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和歌山城:豊臣秀長が虎伏山に築いた紀州の城と、三つの時代が層になった石垣
和歌山城は市街地のただなかにある虎伏山の上に建ち、麓から見上げると木立の向こうに白い天守群が浮かびます。徳川御三家のひとつ紀州徳川家の居城として知られ、八代将軍吉宗と十四代将軍家茂という二人の将軍をここから送り出しました。ただし城を築いたのは徳川ではありません。豊臣秀長が縄張を引き、浅野幸長が天守を整え、徳川頼宣が受け継いだ城で、石垣を見ればその三つの時代がそのまま層になって残っています。
- 秀吉の紀州攻めのあと、弟の秀長が築いたのが始まり
- 浅野幸長が大改修し、徳川頼宣が御三家の城として広げた
- 紀州青石の野面積みから切込接まで、石垣で三時代がたどれる
- 御三家で唯一、二人の将軍を出した家の城
和歌山城とは:虎伏山に築かれた連立式の城
城があるのは紀の川の河口近く、標高五十メートルに満たない虎伏山です。低い山ですが平野のなかに独立して盛り上がっているため、頂に立てば紀の川も海も城下町も一望できます。山頂の本丸に大天守と小天守、二つの櫓を多聞でつないで方形に囲む連立式の天守群が置かれ、麓の二の丸に藩主の御殿と政庁が構えられました。
連立式という形式は伊予松山城や姫路城にも見られますが、和歌山城の場合は山頂の限られた平坦地を囲いこむ形になっており、天守群そのものが本丸の壁を兼ねています。

虎伏山の上に建つ連立式の天守群。低い山だが平野のなかに独立してそびえ、城下と海を見渡せる。
誰が築いた城なのか
紀州徳川家の城という印象が強い和歌山城ですが、始まりは豊臣の時代にさかのぼります。
秀吉が紀州を攻めたときの戦いは激しいものでした。根来衆や雑賀衆の抵抗を退けるために太田城を水攻めにしたのもこの遠征で、城が築かれたのはその直後です。秀長は大和郡山に百万石を与えられて紀州も兼ねて治め、和歌山には城代として桑山重晴が置かれました。

石垣の上に続く白壁の塀と門。木の間から天守の屋根がのぞく。
紀州徳川家五十五万五千石
大坂の陣が終わった翌々年、徳川家康の十男である頼宣が駿府から和歌山へ移り、五十五万五千石で紀州徳川家を興しました。尾張、水戸とならぶ御三家の成立です。頼宣は二の丸を広げ、砂の丸や南の丸を加えて城域を倍ほどに広げ、城下町の整備にも力を入れました。付家老として新宮城に水野氏、田辺に安藤氏を置き、紀伊半島の南まで押さえています。
五代藩主の吉宗が八代将軍となり、幕府の財政改革に取り組んだことはよく知られています。さらに幕末、十三代藩主の慶福が十四代将軍家茂として江戸へ入りました。御三家のうち二人の将軍を出したのは紀州家だけで、名古屋城の尾張家や水戸城の水戸家と比べても、この家が幕政に占めた位置の大きさがわかります。
部屋住みから将軍へ:徳川吉宗
吉宗は二代藩主光貞の四男として生まれました。母の身分が高くなかったこともあり、家督とは縁のない立場で、若いころは部屋住みとして過ごしています。ところが長兄が家を継いだのちに世を去り、次の兄も相次いで没したため、思いがけず五代藩主の座が回ってきました。
藩主となった吉宗は、たび重なる災害と普請で傾いていた紀州藩の財政に手をつけます。倹約を徹底し、役人の数を減らし、年貢のとり方を改め、藩の借金を整理していきました。のちに将軍として進めた享保の改革の骨格は、この和歌山での経験でつくられたと言ってよいでしょう。七代将軍家継が幼くして亡くなり、徳川宗家の血筋が絶えたとき、御三家のなかから選ばれて江戸城へ入ったのが吉宗でした。城下には吉宗が生まれたと伝わる場所や、藩主の時代にまつわる話がいくつも残っています。
二度焼けた天守
和歌山城の天守は二度失われています。一度目は弘化三年の落雷で、このとき城は全焼に近い被害を受けました。武家諸法度のもとでは天守の再建は簡単に許されませんでしたが、御三家であることと、紀州が海防の要であることを理由に幕府が特例として認め、四年ほどで建て直されています。
二度目は戦争でした。昭和二十年の和歌山大空襲で、江戸時代の姿を保っていた天守群は焼け落ちます。国宝に指定されていた建物が失われたことになります。いま建っている天守群は戦後に鉄筋コンクリートで再建されたもので、焼失前の写真と図面をもとに外観が忠実に写されました。

石垣の上に建つ櫓門。城内には江戸時代から残る岡口門と土塀があり、いずれも重要文化財に指定されている。
石垣と庭と、斜めに架かる廊下橋
この城を歩く楽しみは、なんといっても石垣にあります。紀州青石と呼ばれる緑がかった結晶片岩を粗いまま積み上げた区画、加工して面をそろえた区画、隙間なく切りそろえた区画が、順路を歩くうちに次々と現れます。刻印の入った石も多く、普請を分担した大名の印を探しながら歩く人もいます。
西之丸には紅葉渓庭園が残り、二の丸との間には御橋廊下が架かっています。藩主と側近だけが通った屋根付きの橋で、高低差に合わせて斜めに架けられているという珍しいもので、復元されて実際に渡ることができます。傾いた床を踏みしめながら渡ると、殿様も同じ角度で歩いたのだと妙に実感が湧きます。
和歌山城・場所とアクセス
和歌山県和歌山市一番丁3。JR和歌山駅からバスで十分ほど、南海和歌山市駅からは歩いて十分ほどです。公園は自由に入れますが、天守は有料で、御橋廊下は無料で渡れます。日本100名城のスタンプは天守閣入口の券売所に置かれています。太田城(紀州)跡や新宮城とあわせれば、秀吉の紀州攻めから紀州藩の成立までを一筋でたどれます。

大天守と小天守、櫓を多聞でつないで囲む連立式の天守群。空襲で焼けたあと、外観を写して再建された。
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