- 大坂冬の陣は、慶長19年(1614)12月に和議が結ばれて終わりました。その条件の一つが、大坂城の堀の埋め立てでした
- 豊臣秀吉の大坂城は、本丸・二の丸・三の丸と、城下町ごと囲む惣構の、何重もの堀に守られた城でした。和議のあと、本丸を残してそのまわりの堀がほとんど埋められ、城は「本丸ばかり」の姿になりました
- 「外堀だけの約束だったのに、徳川が内堀まで埋めた」という話がよく知られていますが、和議の条件にはもともと二の丸・三の丸の取り壊しも含まれていたとする見方があります。食い違ったのは、誰がどこを埋めるかの分担と、その速さでした
- 埋め立てで守りを失った大坂城は、翌年の夏の陣で城を出て戦うしかなくなり、5月に落城しました。真田丸もこのとき取り壊されています
- いまの大阪城の石垣や堀は、豊臣の城を地中に埋めて徳川幕府が築き直したものです。秀吉の城の石垣は地下に眠っています
10月23日に始まったドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』では、九度山の幸村(安藤政信さん)がいよいよ大坂城をめざします。史実の幸村は、慶長19年(1614)に大坂城に入り、冬の陣では出城の真田丸で徳川の大軍を打ち破りました。ところが、その冬の陣のあとに結ばれた和議で、難攻不落といわれた大坂城は堀を埋められ、丸裸にされてしまいます。この記事では、豊臣の大坂城がどんな堀に守られていたのか、和議のあとどこまで埋められたのかを、模式図を使ってたどります。
秀吉の大坂城は、何重もの堀に守られていた
豊臣秀吉が築いた大坂城は、天守のある本丸を中心に、二の丸、三の丸がそのまわりを囲み、それぞれが深い堀で守られていました。さらにその外側には、城下町ごと囲いこむ惣構の堀がめぐらされていました。北は大川(淀川)、西は東横堀川、東は猫間川という川を堀の代わりに使い、南には大きな空堀を掘って、城と町を一つの大きな囲いの中に収めていたのです(大阪城:秀吉の城は地下に眠る)。
城の守りが弱いとされたのは、川のない南側でした。冬の陣で信繁がこの南側の惣構の外に真田丸を築いたのも、そこが徳川方の攻め口になると見たからです(真田丸とは)。真田丸の戦いをはじめ、徳川方は冬の陣で大坂城を力で攻め落とすことができず、家康は和議へと方針を切り替えました。

冬の陣の和議 ─ 何が約束されたのか
冬の陣の和議は、慶長19年12月に結ばれました。交渉には、徳川方から家康の側室の阿茶局と本多正純が、豊臣方から淀殿の妹の常高院(初)があたったとされます。和議の内容として伝わるのは、おおむね次のようなものです。
| 和議の条件として伝わるもの | 内容 |
|---|---|
| 城の取り壊し | 本丸を残し、二の丸・三の丸を取り壊す。惣構の堀を埋める |
| 秀頼と淀殿 | 秀頼の身の安全と領地はそのまま。淀殿は人質に出さない |
| 人質 | 代わりに、大野治長と織田有楽斎がそれぞれ身内を人質に出す |
| 浪人たち | 城に籠もった浪人の罪は問わない |
堀の埋め立てについては、惣構の堀を徳川方が、二の丸・三の丸の堀を豊臣方が埋める、という分担だったともいわれます。豊臣家にとっては、外側の守りを手放す代わりに、秀頼の身と大坂城そのものを残す取り決めでした(大野治長はなぜ籠城を選んだのか)。
堀はどこまで埋められたのか
和議が結ばれると、徳川方はすぐに埋め立ての工事に取りかかりました。多くの人足が動員され、石垣を崩し、土を運び入れて、惣構の堀から次々に埋めていきます。工事は惣構にとどまらず、豊臣方が受け持つはずだった二の丸・三の丸の堀にも及び、年が明けた慶長20年(1615)の正月のうちには、本丸のまわりの堀を残して、城の外側の堀はほとんど埋められてしまいました。真田丸も、このとき取り壊されています。

家康の側近だった金地院崇伝は、日記にこのころの大坂城のようすを「本丸ばかりにて浅間しく」なったと書き残しています(方広寺鐘銘事件とは)。何重もの堀に守られていた城が、本丸の堀一つだけで立つ、みすぼらしい姿になったのです。豊臣方は工事の進め方に抗議しましたが、聞き入れられませんでした。
堀を失った大坂城と夏の陣
堀を失った大坂城は、もはや籠城に耐えられる城ではありませんでした。和議のあとも浪人たちの多くは城にとどまり、豊臣方が埋められた堀を掘り返そうとしているといううわさも流れます。家康は、秀頼が大坂城を出て大和か伊勢へ移ること、浪人を城から追い出すことを求めましたが、豊臣方はこれを受け入れず、慶長20年4月、ふたたび戦が始まりました。
夏の陣では、豊臣方は城に籠もることができず、城の外へ出て戦うしかありませんでした。道明寺や八尾・若江、そして天王寺口で激しい戦いが繰り広げられ、5月7日、信繁は天王寺口で家康の本陣に突撃したのち討死します。翌5月8日、大坂城は落ち、秀頼と淀殿は自害しました(大坂の陣(冬・夏)をわかりやすく解説/大坂城に浪人はなぜ十万人も集まったのか)。

いまの大阪城で見られる堀は、徳川の堀
大坂の陣のあと、徳川幕府は豊臣の城を直して使うのではなく、焼け残った石垣の上に土を盛って埋め、その上にひと回り大きな城を新たに築きました。元和6年(1620)から十年ほどかけて、全国の大名に石を運ばせた天下普請です。いま大阪城公園で見られる高い石垣や広い堀は、すべてこの徳川の再築のときのものです。
秀吉の時代の石垣は、いまの地面の下、数メートルの深さに眠っていて、発掘調査で見つかった豊臣期の石垣の一部は、見学できるように整備されています。冬の陣のあとに埋められた堀と、夏の陣のあとに埋められた城 ─ 大坂城は二度にわたって地中に埋められたことになります(大阪城)。
ドラマ『真田十勇士』と大坂城
ドラマでは、九度山を出た幸村と十勇士が、これから大坂城で徳川との戦いに挑んでいくことになりそうです。史実の大坂城は、冬の陣ではまだ何重もの堀に守られた城で、真田丸の活躍もあって徳川の大軍を寄せつけませんでした。それが和議のあと、わずか一か月ほどで本丸だけの城に変わってしまいます(九度山から大坂城まで、幸村はどの道を通ったのか)。
ドラマの第1話では、家康(内藤剛志さん)が金地院崇伝(佐野史郎さん)の知恵を借りて豊臣家を追いつめていく姿が描かれました。冬の陣の和議と堀の埋め立ても、そうした家康の駆け引きの一つとして描かれるのかもしれません(『真田十勇士』キャスト・相関図一覧)。
よくある疑問
Q. 大坂冬の陣の和議では、何が決められたのですか?
A. 本丸を残して二の丸・三の丸を取り壊し、惣構の堀を埋めること、秀頼の身と領地はそのままにすること、淀殿の代わりに大野治長と織田有楽斎が人質を出すことなどが伝わっています。
Q. 大坂城の堀はどこまで埋められたのですか?
A. 惣構の堀に加えて、三の丸・二の丸の堀まで埋められ、本丸の堀だけが残りました。真田丸もこのとき取り壊されています。
Q. 家康は約束を破って内堀まで埋めたのですか?
A. 和議の条件には二の丸・三の丸の取り壊しも含まれていたとする見方があり、一方的なだまし討ちだったとは言い切れません。ただ、豊臣方が受け持つはずだった部分まで徳川方が一気に埋めたことに、豊臣方は抗議しています。
Q. いまの大阪城の堀は、秀吉の時代のものですか?
A. いいえ。いまの石垣や堀は、大坂の陣のあとに徳川幕府が築き直したものです。秀吉の時代の石垣は地下に埋まっています。
まとめ
秀吉の大坂城は、本丸・二の丸・三の丸と惣構の何重もの堀に守られた城でしたが、冬の陣の和議のあと、本丸の堀を残してほとんどが埋められ、「本丸ばかり」の姿になりました。「だまし討ちで内堀まで埋めた」という話には誇張もありますが、堀を失ったことで豊臣方は籠城という戦い方を奪われ、翌年の夏の陣で城を出て戦うしかなくなりました。九度山を出た幸村が守ろうとした大坂城は、こうして最後の戦いの舞台になっていきます。
よくある疑問
Q. 真田幸村はいつ九度山を抜け出したのですか?
A. 慶長19年(1614)10月9日ごろとされます。翌日ごろには大坂城に入ったと考えられています。
Q. どうやって監視の目を逃れたのですか?
A. 父・昌幸の法要を名目に周辺の村人を招いて酒をふるまい、皆が酔いつぶれているあいだに出発した、という話が『名将言行録』などに伝わります。ただし後世の逸話で、史実かどうかはわかりません。
Q. 九度山の真田家を見張っていたのは誰ですか?
A. 紀伊国を治めていた浅野家です。当時の当主は浅野長晟でした。
Q. 真田の抜け穴を通って逃げたのですか?
A. いいえ。「真田の抜け穴」は昭和の調査で古墳の石室だとわかっており、信繁が使った地下道ではありません。
Q. 何人で大坂城に入ったのですか?
A. 九度山を出た一行は百人あまりとも伝わり、途中で地侍や高野山ゆかりの人びとが加わって、全体で数百人ほどになったとする見方もあります。
まとめ
真田信繁は慶長19年(1614)、豊臣秀頼の招きに応じて、浅野家の監視下にあった九度山を抜け出し、大坂城に入りました。村人を宴でもてなした隙に出発したという話は後世の逸話ですが、十四年を過ごした九度山の人びとの中には、信繁について大坂へ向かった者もいたと伝わります。ドラマの幸村たちが、どんな方法で九度山を抜け出すのか、第2話に注目です。
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