吉野ヶ里遺跡:弥生人がV字の壕で囲んだ四十ヘクタールと、天守も石垣もない遺跡が日本100名城に選ばれた理由

吉野ヶ里遺跡:弥生時代最大の集落 日本100名城88番に選定された佐賀県吉野ケ里遺跡

吉野ヶ里遺跡は、佐賀平野の北のへりに残る弥生時代の集落跡です。天守もなければ石垣もありませんが、日本100名城の八十八番に選ばれています。理由ははっきりしていて、ここが人の攻撃に備えて土地をまるごと囲いこんだ、日本でもっとも早い時期の痕跡だからです。深さのあるV字の壕と柵でおよそ四十ヘクタールを囲い、四隅に物見櫓を立て、内側にもう一段の囲いを設けている。しかも甕棺(かめかん)からは首のない人骨や、石の矢じりが刺さったままの人骨が出ていて、その備えが空想ではなかったことを裏づけています。

この記事のポイント
  • 外環壕は断面がV字。囲われた範囲はおよそ四十ヘクタールにおよぶ
  • 柵・物見櫓・逆茂木という、のちの城とそっくりの装備がそろっている
  • 甕棺墓からは首のない人骨や、矢じりの刺さった人骨が見つかっている
  • 南内郭・北内郭という「囲いの中の囲い」があり、曲輪の考え方の原型にあたる
  • 邪馬台国だと確定した遺跡ではない。決め手となる出土品は出ていない
目次

吉野ヶ里遺跡とはどんな場所か

場所は佐賀県の神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる台地の上で、背後に脊振(せふり)山地、南に佐賀平野と有明海が開けています。水と田が得やすく、見晴らしがきき、まわりより一段高い。城を建てる者が好む条件を、弥生の人びともそのまま選んでいました。集落が営まれたのは弥生時代の前期から後期にかけてで、はじめは小さな環壕がひとつあるだけだったものが、時代が下るにつれて壕が外へ外へと掘り足され、最終的に国内でも最大級の規模になります。つまりここは、一度に設計された城ではなく、六百年ほどをかけて少しずつ増築されていった集落なのです。全容がわかったのは工業団地を造成する前の発掘調査がきっかけで、あまりの内容に造成計画のほうが止まり、保存されて特別史跡になりました。掘ってみるまで、この下に何があるか誰も知らなかったわけです。日本の「城」の始まりを探すとき、陸奥国府が置かれた多賀城跡のような古代の城柵よりさらに数百年さかのぼる例として、吉野ヶ里は必ず引き合いに出されます。

なぜ壕をV字に掘ったのか

吉野ヶ里遺跡に復元されたV字断面の外環壕と柵

復元された外環壕。断面がV字に掘られていて、底は人ひとりがやっと通れるほどの幅しかない。縁の上には柵が立てられている。

吉野ヶ里の壕は、断面がきれいなV字に掘られています。戦国の城でいう薬研堀(やげんぼり)と同じ形で、これは水を貯めるための溝ではなく、人を落とすための溝です。垂直に掘った壕なら底に立てますが、V字は底に足場がなく、両側の斜面はすべって登り返せない。落ちた者はそのまま上から狙われることになります。掘り上げた土は内側に盛られ、その上に丸太の柵が立てられました。壕の深さと土塁の高さが足し算になるので、外から見た壁は実際の掘削量よりずっと高くなる。さらに壕の斜面や底には逆茂木(さかもぎ)や乱杭を打ちこんだ跡が見つかっていて、突っこんできた相手の足を止める仕掛けまで用意されていたことがわかります。堀を掘り、土を内に盛り、上に柵を立て、斜面に障害物を仕込む。柴田勝家が賤ヶ岳で本陣を置いた玄蕃尾城のような土の城が戦国末期にやっていたことと、発想そのものは変わりません。違うのは、それが千数百年も前だったという一点だけです。

物見櫓は何を見ていたのか

吉野ヶ里遺跡の復元された竪穴住居と物見櫓、柵と環壕

復元された竪穴住居と物見櫓、そして柵。右手の門の横木には、鳥をかたどった木彫りが二羽のせられている。

園内に立つ物見櫓は、地面に残っていた柱穴の並びをもとに復元されたものです。太い柱を四本立て、高いところに床と手すりをめぐらせた形で、屋根まで載っている。ここから何を見ていたのかというと、遠くの山や海ではなく、壕のすぐ外を歩く人影です。壕と柵は近づいてくる相手を止める仕掛けですが、止めるだけでは意味がなく、近づいた瞬間に気づいて人を集められなければ囲いは役に立たない。物見櫓はそのための装置でした。中国の史書『魏志倭人伝』には、倭の国のようすとして楼観(ろうかん=物見のやぐら)と城柵を設けているという一節があり、吉野ヶ里で掘り出された柱穴の配置は、その記述とよく合います。石垣も天守もないのに城として扱われる例は後の時代にもあって、御三家の城でありながら石垣も天守も持たなかった水戸城などはその代表ですが、守りの本質が石の量ではなく、見張りと囲いの組み合わせにあることは、弥生の櫓がすでに示しています。

戦いがあった物証 ― 甕棺から出た人骨

吉野ヶ里遺跡の外から見た柵と復元建物群

柵の外側に広がる一帯。地面の細かな起伏が、地中にある遺構の位置を地表に示している。奥に見えるのが復元された建物群。

吉野ヶ里を「城の原型」と言い切れる理由は、壕や櫓の形だけではありません。ここでは大きな素焼きの甕をふたつ合わせた甕棺(かめかん)に遺体を納めて葬る習慣があり、その甕棺が二千基を超える数で見つかっています。そしてその中身が、この集落の性格をはっきり語ってしまった。首から上のない人骨、石でつくられた矢じりが骨に刺さったままの人骨、十本以上の矢を受けたとみられる人骨が、まとまって出てきたのです。転落や獣ではこうはならず、人が人を組織的に攻撃した結果としか考えられません。壕と柵は万一のための飾りではなく、実際に人が死んでいる場所の備えでした。もっとも、これがどの勢力とどの勢力の争いだったのかまではわかりません。『後漢書』などに見える倭国の大乱と結びつける見方は昔からありますが、吉野ヶ里の人骨と大乱を直接つなぐ記録はなく、そこは慎重に扱われています。

南内郭と北内郭 ― 囲いの中にもう一つの囲い

吉野ヶ里遺跡を高所から見下ろした環壕と柵、内側の復元建物

高いところから見下ろした園内。壕と柵が区画を分け、その内と外に竪穴住居や高床倉庫が並んでいる。

吉野ヶ里でおもしろいのは、外環壕で全体を囲ったうえで、その内側にさらに壕と柵で仕切った区画をいくつも設けている点です。南寄りにあるのが南内郭で、四隅に物見櫓を置き、中に大きめの竪穴住居を並べている。ここに集落を治めた者とその一族が住んでいたと考えられています。北寄りにあるのが北内郭で、こちらは住むための区画ではなく、大きな建物を中心に据えた祭りの場だったとみられています。さらにその北には北墳丘墓と呼ばれる盛り土の墓があり、歴代の有力者が葬られたと考えられていて、有柄の銅剣やガラス製の管玉といった、ふつうの甕棺からは出てこない副葬品が納められていました。外を囲い、その中で身分の高い者の区画をもう一度囲い、さらに祭りの場と墓を別に立てる。城でいう本丸・二の丸・三の丸の考え方を、弥生の人びとがすでに実行していたことになります。

高床倉庫が語るもの ― 囲う理由はここにあった

吉野ヶ里遺跡に復元された高床倉庫とネズミ返し

復元された高床倉庫。柱の上に取りつけられた円い板がネズミ返しで、梯子を外してしまえば中へは入れない。

集落の中には、床を高く上げた倉庫が何棟も復元されています。柱の途中に円い板がはめてあり、これはネズミが登って米を食い荒らすのを防ぐためのもの。梯子は取り外せるようになっていて、上げてしまえば人も簡単には入れません。つまりここは、貯えを守るための建物です。そして貯えがあるということは、奪われる理由があるということでもある。狩りと採集だけで暮らしていた時代には、そもそも一か所に富が積み上がらないので、村を壕で囲む必要がありませんでした。稲作が広まって収穫を蓄えられるようになった途端、持つ村と持たない村が生まれ、奪う理由と守る理由が同時に生まれた。吉野ヶ里の壕と柵は、米の倉庫とセットで考えて初めて意味がわかります。仙台六十二万石が天守を建てなかった理由を考えるときと同じで、城の形は見栄ではなく、何を守るのかという事情のほうから決まってくるのです。

吉野ヶ里は邪馬台国だったのか

▽ よく語られる話

環壕をめぐらせ、物見櫓を立て、祭りの場を持つ大集落。『魏志倭人伝』が描く倭の国のすがたとあまりによく似ているのだから、吉野ヶ里こそが邪馬台国だったのだろう。

▼ 史実ではこうです

似ている要素が多いのは確かで、城柵と楼観、祭りをつかさどる者の存在、甕棺に残る戦いの痕跡は、いずれも倭人伝の記述と重ねて読むことができます。ただし「ここが邪馬台国だ」と決められる出土品は、いまのところ一つも出ていません。邪馬台国がどこにあったのかという問いは九州説と畿内説がいまも並び立っていて、吉野ヶ里はその候補地の一つ、あるいは倭人伝が語る「国」のひとつの実例として扱われるのが実際のところです。文字で書かれた記録と、地面から出てきたものを突き合わせる作業は、どこでも難しい。多賀城跡に残る多賀城碑も、江戸時代から長く真偽が論じられてきた石でした。

弥生の集落が消えたあと、この平野はどうなったのか

吉野ヶ里の集落は古墳時代に入るころには衰え、環壕も埋まって、人の住む中心は別の場所へ移っていきます。もっとも、佐賀平野そのものが歴史の表舞台から消えたわけではありません。戦国期になると、この一帯は肥前の国人たちが激しく削り合う土地になり、そこから頭ひとつ抜け出したのが水ヶ江城を本拠にした龍造寺隆信でした。隆信は一時、九州北部の広い範囲を従えて「肥前の熊」と恐れられますが、島津との戦いで討たれ、家臣だった鍋島直茂が実権を握ります。直茂が蓮池城などを押さえて固めた地盤は、そのまま江戸時代の佐賀藩三十五万七千石につながり、支藩の小城城もこの流れから生まれました。弥生の環壕が埋まってから戦国の城が建つまで、この平野は千年以上ずっと、囲って守るという同じ課題を抱えつづけたことになります。

なぜ天守も石垣もない遺跡が日本100名城なのか

日本100名城の八十八番という選定に、はじめて名簿を見た人は戸惑うかもしれません。天守はなく、石垣もなく、そもそも武士がいた時代の城ですらないからです。ただ、城というものを「人が敵の攻撃を想定して、土地を区切り、囲い、見張った施設」と定義するなら、吉野ヶ里はその条件を完全に満たしています。壕があり、土塁があり、柵があり、櫓があり、内郭があり、そして攻撃を受けた痕跡の残る遺体まである。むしろ、天守や瓦や白壁といった要素のほうが、日本の城の歴史のなかでは終わりごろに付け足された装飾なのです。百の城を選ぶとき、最後の華やかな段階だけを並べたのでは、城がどこから始まったのかが抜け落ちてしまう。吉野ヶ里が入っているのは、その始まりの一点を押さえるためだと考えると腑に落ちます。日本100名城に選ばれた城の一覧を眺めてみると、石垣も天守もない城がほかにもいくつも混じっていることに気づくはずです。

見どころと訪ね方

遺跡は国営吉野ヶ里歴史公園として整備されていて、復元された建物や壕のあいだを歩いてまわれるようになっています。見ておきたいのは、まず外環壕。断面のV字を実際に上から覗きこむと、これが人を落とすための溝だということが一目でわかります。次に南内郭の物見櫓で、ここは上まで登れるので、弥生の見張りが何を見ていたのかを同じ高さから確かめられる。それから北内郭の祭殿と、北墳丘墓の内部展示。墳丘墓は掘り出された甕棺をそのままの位置で見せているので、二千基という数字が実感に変わります。日本100名城のスタンプは歴史公園の受付に置かれています。広さがあるので、ひととおり見るなら二時間はみておいたほうがよいでしょう。所在地は佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手で、JR長崎本線の吉野ヶ里公園駅、または神埼駅から歩いて十五分ほどです。九州のお城・城跡の一覧もあわせてどうぞ。

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