真田信之のその後|関ヶ原で徳川についた兄は、九十三歳までどう生きたのか ─ 安藤政信が演じる幸村の兄、九度山への仕送りから松代藩主まで

この記事のポイント
  • 真田信之(信幸)は真田昌幸の長男で、信繁(幸村)の兄です。関ヶ原の戦いで、父と弟が豊臣方についたのに対し、ただ一人徳川方につきました
  • 戦いのあと、信之は父の旧領を受け継いで大名として家を守り、死罪とされた父と弟の命を、舅の本多忠勝とともに家康に願い出て救いました。九度山に流された二人には、その後も仕送りを続けています
  • 大坂の陣では、病のため自身は出陣せず、息子たちが徳川方として出陣して、叔父の信繁と敵味方に分かれました。元和8年(1622)には信濃の松代へ移り、十三万石の松代藩主となります
  • 信之は九十三歳まで生き、晩年には孫の代の後継ぎ争いを収めて世を去りました。真田家は松代藩主として幕末まで続いていきます

ドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』は、安藤政信さん演じる真田幸村が、関ヶ原から14年後の九度山で暮らしているところから始まります。その幸村には、関ヶ原で徳川方につき、真田の家を守った兄がいました。真田信之です。弟が九度山で耐え、大坂城で散っていったあいだ、兄はどのように生きていたのでしょうか。この記事では、関ヶ原のあとの信之の歩みを、九十三歳で亡くなるまでたどります。

松代城跡の本丸
松代城跡(長野県長野市)の本丸。信之は晩年をこの松代で過ごしました
目次

関ヶ原のあとの信之 ─ ひと目でわかる年表

年 信之のあゆみ
慶長5年(1600) 関ヶ原の戦いで徳川方につく。父の旧領を受け継ぎ、父と弟の助命を勝ち取る
慶長16年(1611) 父の昌幸が九度山で亡くなる
慶長19〜20年(1614〜15) 大坂の陣。信之は病で出陣できず、息子の信吉と信政が徳川方として出陣。弟の信繁は大坂城で討死
元和6年(1620) 妻の小松姫が亡くなる
元和8年(1622) 上田から信濃の松代へ移り、沼田とあわせて十三万石の松代藩主となる
明暦年間(1650年代半ば) 九十歳を超えて、ようやく隠居を許される
万治元年(1658) 跡を継いだ信政が亡くなり、後継ぎをめぐる騒動が起こる。同年10月17日、九十三歳で亡くなる

徳川方として家を守り、父と弟の命を救う

慶長5年(1600)、上杉征伐に向かう途中の下野国犬伏で、真田父子は二つに分かれました。昌幸と信繁は豊臣方へ、信之は徳川方へ ─ 妻の小松姫が家康の養女として嫁いだ本多忠勝の娘だったことも、信之の選択と無関係ではなかったでしょう(犬伏の別れとは ─ 真田父子はなぜ敵味方に分かれたのか)。関ヶ原で東軍が勝つと、信之は父の旧領を受け継ぎ、沼田とあわせて九万五千石の大名となりました。そして、死罪を言い渡された父と弟の命を、舅の忠勝とともに家康に願い出て救います(真田昌幸と幸村はなぜ命を救われたのか)。

このころ信之は、名を「信幸」から「信之」に改めたといわれます。父と同じ「幸」の字を捨てたのは、西軍についた父と一線を引くためだったと説明されることが多いのですが、その後もしばらく「信幸」と署名した文書が残っており、改名の理由ははっきりしていません。

九度山の父と弟を支え続けた兄

九度山に流された昌幸と信繁には収入がなく、その暮らしを支えたのが信之からの仕送りでした。昌幸は十年あまりのあいだに二十通を超える手紙を信之に送り、お金や品物を頼んでいます。信之は父の赦免も願い続けましたが許されず、慶長16年(1611)に昌幸が九度山で亡くなったときには、葬儀を営む許しを幕府に求めたものの、認められなかったとされます。徳川方の大名として家を守りながら、流人となった父と弟を見捨てない ─ 信之は、その難しい立場を十年以上続けたのです(真田昌幸と幸村はなぜ九度山に流されたのか)。

大坂の陣 ─ 息子たちと弟が敵味方に

慶長19年(1614)、弟の信繁は九度山を抜け出して大坂城に入りました。徳川方の大名である信之は、本来なら自ら兵を率いて大坂へ向かうはずでしたが、このとき病のため出陣できず、長男の信吉と次男の信政が代わりに出陣します。冬の陣・夏の陣で、真田家の若者たちは徳川方として、叔父の信繁が守る大坂城を攻めることになったのです。翌年5月、信繁は家康の本陣に迫ったのちに討死し、その子の大助も大坂城で亡くなりました(大坂の陣(冬・夏)をわかりやすく解説)。

▽ よく語られる話
信之は、弟の信繁と戦いたくなかったので、仮病を使って大坂の陣に出陣しなかった。
▼ 史実ではこうです
信之が病のため出陣せず、息子たちを代わりに出陣させたことは史料にも見えますが、それが本当の病だったのか、弟と戦うのを避けるための口実だったのかを示す史料はありません。仮病だったという話は、兄弟の物語として後世に好まれた見方のひとつです。

松代への移封 ─ 十三万石の大名に

元和6年(1620)、長年連れ添った妻の小松姫が亡くなります。その二年後の元和8年(1622)、信之は上田から信濃の松代へ移るよう命じられ、沼田とあわせて十三万石の松代藩主となりました(松代城:武田信玄の海津城から真田十代の松代藩へ)。真田家が長く根を張ってきた上田を離れることになったこの移封は、二代将軍・秀忠が上田で足止めされた恨みからの嫌がらせだったともいわれますが、北信濃の要の地を任されたという点では、信之への信頼の表れと見ることもできます。

九十三歳の長寿と、晩年の後継ぎ争い

信之は長生きをしました。隠居を何度も願い出ましたが、幕府はなかなか許さず、九十歳を超えてようやく次男の信政に家督を譲ります。ところが万治元年(1658)2月、その信政が亡くなると、信政の子でわずか二歳の幸道と、沼田を治めていた孫の信利とのあいだで、跡継ぎをめぐる争いが起こりました。幕府や親類の大名を巻き込む騒ぎになりましたが、最終的に幸道が松代藩を継ぎ、信之が再び藩政を見ることで収まり、沼田は松代から切り離されて別の藩となります。

同じ年の10月17日、信之は九十三歳で亡くなりました。父の昌幸、弟の信繁、妻の小松姫、そして息子たちにも先立たれながら、真田の家を最後まで見届けた生涯でした。その後、真田家は松代藩主として幕末まで続いていきます(真田一族の歴史 ─ 幸隆から仙台へ逃れた大八まで)。

よくある疑問

Q. 真田信之は関ヶ原のあとどうなりましたか?
A. 徳川方についた功により父の旧領を受け継いで大名となり、死罪とされた父と弟の命を救いました。のちに信濃の松代へ移って松代藩の初代藩主となり、九十三歳で亡くなりました。

Q. 信之は大坂の陣に出陣しましたか?
A. 病のため出陣せず、長男の信吉と次男の信政が代わりに徳川方として出陣しました。

Q. 信之は何歳まで生きましたか?
A. 万治元年(1658)10月17日に、九十三歳で亡くなりました。

Q. 真田家はその後どうなりましたか?
A. 信之が開いた松代藩の真田家は、幕末まで続きました。一方、弟の信繁の血筋は、次男と伝わる大八が仙台藩に仕えて仙台真田家として続いたとされます。

Q. ドラマ『真田十勇士』に信之は登場しますか?
A. 筆者が確認した時点では、信之の配役は発表されていません。ドラマで幸村を演じるのは安藤政信さんです。

まとめ

関ヶ原で徳川方を選んだ真田信之は、真田の家を守っただけでなく、死罪とされた父と弟の命を救い、九度山の二人を支え続けました。大坂の陣では息子たちが弟と敵味方に分かれ、のちに松代へ移って十三万石の大名となり、九十三歳まで生きて家の行く末を見届けます。九度山で十四年を耐えた弟と、家を背負って長い生涯を生きた兄 ─ ドラマの幸村の背後には、こうした兄の姿もありました。

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