名古屋城は、徳川家康が大坂の豊臣家を囲いこむために築かせた城です。工事は天下普請で、加藤清正や福島正則といった、もとは豊臣に仕えた西国の大名たちが自腹で石を運びました。豊臣を抑えるための城を、豊臣恩顧の大名が築く。この構図そのものが、当時の力関係を語っています。完成した城は日本最大級の規模を誇り、屋根には金の鯱が載りました。ただしこの場所には、それ以前から城がありました。織田信長が少年期を過ごした那古野城です。
- 大坂の豊臣家を抑えるため、家康が天下普請で築かせた城
- 天守台を積んだのは加藤清正。豊臣恩顧の大名が動員された
- 清洲の町をそっくり移す「清洲越し」で、城下町が一気にできた
- 空襲で天守と本丸御殿は焼けたが、三つの隅櫓と表二之門は焼け残った
- 本丸御殿は資料をもとに木造で復元され、障壁画までよみがえった
那古野城 ― 信長が少年期を過ごした城

木の枝ごしに天守が姿を見せる。屋根は緑青色で、最上層の両端に金の鯱が小さく光っている。
いまの名古屋城が建つ台地には、もともと今川氏の支城がありました。これを織田信秀が攻め取り、嫡男の信長に与えます。信長が吉法師と呼ばれていたころの城で、うつけと言われた少年時代の舞台がここでした。信長はやがて清須城へ本拠を移し、那古野城は廃されます。城がこの土地から消えていた期間が、およそ半世紀ありました。那古野城そのものについては那古野城の記事に、信長が生まれたと伝わる城については勝幡城にまとめています。半世紀のあいだ空いていた台地に、家康が目を付けました。理由は立地です。ここは東海道と中山道のあいだにあり、西へ向かう軍勢を止められる位置にある。そして何より、大坂からの距離がちょうどよかった。
天下普請 ― 豊臣恩顧の大名が積んだ石垣

青空を背に、高石垣の上へ五層の天守がそびえる。石垣は大きな石を切りそろえて積み上げてある。
名古屋城の普請には、加藤清正、福島正則、池田輝政ら西国の大名およそ二十家が動員されました。石も人足も費用も、すべて大名持ちです。とりわけ天守台の石垣を担当したのが加藤清正で、いまも「清正石」と呼ばれる巨石が本丸搦手の枡形に据えられています。ここでもう一度、顔ぶれを見てください。清正も正則も、秀吉に取り立てられて大名になった人たちです。その彼らが、秀吉の子である豊臣秀頼を封じこめるための城を、自分の金で築いている。賤ヶ岳の七本槍と呼ばれた男たちのその後を追うと、この時期の彼らの立場の苦しさがよくわかります。同じやり方はすでに秀吉が使っていて、大坂城の築城で石と材木をどう集めたかを見れば、家康のこの手が発明ではないこともわかります。篠山城が同じころ同じ方法で築かれたことを思えば、名古屋城は大坂包囲網のなかで最も大きな一手でした。
清洲越し ― 町ごと引っ越した
城を築くだけでは城下町はできません。そこで家康がとったのが、清洲の町をまるごと名古屋へ移すという方法でした。これを清洲越しといいます。武家屋敷も町家も寺社も、住人ごと移させたわけです。清須は信長が本拠にした町で、すでに東海有数の規模がありました。ところが五条川のそばにあって水害に弱く、天下の要にするには不安が残る。それならば、丸ごと移してしまえばよい。町の名も、寺の名も、そのまま名古屋へ持ってきています。いまの名古屋の中心部に清須ゆかりの地名が残っているのはそのためです。城を築いてから町を育てるのではなく、できあがった町を運んでくる。徹底したやり方でした。
金の鯱は何のために載っていたのか

天守の屋根に据えられた金の鯱を間近から。うろこの一枚一枚まで金で覆われ、その向こうに堀と名古屋の市街が広がる。
名古屋城といえば金鯱です。鯱は水を呼ぶ想像上の魚で、火事を防ぐまじないとして屋根に載せられました。ただし名古屋城のそれは、まじないの域を超えています。大量の金を使い、遠くからでも光って見えるようにした。これは城の持ち主が誰で、どれだけの力を持っているかを、言葉なしで知らせる装置です。城下の町人にも、街道を行く旅人にも、大坂から来る使者にも、同じものが見える。藩の財政が苦しくなると鯱の金を削って改鋳したという話が何度も伝わっていて、いざというときの備蓄でもありました。写真は屋根の上から間近に撮ったもので、うろこの一枚一枚が金で覆われているのがわかります。飾りであり、まじないであり、宣伝であり、蓄えでもある。ひとつの造作にこれだけの役目を持たせた例は、そう多くありません。
本丸御殿 ― 焼けて、よみがえった

畳敷きの座敷に、金地の壁いっぱいに虎と竹が描かれている。天井は格天井で、隣の部屋にも同じ意匠が続く。
名古屋城の価値は、実は天守だけではありませんでした。本丸御殿です。将軍が上洛の途中に泊まるための建物で、内部は狩野派の絵師たちの障壁画で埋めつくされていました。写真の虎と竹の絵もそのひとつです。この御殿は空襲で焼けてしまいますが、幸運なことに障壁画の多くは戦前に取り外されて別の場所へ移されており、焼失をまぬがれました。さらに、解体を前提とした詳細な実測図面と大量の写真が残されていた。復元にあたって、これらが決定的な役割を果たします。木造で、当時と同じ工法で、絵まで含めて建て直す。大洲城の天守が古写真とひな型模型によって木造で復元されたのと同じで、何が残っていたかが、何を取り戻せるかを決めました。
空襲で、すべてが焼けたのか

石垣の上にそびえる天守を、堀端の低い位置から見上げる。手前には工事の足場が組まれている。
いまの天守は鉄筋コンクリートで建てられたものです。焼失から十数年で再建され、長く名古屋のシンボルであり続けました。ただし耐震性の問題から現在は内部に入れず、木造で建て替えるかどうかが長く議論されています。木で建て直せば当時の姿に近づきますが、費用も年月もかかり、いまの建物を惜しむ声もある。大洲城のように資料がそろっていても、規模が大きくなるほど判断は難しくなります。天守をどう扱うかという問いは、名古屋にかぎらず全国の城跡が抱えているものです。
信長が育ち、秀吉が生まれた土地

「豊公誕生之地」と大きく刻まれた石柱と、その手前に立つ解説板。木立に囲まれた静かな一角。名古屋城からは西へ数キロ離れた中村区にある。
名古屋という土地は、天下人を立て続けに送り出しています。織田信長が少年期を過ごしたのが、いま名古屋城が建つ那古野の台地でした。そして写真の石碑は、名古屋城から西へ数キロ離れた中村区に立つもので、豊臣秀吉が生まれたと伝わる場所です。加藤清正の生誕地も、この近くだと伝わります。さらに東へ行けば家康の岡崎がある。信長、秀吉、家康、清正、前田利家。この一帯の狭い範囲から、戦国の終わりを動かした人間が何人も出ました。偶然というよりは、京と東国を結ぶ街道が通り、木曽三川の水運があり、濃尾平野の生産力があったという条件が重なった結果でしょう。家康が名古屋に巨大な城を築いたのも、この土地の力を知っていたからにほかなりません。
尾張徳川家と、廃城令を生き延びた城

大天守とその左に連なる小天守。ふたつは渡り廊下でつながり、下には切石を積んだ石垣が広がる。
城が完成すると、家康の九男・徳川義直が入りました。尾張徳川家の始まりで、御三家の筆頭として明治まで続きます。同じ御三家でも、水戸城が石垣も天守も持たなかったのとくらべると、名古屋城の豪華さは際立っています。役割が違ったからです。水戸は江戸の北の守り、名古屋は西の守り。西には大坂があり、外様の大大名が並んでいました。明治になると廃城令が出され、多くの城が取り壊されます。名古屋城も一度は解体が決まりましたが、途中で方針が変わり、宮内省の所管となって残りました。このとき外国公使の進言があったという話が広く伝わっていますが、誰の進言だったのか、どこまで影響したのかについては諸説あり、はっきりしません。確かなのは、取り壊しの直前で判断がひるがえったという事実のほうです。そのおかげで、この城は空襲まで当時の姿を保つことができました。
訪ね方と見どころ
所在地は愛知県名古屋市中区本丸。日本100名城の四十四番で、地下鉄の市役所駅から歩いてすぐです。まず本丸御殿へ。復元された建物と障壁画は、この城でいま最も見る価値のあるものです。畳の匂いと、金地の絵の明るさが、江戸初期の御殿がどれほど華やかだったかを教えてくれます。次に、天守だけで満足せずに三つの隅櫓を回ってください。西北隅櫓、西南隅櫓、東南隅櫓。どれも江戸の建物がそのまま残っています。本丸搦手の枡形に据えられた清正石も忘れずに。あの大きさの石を、船と修羅でここまで運んできたのだと思って見ると、天下普請の重みが伝わります。二之丸庭園も歩く価値があり、堀の深さと広さは外周をまわると実感できます。日本100名城の一覧もあわせてどうぞ。
上洛殿の障壁画を描いた狩野探幽と、江戸時代の狩野派については狩野派はどうやって江戸幕府の御用絵師になったのか:永徳の孫・探幽と奥絵師四家、京狩野、二条城・名古屋城に残る障壁画でくわしく紹介しています。
名古屋城・場所とアクセス
〒460-0031 愛知県名古屋市中区本丸1-1
