像を訪ねるなら
像は彦根駅西口の広場にあり、電車を降りてすぐ見られます。ここから彦根城の表門まで歩いて行けるので、像を見てから城へ向かう順路がおすすめです。
【井伊直政像・場所・アクセス】
〒522-0074 滋賀県彦根市大東町(彦根駅前)
【井伊直政像地図】

