那古野城跡:五歳の吉法師が城主になった館と、名古屋城のどこにあったのか

那古野城:織田信長が初めて城主となった城

那古野城(なごやじょう)は、織田信長がはじめて城主となった城です。もとは今川氏の一族が構えた館で、これを信長の父・信秀が奪い、やがて幼い嫡男へ譲りました。天守も高石垣も持たない方形の館で、周囲を堀と土塁でかこんだ武家屋敷に近い姿だったと考えられています。城跡は現在の名古屋城の城域にあたるとされ、二之丸の一角に石碑と説明板が立っています。

この記事のポイント
  • 今川氏豊の館を織田信秀が奪い、のちに嫡男の吉法師(信長)が城主となった
  • 天守も石垣もない方形の館で、堀と土塁にかこまれた居館だった
  • 正確な位置は定まっておらず、名古屋城二之丸の一帯とする説が有力
  • 信長が清洲へ移ったのち廃され、慶長の名古屋城築城で地形ごと失われた

那古野城跡の説明板

名古屋市教育委員会が立てた那古野城跡の説明板。大永年間の築城から、信長の入城、廃城までの経緯が記されている。

目次

那古野城跡はどこにあるのか

那古野城を訪ねようとすると、目的地は名古屋城の中になります。二之丸庭園の一角に説明板と石碑があり、ここが那古野城跡とされている場所です。ただし、その足もとに天文年間の館がそのまま眠っているかというと、話はそう単純ではありません。

▽ よく語られる話
名古屋城の二之丸に「那古野城跡」の碑が立っている。つまり那古野城はあの場所にあり、信長は今の二之丸庭園のあたりで幼少期を過ごした。
▼ 史実ではこうです
碑と説明板は那古野城の記憶を伝えるために後世に立てられたもので、発掘によって館の輪郭がそのまま現れた場所を示しているわけではありません。名古屋城の築城では台地の上が大きく削られ、堀が掘られ、土が盛られています。那古野城の範囲を二之丸一帯とする説は有力ですが、もう少し西に寄せる見方や、名古屋城の本丸側にかかるとする見方もあり、確定していません。碑の位置は「このあたり」を示す目印と考えるのが正確です。

那古野という地名そのものは、城より古くから台地の上にありました。熱田の台地の北のはしで、西に庄内川、南に熱田の湊をひかえる交通の要地です。信秀がここを欲しがった理由も、信長が長く本拠に置かなかった理由も、この立地から見ると見えやすくなります。

今川の館を、織田信秀が奪う

那古野の館を構えていたのは、駿河の今川氏親の子とされる今川氏豊でした。今川氏は駿河・遠江を本国としながら、尾張のこの地にも一族を置いていたことになります。そこへ食い込んだのが、勝幡城を拠点に力を伸ばしていた織田信秀です。信秀は主家である尾張下四郡の守護代・織田大和守家に仕える立場にすぎませんでしたが、津島や熱田の湊がもたらす富を背景に、主家をしのぐ勢いを持っていました。

信秀が那古野城を手に入れた経緯は、連歌の会を通じて氏豊に近づき、館に泊まり込んだうえで内から兵を入れた、という話として伝わっています。ただしこれを記すのは後世の編纂物で、同時代の確かな史料で裏づけられているわけではありません。奪取の年についても大永年間とする説と天文初年とする説があり、はっきりしません。確かなのは、天文のはじめには那古野が信秀のものになっていたということです。

那古野を得た信秀は、三河へも手を伸ばします。松平氏の本拠だった安祥城を奪い、岡崎城の松平氏を圧迫しました。のちに人質の竹千代(のちの徳川家康)が尾張へ送られる流れも、この時期の攻勢の延長線上にあります。

五歳の吉法師が城主になる

天文七年(一五三八)ごろ、信秀は那古野城を出て南の古渡城へ移り、那古野城を嫡男の吉法師に譲りました。吉法師はのちの信長で、このとき数え五歳です。もちろん五歳の子が城を差配できるはずもなく、実際には家老の林秀貞、傅役の平手政秀らが後見しました。城主とはいえ、織田家の跡取りをこの要地に置いておく、という意味あいの人事です。

信秀はその後さらに末森城を築いて移り、晩年をそこで過ごしました。父が南へ、東へと本拠を動かしていくあいだ、信長は那古野にとどまります。天文十五年、信長は古渡城で元服し、織田三郎信長と名のりました。

那古野城跡の碑と説明板

説明板のかたわらに据えられた巨石。木立にかこまれた静かな一角で、案内がなければ城跡とは気づきにくい。

信長が「うつけ」と呼ばれた時期の生活の場が、この那古野城でした。町に出て若者たちと駆けまわり、湯漬けを立ったまま食べ、父の葬儀で位牌に抹香を投げつけた—といった逸話は『信長公記』などに残りますが、いずれも後年に信長の人物像を語るために書きとめられたもので、そのまま日常の記録として読むことはできません。ただ、熱田や津島の町がすぐ近くにあり、商人や職人の出入りする場所で育ったことは、のちの信長の政策を考えるうえで見のがせない点です。

傅役・平手政秀の死と、道三との会見

天文二十二年(一五五三)、傅役の平手政秀が自害しました。信長の奇矯なふるまいを諌めるための死だったとする話が広く知られていますが、理由には諸説あります。信秀の死後に家中で立場を失ったためとする見方、政秀の嫡子と信長のあいだに馬をめぐる不和があったためとする見方などが伝わり、どれか一つに定めることはできません。信長はのちに政秀の菩提を弔うため政秀寺を建てています。

同じころ、信長は美濃の斎藤道三と会見しました。『信長公記』は、その場所を富田の聖徳寺と記しています。現在の一宮市にあたる木曽川ぞいの地で、那古野城下ではありません。道中は異形の装いで、寺に入るときには折り目正しい姿にあらためていた、という有名な場面もここでのことです。道三はのちに岐阜城(当時の稲葉山城)の主として信長の後ろ盾となり、その死は信長が美濃へ向かう理由にもなりました。

清洲へ移り、那古野城は消える

弘治元年(一五五五)、信長は守護代の織田信友を討ち、清洲城を手に入れて本拠を移します。那古野城には叔父の織田信光が入り、その死後は林秀貞が置かれましたが、やがて城としての役目を終えました。廃城の時期は永禄年間とされますが、はっきりした記録は残っていません。信長自身も清洲から小牧山城、岐阜城、安土城と本拠を移していきます。

那古野の台地がふたたび城になるのは、半世紀あまりのちのことです。慶長十四年(一六〇九)、徳川家康が九男の義直のために名古屋城の築城を決め、西国の大名を動員した天下普請がはじまりました。城とともに清洲の町がそっくり移された、いわゆる清洲越しです。このとき台地の上は大規模に造成され、那古野城の遺構は地形ごと姿を消しました。

石垣の上に建つ名古屋城の天守

石垣ごしに見上げる名古屋城の天守。那古野城はこの城域のどこかにあったとされ、今は城の中に石碑だけが残る。

那古野城跡の訪ね方

那古野城跡の碑と説明板は、名古屋城の二之丸にあります。名古屋城の入場エリアの中なので、まず名古屋城の門をくぐることになります。地下鉄名城線の市役所駅が最寄りで、東門から入ると二之丸庭園までが近い道のりです。碑のまわりは木立と庭園で、城らしい高まりや堀は残っていません。説明板を読み、台地の広がりを目で追いながら歩くのが、この城跡の見かたになります。

同じ城域では、天下普請で積まれた石垣や、加藤清正が運んだと伝わる巨石も見られます。信長が育った土の館と、家康が築かせた総石垣の城が、同じ台地の上で時代だけをへだてて重なっている—そう考えると、二之丸のひと角がずいぶん違って見えてきます。

所在地:〒460-0031 愛知県名古屋市中区本丸1-1

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