- 柴田勝家とお市の方の墓は、福井市左内町の西光寺にある
- ただしこの墓に遺骨はない。北ノ庄城の炎とともに失われたからである
- それでも墓が建った。勝家が戦の前に、住職へ供養を頼んでいたと伝わる
- 建てたのは味方ではなく、秀吉方の武将だったという
放送を見たあと、「二人の墓はどこにあるのか」と調べる人は多いと思う。答えは福井市の西光寺(さいこうじ)である。JR福井駅から歩いて二十分ほど、街なかの寺だ。ただ、訪ねる前に知っておいてほしいことがひとつある。この墓には、遺骨が納められていない。

墓所の入口に立つ福井市の案内板。「柴田勝家公・お市の方の墓」とある
遺骨のない墓
天正十一年(1583)四月二十四日、北ノ庄城は燃えた。勝家とお市は城とともに果てている。城が焼け落ちた以上、遺骨を拾い集めることはできなかった。だから西光寺にあるのは、遺体を納めた墓ではなく供養のための塔である。
墓の形も独特で、「越前式石廟」と呼ばれる石の祠になっている。その中に五輪塔が五基納められていると伝わる。石の箱が石塔を守っている、という構えである。
勝家は、負けたあとのことを頼んでいた
ここからが、この寺のいちばん重い話である。勝家は賤ヶ岳へ向かう前に、西光寺の住職に自分の死後の供養を頼んでいたと伝わる。意味を考えてみたい。供養を頼むということは、負けて死ぬ可能性を、本人がはっきり勘定に入れていたということである。
戦の前に験の悪いことを口にするのは、普通なら避ける。それでも頼んだ。玄蕃尾城に本陣を置いて秀吉と対峙したとき、勝家の中では勝つ算段と、負けたときの後始末が、同時に進んでいたことになる。
この寺が勝家の菩提寺だったことにも理由がある。天正三年(1575)、越前の国主として北ノ庄に入った勝家は、岡の庄にあったこの寺に帰依し、自らの菩提所と定めて当地へ移した——と、墓のかたわらに立つ石碑に刻まれている。自分で移した寺に、自分の供養を頼んだことになる。
墓を建てたのは、敵方の武将だった
では、この墓を建てたのは誰か。これは推測ではない。墓の隣に立つ石碑に、はっきり刻まれている。「この墓は豊臣家の祐筆 山中山城守(長俊)の手によって建立されたと伝えられる」——と。この人は秀吉に仕えていた。つまり勝家を滅ぼした側である。
理由はかつて勝家から受けた恩に報いるためだったと伝わる。仕える相手は変わっても、受けた恩は別勘定だった、ということだろう。敵方に回った人間が、旧主の供養塔を建てる。戦国という時代の、義理の通し方がここに出ている。前田利家が戦場を去り、佐久間盛政が助命を断ったのと同じ戦いの、また別の後日談である。

石廟と石灯籠。右手の碑に「この墓は豊臣家の祐筆 山中山城守の手によって建立されたと伝えられる」と刻まれている
三姉妹をかくまったという寺伝
もうひとつ、この寺には興味深い言い伝えがある。北ノ庄城が落ちたとき、浅井三姉妹がこの寺にかくまわれたという話が、寺に伝わっているという。史料で裏づけられる話ではない。ただ、これが面白いのは「三人が城の外へ出た」という事実と矛盾しないことである。
茶々・初・江は落城前に城を出ている。出たあと、どこかで身を置いた場所があったはずだ。菩提寺は、その候補として不自然ではない。そしてこの寺伝が本当なら、勝家とお市の最期の様子を外へ伝えられる人間が、確かにいたことになる。辞世の句がどうやって伝わったのか、という問いにもつながってくる。
境内に残るもの
西光寺には、ほかにも見ておきたいものがある。

「柴田勝家公愛用の梅」。立札によれば昭和二十年の福井空襲で被災しながら、いまも生きている
- 柴田勝家公資料館……勝家の遺品などを展示。一階に勝家とお市の像がある。かつての木像は福井空襲で焼失したという
- 樹齢およそ四百年の梅……勝家が愛したと伝わる木。空襲のあとも花を咲かせたと伝えられる
- 北ノ庄城の礎石……境内に置かれている大きな石。立札に「明治七年 北の方城ノ内濠跡を整地した際発堀されたものである」とある

境内の北ノ庄城礎石。燃えた城の、確かな残りものである
寺そのものは光明山西光寺、天台真盛宗。延徳元年(1489)の開山と伝わるので、勝家より百年ちかく古い。一乗谷の朝倉氏の時代からこの地にあった寺が、朝倉滅亡で焼け、勝家の手で建て直された——という流れになる。
いまも、命日に法要がある
墓所の案内板に、さらりとこう書かれている。毎年四月二十四日、二人の命日に祭が催されている——と。天正十一年四月二十四日から、四百四十年あまり。遺骨のない墓に、いまも毎年、人が集まっている。
供養を頼んだ本人はとうにいない。頼まれた住職も、墓を建てた山中長俊も、とうにいない。それでも約束のほうだけが、代替わりしながら続いている。
訪ねるときに
柴田勝家公資料館の拝観には事前連絡が必要である。ふらりと立ち寄って必ず見られる、という場所ではない。
- 拝観時間……12:00〜16:00(要事前連絡)
- 拝観料……300円(中学生以下は無料)
- 駐車場……なし
市街地の寺なので、車で行く場合は周辺の駐車場を使うことになる。福井駅から歩ける距離なので、柴田神社(北ノ庄城址)とあわせて歩いて回るのが現実的だと思う。※拝観条件は変わることがあります。訪問前に最新情報をご確認ください。
よくある質問
Q. 柴田勝家とお市の墓はどこにありますか?
A. 福井県福井市左内町の西光寺です。JR福井駅から徒歩約17分、北陸自動車道福井ICから車で約12分です。
Q. 墓に遺骨はありますか?
A. ありません。北ノ庄城の落城・炎上により遺骨は回収できませんでした。供養のための塔です。
Q. 誰でも参拝できますか?
A. 柴田勝家公資料館の拝観は12:00〜16:00で、事前連絡が必要です。拝観料は300円(中学生以下無料)。駐車場はありません。
Q. 北ノ庄城址とは別の場所ですか?
A. 別の場所です。北ノ庄城址(柴田神社)は福井県庁の近く、西光寺は左内町にあります。どちらも福井駅から歩ける範囲です。
アクセス
〒918-8002 福井県福井市左内町8-21
天台真盛宗 光明山 西光寺 電話 0776-36-1528
JR福井駅から徒歩約17分/北陸自動車道「福井IC」から車で約12分。駐車場はありません。
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ゆかりの地をめぐる
- 北ノ庄城(福井県福井市)… 二人が最期を迎えた城
- 柴田神社(福井県福井市)… 城址に建つ社。三姉妹の像がある
- 福井城址(福井県福井市)… 北ノ庄城のあとに築かれた結城秀康の城
- 玄蕃尾城(福井県敦賀市)… 勝家が賤ヶ岳で本陣を置いた陣城
- 一乗谷城(福井県福井市)… 朝倉氏の本拠。この寺が焼けた戦の舞台
イラストで見る武将や姫たち
- 秀吉はなぜお市の方を助けなかったのか… 娘三人は城を出た。なぜ母だけが残ったのか
- お市の方はなぜ柴田勝家と再婚したのか… 信長はもういなかった。誰も命じられない結婚だった
- 柴田勝家とお市の辞世の句… 二首とも「ほととぎす」で終わる。同じ鳥に何を託したのか
- 浅井三姉妹のその後… 茶々・初・江はなぜ敵味方に分かれたのか
- 北ノ庄城の天守は本当に九層だったのか… フロイスの記録と、地表に残る石垣
- 豊臣秀長は賤ヶ岳で何をしていたのか… 秀吉が戦場を離れられた、たったひとつの理由
まとめ
遺骨のない墓である。それでも四百年、供養され続けてきた。頼んだのは勝家本人で、建てたのは敵方の武将で、守ってきたのは寺だった。負けた人間の墓が残るには、これだけの人手が要る。放送で北ノ庄城が燃えるのを見たあと、その火の始末を誰かが四百年つけ続けているということを、思い出してもらえたらと思う。
