西光寺(福井市):柴田勝家とお市の墓には、遺骨がない

この記事のポイント

  • 柴田勝家とお市の方の墓は、福井市左内町の西光寺にある
  • ただしこの墓に遺骨はありません。北ノ庄城の炎とともに失われたからである
  • それでも墓が建ちました。勝家が戦の前に、住職へ供養を頼んでいたと伝わる
  • 建てたのは味方ではなく、秀吉方の武将だったという
大河ドラマ「豊臣兄弟!」第33回「北庄城の別れ」で、二人の最期が描かれました。その後を訪ねられる場所が、福井市に残っています。

放送を見たあと、「二人の墓はどこにあるのか」と調べる人は多いと思います。答えは福井市の西光寺(さいこうじ)です。お市その人の生涯はお市の方とはで書いています。JR福井駅から歩いて二十分ほど、街なかの寺です。ただ、訪ねる前に知っておいてほしいことがひとつあります。この墓には、遺骨が納められていません。

西光寺の柴田勝家公・お市の方の墓の案内板

墓所の入口に立つ福井市の案内板。「柴田勝家公・お市の方の墓」とある

目次

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遺骨のない墓

天正十一年(1583)四月二十四日、北ノ庄城は燃えました。勝家とお市は城とともに果てています。城が焼け落ちた以上、遺骨を拾い集めることはできませんでした。だから西光寺にあるのは、遺体を納めた墓ではなく供養のための塔です。

墓の形も独特で、「越前式石廟」と呼ばれる石の祠になっています。その中に五輪塔が五基納められていると伝わります。石の箱が石塔を守っている、という構えです。

▽ よく語られる話
柴田勝家とお市の方は、西光寺に眠っています。
▼ 史実ではこうです
遺骨は納められていません。北ノ庄城の炎上で回収できなかったためです。
つまりこの墓は、遺体を埋めた場所ではなく、供養するために後から建てられたものということになります。

勝家は、負けたあとのことを頼んでいた

ここからが、この寺のいちばん重い話です。勝家は賤ヶ岳へ向かう前に、西光寺の住職に自分の死後の供養を頼んでいたと伝わります。意味を考えてみます。供養を頼むということは、負けて死ぬ可能性を、本人がはっきり勘定に入れていたということです。

戦の前に験の悪いことを口にするのは、普通なら避けます。それでも頼んだのです。玄蕃尾城に本陣を置いて秀吉と対峙したとき、勝家の中では勝つ算段と、負けたときの後始末が、同時に進んでいたことになります。

この寺が勝家の菩提寺だったことにも理由があります。天正三年(1575)、越前の国主として北ノ庄に入った勝家は、岡の庄にあったこの寺に帰依し、自らの菩提所と定めて当地へ移した—と、墓のかたわらに立つ石碑に刻まれています。自分で移した寺に、自分の供養を頼んだことになります。

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柴田勝家とお市の辞世の句:夏の夜のほととぎすに、二人は何を託したのか

供養を頼んでいた男が、最期に鳥へ託したのは「名を残してくれ」でした。

墓を建てたのは、敵方の武将だった

では、この墓を建てたのは誰か。これは推測ではありません。墓の隣に立つ石碑に、はっきり刻まれています。「この墓は豊臣家の祐筆 山中山城守(長俊)の手によって建立されたと伝えられる」—と。この人は秀吉に仕えていました。つまり勝家を滅ぼした側です。

理由はかつて勝家から受けた恩に報いるためだったと伝わります。仕える相手は変わっても、受けた恩は別勘定だった、ということでしょう。敵方に回った人間が、旧主の供養塔を建てます。戦国という時代の、義理の通し方がここに出ています。前田利家が戦場を去り、佐久間盛政が助命を断ったのと同じ戦いの、また別の後日談です。

西光寺にある柴田勝家とお市の方の墓

石廟と石灯籠。右手の碑に「この墓は豊臣家の祐筆 山中山城守の手によって建立されたと伝えられる」と刻まれている

三姉妹をかくまったという寺伝

もうひとつ、この寺には興味深い言い伝えがあります。北ノ庄城が落ちたとき、浅井三姉妹がこの寺にかくまわれたという話が、寺に伝わっているといいます。史料で裏づけられる話ではありません。ただ、これが面白いのは「三人が城の外へ出た」という事実と矛盾しないことです。

茶々・初・江は落城前に城を出ています。出たあと、どこかで身を置いた場所があったはずです。菩提寺は、その候補として不自然ではありません。そしてこの寺伝が本当なら、勝家とお市の最期の様子を外へ伝えられる人間が、確かにいたことになります。辞世の句がどうやって伝わったのか、という問いにもつながってきます。

勝家とお市|半年あまりの夫婦

西光寺に並んで祀られる二人が夫婦として過ごしたのは、わずか半年あまりにすぎません。天正十年(1582)、本能寺の変のあと、お市は三人の娘を連れて勝家に嫁ぎ、越前の北ノ庄城に入りました。お市はこのとき三十代半ば、勝家は六十歳前後とされます。その冬、北ノ庄は深い雪に閉ざされ、勝家は秀吉が近江で勢いを増すのを見ながら動けませんでした。雪が解けた翌年の春、勝家は賤ヶ岳へ出陣し、敗れて北ノ庄へ戻ってきます。

落城の前夜、二人は城に残った者たちと最後の酒宴を開いたと伝わります。そこで交わされたのが、夏の夜のほととぎすを詠んだ二首の辞世です。お市は「さらぬだに うちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ ほととぎすかな」と詠み、勝家は「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」と返しました。短い夏の夜の夢に重ねて、自分たちの名を後の世まで伝えてほしいと、ほととぎすに託したのです。西光寺で二人が並んで供養されているのは、この夜に交わした歌のとおり、名を残した結果とも言えます。お市の生涯はお市の方とは、二首の意味は柴田勝家とお市の辞世の句、なぜ二人が夫婦になったのかはお市の方はなぜ柴田勝家と再婚したのかで書いています。

境内に残るもの

西光寺には、ほかにも見ておきたいものがあります。

西光寺の柴田勝家公愛用の梅

「柴田勝家公愛用の梅」。立札によれば昭和二十年の福井空襲で被災しながら、いまも生きている

  • 柴田勝家公資料館……勝家の遺品などを展示。一階に勝家とお市の像があります。かつての木像は福井空襲で焼失したという
  • 樹齢およそ四百年の梅……勝家が愛したと伝わる木。空襲のあとも花を咲かせたと伝えられる
  • 北ノ庄城の礎石……境内に置かれている大きな石。立札に「明治七年 北の方城ノ内濠跡を整地した際発堀されたものである」とある

西光寺境内にある北ノ庄城の礎石

境内の北ノ庄城礎石。燃えた城の、確かな残りものである

寺そのものは光明山西光寺、天台真盛宗。延徳元年(1489)の開山と伝わるので、勝家より百年ちかく古い寺です。一乗谷の朝倉氏の時代からこの地にあった寺が、朝倉滅亡で焼け、勝家の手で建て直された—という流れになります。

いまも、命日に法要がある

墓所の案内板に、さらりとこう書かれています。毎年四月二十四日、二人の命日に祭が催されている—と。天正十一年四月二十四日から、四百四十年あまり。遺骨のない墓に、いまも毎年、人が集まっています。

供養を頼んだ本人はとうにいません。頼まれた住職も、墓を建てた山中長俊も、とうにいません。それでも約束のほうだけが、代替わりしながら続いています。

訪ねるときに

柴田勝家公資料館の拝観には事前連絡が必要です。ふらりと立ち寄って必ず見られる、という場所ではありません。

  • 拝観時間……12:00〜16:00(要事前連絡)
  • 拝観料……300円(中学生以下は無料)
  • 駐車場……なし

市街地の寺なので、車で行く場合は周辺の駐車場を使うことになります。福井駅から歩ける距離なので、柴田神社(北ノ庄城址)とあわせて歩いて回るのが現実的だと思います。※拝観条件は変わることがあります。訪問前に最新情報をご確認ください。

よくある質問

Q. 柴田勝家とお市の墓はどこにありますか?
A. 福井県福井市左内町の西光寺です。JR福井駅から徒歩約17分、北陸自動車道福井ICから車で約12分です。

Q. 墓に遺骨はありますか?
A. ありません。北ノ庄城の落城・炎上により遺骨は回収できませんでした。供養のための塔です。

Q. 誰でも参拝できますか?
A. 柴田勝家公資料館の拝観は12:00〜16:00で、事前連絡が必要です。拝観料は300円(中学生以下無料)。駐車場はありません。

Q. 北ノ庄城址とは別の場所ですか?
A. 別の場所です。北ノ庄城址(柴田神社)は福井県庁の近く、西光寺は左内町にあります。どちらも福井駅から歩ける範囲です。

アクセス

〒918-8002 福井県福井市左内町8-21
天台真盛宗 光明山 西光寺 電話 0776-36-1528
JR福井駅から徒歩約17分/北陸自動車道「福井IC」から車で約12分。駐車場はありません。
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ゆかりの地をめぐる

  • 北ノ庄城(福井県福井市)… 二人が最期を迎えた城
  • 柴田神社(福井県福井市)… 城址に建つ社。三姉妹の像がある
  • 福井城址(福井県福井市)… 北ノ庄城のあとに築かれた結城秀康の城
  • 玄蕃尾城(福井県敦賀市)… 勝家が賤ヶ岳で本陣を置いた陣城
  • 一乗谷城(福井県福井市)… 朝倉氏の本拠。この寺が焼けた戦の舞台

イラストで見る武将や姫たち

■ 第33回「北庄城の別れ」をもっと深く読む

まとめ

遺骨のない墓です。それでも四百年、供養され続けてきました。頼んだのは勝家本人で、建てたのは敵方の武将で、守ってきたのは寺でした。負けた人間の墓が残るには、これだけの人手が要ります。放送で北ノ庄城が燃えるのを見たあと、その火の始末を誰かが四百年つけ続けているということを、思い出してもらえたらと思います。

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